雑文

2017年10月13日 (金)

48回衆議院選挙にあたって

 今回の衆議院総選挙について、思うところを書いてみます。

 森友・加計問題で追いつめられた安倍政権でしたが、支持率の回復と野党の体制が整わない間隙を狙って衆議院を解散させました。憲法改正も公約に掲げられました。
 民進党の解体という劇的な事態が生まれました。このような大きな政治的動きがあった時は、冷静に事態を見る必要があります。戦後史全体を俯瞰しながら、この事態は、戦後史全体のどこに位置しているのかという事を考える必要があります。

 では、簡単に戦後史をおさらいしてみましょう。(憲法・安全保障を中心に)
 
 【サンフランシスコ体制の成立】
  敗戦後の1946年、GHQが作成した憲法草案が示され、議論の結果、これを修正して現在の日本国憲法が生まれました。戦争に疲れた多くの国民にとっては、歓迎すべきものとして…。
 世界的に見れば、この時代すでに東西の冷戦が始まっていました。
 1950年に朝鮮戦争が始まりました。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれましたが、西側諸国との片面講和でした。この講和条約には、「連合国日本占領軍は、本条約効力発生後90日以内に日本から撤退すること」(第6条a)が定められていましたが、同時期に結ばれた「日米安保条約」「日米行政協定」により、米国の半占領状態が続くことになりました。
  「日米行政協定」を一言で言えば、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という協定です。(第二条1項、第三条1項)
 日本は、アメリカに従属した「反共の砦」として、共産国と対峙する西側諸国の一員となったのです。

 【砂川事件判決・司法権の従属】
 1957年の砂川事件伊達判決をめぐって、日本の司法さえもがが、対米従属であることが明らかになりました。
 自衛隊を違憲とした伊達判決は、高裁を飛び越え、ただちに最高裁に持ち込まれ、「高度に政治的問題については憲法判断はしない」」(統治行為論)という判決が下りました。後に、最高裁田中耕太郎長官は、密かにアメリカ側と接触していた事実が明らかになりました。この司法権の従属判決は現在も続いています。

 【日米安保条約の改定】
 1960年に旧「安保条約」と「日米行政協定」にかわり、新「安保条約」と「日米地位協定」が結ばれましたが、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という本質的内容は継続されました。
 「日米行政協定」→「日米地位協定+密約」という形をとなりながら…。
  日本国内には多数の米軍基地があり、米軍には日本の法律が適用されない治外法権状態は、現在も続いています。

 【再軍備と憲法改正を求めるアメリカ】
 アメリカは、朝鮮戦争下、日本に再軍備化を要請し「警察予備隊」が創設され、1954年には自衛隊となりました。
 アメリカの公文書公開により、1948年のフォレスタル国防長官時代に「日本の限定的再軍備」(ロイヤル陸軍長官答申)が、アメリカの軍首脳部の公的な方針として確定していた事が明らかになっています。この文書には、将来憲法を改定して、本格的に軍隊をもたせるための準備をやっていくことも明記されていました。
 憲法改正と海外派兵は、アメリカの基本的な要求だったのです。
  歴代自民党政府は、「専守防衛の自衛隊は合憲」という立場でした。日本社会党は、「自衛隊は憲法違反、非武装中立」を主張し、自民党と対立しました。
 自民党のリベラル的な性格を持つハト派政権は、憲法9条を口実にアメリカからの海外派兵要請をかわしつづけました。憲法9条は、アメリカからの海外派兵要請を拒否する側面も持っていました。
 タカ派といわれる中曽根首相は、憲法改正を強く主張し、「日本は不沈空母」という発言もしました。

 【東西冷戦の終結】
 1991年、ソ連の崩壊により冷戦が終結し、アメリカは世界で唯一の超大国となりました。日本の「反共の砦」、「不沈空母」の役割が終わったかに見えました。
 しかし、北朝鮮の脅威、中国の軍事力増強など、極東地域の平和への脅威を理由に、引き続き安保体制は継続しました。
  単なる継続でなく、むしろ積極的に「日米同盟は外交の基軸」論が主張されるようになりました。

 【日本社会党の崩壊】
 総評の解散、連合の結成など労働界が右へと再編されていきました。非武装・中立を主張していた日本社会党は、ジリジリと勢力を弱めていました。
 1994年、村山連立政権が誕生しました。非武装・中立を主張していた社会党は、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の路線を大転換しました。この結果、社会党は国民の支持を失い、分党・解党の道をたどりました。
 その後は、「自衛隊合憲、専守防衛論」が政治の主流となっていきました。

  【集団的自衛権・改憲の要求】
 1991年の湾岸戦争以降、アメリカの日本への海外派兵圧力が強まってきました。
 1997年には、日米ガイドラインが改定されました。(周辺事態に対応)
様々な条件付きでしたが、あいついで海外派兵を可能にする法律、PKO協力法、周辺事態法などがが成立しました。
 2000年、アーミテージ国務副長官が対日報告書で、『集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している』として、集団的自衛権の行使を求めてきました。
 小泉政権下で、イラク、アフガン戦争への協力をめぐり、テロ対策特別措置法、イラク復興特別措置法が成立しました。有事法制も整えられました。
この時期は全体として、海外派兵強化、有事法制の整備、大規模な改憲運動が進みました。
 【憲法の枠組みを乗り越え始めた第2次安倍政権】
 2015年、日米ガイドラインを改定。(協力を切れ目無く、地球規模に拡大)
  第2次安倍政権では、集団的自衛権行使を可能とする平和安全法が成立しました。
 憲法学者をはじめ、市民連合、学生組織などが、この法律は憲法違反であると一斉に批判しました。「日米同盟」の強化はついに、憲法の枠組みを壊さなければ進められない状態に到達したのです。

  【民進党の分裂と選挙の争点】
 以上のように見てくると、日本社会党の崩壊は、自衛隊は合憲かどうかをめぐっての問題でした。今回の民進党の分裂は、憲法9条を改正するかしないかをめぐる問題です。消費税の使い道や社会保障の進め方で分裂したのではありません。
 選挙の争点は、まちがいなく「憲法改正」です。今回の選挙は、戦後史の中で、初めて本格的に憲法改正が問われる選挙なのです。マスコミはあれこれ面白く報道するので、選挙の争点が見えにくくなっています。「チガウダロ~!」と叫びたくなります。

 【北朝鮮危機をめぐって】
 ならずもの国家・北朝鮮を巡る最悪のシナリオは、「アメリカ軍の軍事攻撃→北朝鮮による日本の米軍基地への核攻撃」です。戦後史の中で、日本が核攻撃をうけるかもしれない最大の危機が迫っています。自民党の6割、維新の9割の議員が、アメリカの軍事オプションに賛成という報道があります。軍事行動をちらつかせるトランプ大統領に追随するとは、危険かつ愚かです。日本が核攻撃を受ける危険を孕んでいます。
 「話し合いは無駄だ。必要なのは圧力だ」という主張は、戦後史全体を俯瞰すれば、海外派兵と憲法改正に親和性のある主張です。
 一番の基本的な問題は、アメリカ軍の基地が日本に多数存在することです。
 「日本はアメリカの核の傘で守られている」、「日米同盟は外交の基軸」。これらの意見を克服し、アメリカ追随国家から自立する必要があると考えます。被爆国でありながら、核兵器禁止条約に署名しない国など、あり得ないでしょう。

  「北朝鮮問題は話し合いで…」は当然の主張ですが、どこで、誰が、何を話し合うのかが問題です。「アメリカと北朝鮮が二国間で…」という中国などの主張は無責任です。中国は朝鮮戦争の片方の当事者です。もう片方の当事者は国連軍です。
 話し合いの舞台は当然国連です。武力による威嚇は国連憲章違反です。
 核兵器禁止と国家の主権を尊重した、朝鮮戦争終結についての話し合いです。
   (これは私論です。)
  選挙の投票先は難しくないですね。

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2017年9月 1日 (金)

原民喜詩集を読む

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  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、原爆詩人として知られている原民喜です。彼は、自らの自画像を描く言葉として、「死と愛と孤独」という言葉を残しています。この詩人はどのように生き、そして、なぜ自死したのでしょうか? その生涯を追ってみます。

明治38年(1905年)、広島市幟町で12人きょうだいの五男として生まれます。
12歳の時、父を亡くし、この頃より極端に無口で内向的な少年となっていきます。

13歳の時、聖書の世界を教えてくれた姉を亡くします。
 形見として譲り受けた青い表紙の聖書を、彼は生涯愛読していたそうです。姉の死に向き合い、彼はさらに寡黙な人へとなっていきます。
 証言によれば中学時代、彼の声を聞いたことがない級友もいたとか。

19歳で慶応大学予科に入学。熱心な文学活動。日本赤色救援会などの活動に参加。
 しかし、寡黙で人付き合いは出来にくかったようです。

27歳で、大学英文科を卒業。就職難の時代でダンス教習所の受付として働きます。
 女性と同棲したり、自殺を図ったり、荒れた生活だったようです。

28歳。まわりの勧めにより貞恵と結婚。
 この貞恵は、気さくで明るく、利発な女性だったようです。民樹の文学を信頼し、無口で人付き合いの出来にくい民樹を支え、励まし続けました。
 後に彼は、「人と逢ふ時には大概、妻が傍から彼のかはりに喋っていた」(遙かな旅)と回想しています。また、「死と愛と孤独」という作品の中で、
 ~♪嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。♪~
と書き残しています。
 貞恵は、彼の耳となり、口となり、よき読者として彼を支えたのです。
 しかし、このような関係はいつまでも続くわけではありません。

 ~♪「そら」 (小さな庭)
おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかったのだ。うごけないからだゆえ朝の訪れが待ちどおしかったのだ。♪~

 ~♪「病室」 (小さな庭)
おまえの声はもう細っていたのに、咳ばかりは思ひきり大きかった。どこにそんな力が潜んでいるのか、咳は真夜中を選んで現れた。それはかたはらにいても堪えがたいのに、まるでおまへを揉みくちゃにするような発作であった。嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどっても、病室の嘆きはうつろはなかった。嘆きはあった、……そして、じっと祈っているおまえのけはひも。 ♪~

39歳。肺結核に罹り病床にあった妻を、彼はついに亡くしてしまいます。
 ~♪もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……♪~(遙かな旅)
  妻に死に別れた彼は、毎夜、妻の幻と対話し、妻へ宛た手記を書きながら、悲しい美しい一冊の詩集を残すために生きていきます。

40歳。家業を手伝うため広島の兄の家に疎開。すべて運命のいたずらか、ここで原子爆弾に被爆。彼は、頑丈な厠にいたため奇跡的に生き残ります。
 
 ~♪「コレガ人間ナノデス」
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス   ♪~ (原爆小景)

~♪「水ヲ下サイ」
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
………   ♪~  (原爆小景)

 彼は、原爆の惨状を目の当たりにして、「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよう」と決意します。
 ~♪自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に操返し操返し云いきかせた。それは僕の息づかいや涙と同じようになっていた。
………
 僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
………  ♪~ (鎮魂歌)

 彼は心の苦しみに耐えながらも必死に、「原爆小景」などの詩や被爆の体験を綴った三部作、「壊滅の序曲」、「夏の花」、「廃墟から」などを書き上げます。
 彼の作品は、自分の主義主張を表明したり、原爆の悲惨さを強調し、反戦・平和を訴えるといった作品ではありません。父や肉親の死、愛する妻の死、そして原爆による多くの人の死、その死の意味を自らに問いかけ、すべての死者の魂を鎮魂する歌、というべき作品を書き残したのでした。
 「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう」と思いつつも、被爆の体験を書き残すために、5年間も生き延びた彼の精神に、危機が迫っていきます。

~♪…私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。……
 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。♪~(死と愛と孤独)。
  
~♪「悲歌」
………
すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに ♪~   (魔のひととき)

45歳。1915年(昭和26年)。朝鮮戦争が戦われ、原爆の使用が噂される時代、彼はついに電車の線路に横たわります。 「死と愛と孤独」の詩人の最後でした。
   ******
 広島の平和記念公園の爆心地近くに、彼の碑が建てられています。そこには、死の数ヶ月前に書かれたと言われている、彼の詩が刻まれています。
 ~♪「碑銘」
遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻   ♪~

 彼の作品は、「戦後民主主義」といったものからは無縁だと思います。彼の中にあるのは、自らも含めた、すべての死者に対する鎮魂の祈りです。次々と死んでいった肉親。花を愛し自分を支えてくれた妻。多くの被爆者。死を見つめ続けた詩人は、その生涯の最後の時、「崩れ墜つ天地のまなか」に、自らの魂を鎮魂するかのごとくに咲く「一輪の花の幻」を見たのです。

 最後に、彼の祈りのような詩を一つ鑑賞して終わりにします。
 ~♪「永遠のみどり」
ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ      ♪~

  *原民喜の作品の多くは、青空文庫で読むことが出来ます。お薦めします。

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2017年8月17日 (木)

村上昭夫詩集「動物哀歌」を読む

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 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、肺結核のため41歳の若さで亡くなった村上昭夫の場合をみていきます。
 彼の手になる詩集は、「動物哀歌」という詩集一冊のみで、近現代詩人の中では、あまり知られていない詩人かも知れません。

 では、年譜にしたがって略歴をみていきます。
昭和2年(1927):岩手県、現在の陸前高田市に生まれる。
昭和20年(1945)18歳:岩手中学卒業。
 官吏として満州ハルビンに渡り、臨時徴兵。敗戦。捕虜生活。
昭和21年(1946)19歳:帰国。翌年、盛岡郵便局に就職。
 職場での合唱や文化活動に励む。
昭和25年(1950)23歳:結核発症。3年間岩手サナトリウム入院。
 入院を機に、俳句や詩を書き始める。
 退院後、野良犬クロとの出会い。
昭和30年(1955)28歳:病気により郵便局を免職。
 雑誌などに投稿。詩人クラブの活動。
昭和34年(1959)32歳:仙台厚生病院入院。
 右肺切除。入院は3年に及ぶ。
昭和40年(1965)38歳:国立盛岡療養所に入院。 
昭和42年(1967)40歳:詩集「動物哀歌」上梓。土井晩翠賞を受賞。
昭和43年(1968)41歳:10月、41歳で永眠。全身衰弱。

 年譜からも分かるように、村上昭夫は、病気を契機に詩を作り始め、病気と向き合いながら詩をつくり、長くない一生を終えました。
 もっともよく知られた「雁の声」という詩をみてみましょう。

 ~♪「雁の声」
雁の声を聞いた
雁の渡ってゆく声は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

私は治らない病気を持っているから
それで 雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

雁の渡ってゆく姿を
私なら見れると思う
雁のゆきつく先のところを
私なら知れると思う
雁をそこまで行って抱けるのは
私よりほかないのだと思う

雁の声を聞いたのだ
雁の一心に渡ってゆくあの声を
私は聞いたのだ   ♪~

 彼の詩は、いつも宇宙的広がりを見据えながら展開していきます。
 宇宙の深淵へと遙かに渡っていく雁。不治の病であるがゆえに、彼は雁の哀しみの声を聞くことが出来たのです。その宇宙の深淵で、雁の哀しみと命を抱きしめることが出来るのは、彼だけなのです。…… 自然の摂理により消えていく命。自らの死の予感から、彼は、動物の哀しみと自分自身を重ね、哀しいまでの透明な眼差しで宇宙の深淵をのぞき見たのです。

  彼が「動物哀歌」の詩を書くきっかけは、野良犬クロとの出会いです。川を流されていた子犬を拾い、クロと名づけ、家の縁の下を住み家として与えます。後に彼は、「動物哀歌はすべてクロが作ってくれたようなもんだ」と語っていたそうです。
 いくつかある犬の詩の中から一つ紹介してみます。
 ~♪「犬」
犬よ
それがお前の遠吠えではないのか
 ……
お前の遠吠えする声の方向に
死なせるものや愛させるもの
別れさせるものが
目も眩むばかりにおいてあって
お前はそれを誰も知らない間に
密かに地上に呼んでいるのではないか

だがお前はひるになると
 ……
愛くるしい目を向けたりする
真実忠実な犬でしかないように
嘘の姿を見せるのだ ♪~

 忠実な犬。嘘の姿でしか生きられない哀しい存在。死や愛や別離を隠し生きる犬。
荒野の月に向かって吠える犬の遠吠えに、彼は聞くのです。生きることの哀しさ、命の愛おしさを……。
 嘘の姿を生きる飼い犬。おびえながら生きる野良犬。弱々しいもの、滅びゆくものへの限りない共感。彼は、動物たちへの共感を通して、死を見つめて生きようとする自らの意志、生きることの哀しさ、命の尊厳を詠ったのです。

 彼の詩に登場する動物は多いです。犬を初めとして、鶴、鹿、すずめ、熱帯魚、雁、鳶、鴉、、鳩、リス、牛、ねずみ、深海魚、象、熊、猿、蛇、虎、蜥蜴、あざらし、キリギリス、ウミネコ……略……。 その中から「ねずみ」の詩を紹介してみます。

 ~♪ 「ねずみ」
ねずみを苦しめてごらん
そのために世界の半分は苦しむ

ねずみに血を吐かしてごらん
そのために世界の半分は血を吐く

そのようにして
一切のいきものをいじめてごらん
そのために
世界はふたつにさける
 ……
一匹のねずみが愛されない限り
世界の半分は
愛されないのだと ♪~

 弱いものの命の尊厳が侵されるとき、世界は二つに裂けるのです。一匹のねずみが愛されない世界では、もはや世界の半分は愛されないのです。死を予感した彼の透明な眼差しは、世界の奥底に隠された真実を見抜いているのです。

 ~♪「五億年」
五億年の雨が降り
五億年の雪が降り
それから私は
何処にもいなくなる

闘いという闘いが総て終わりを告げ
一匹の虫だけが静かにうたっている
その時
例えばコオロギのようなものかも知れない
五億年以前を鳴いたという
その無量のかなしみをこめて
星雲いっぱいにしんしんと鳴いている
その時
私はもう何処にもいなくなる
しつこかった私の影さえも溶解している
  ……  ♪~

 五億年の遙かな時間の流れ。「闘いが総て終わりを告げ/一匹の虫だけが静かにうたっている」宇宙。五億年の雨が降り、雪が降る宇宙。彼は、その宇宙の中を動物たちの無量の哀しみを抱き、影とともに宇宙のなかへと溶解し、「何処にもいなくなる」のです。 自らの死の悲しみを動物たちに投影し、その動物たちを抱きしめ、遙かな時空の果てへと歩み去った詩人、村上昭夫は41歳で永眠しました。
    ******
 宇宙を吹き渡る郷愁の風に吹かれ、微かな光を求めて億光年を歩み続けると、そこにはすべての命の故郷があるのです。そこでは、動物の哀しみと人の哀しみが共鳴し、お互いを抱きしめ合うことが出来るのです。そんな故郷を目ざして村上昭夫は旅立っていったと私には思えます。
 失われていく自然の原風景への哀しみが滲む「精霊船」。「都会の牛」。
 満州での戦争体験を滲ませた「死んだ牛」。「砂丘のうた」。
  「砂丘のうた」では、「もう殺しあったりすることなんかない/海を越えた愛のうたを」と詠います。いろいろ紹介したいですが、スペースが無くなりました。
 村上昭夫詩集、お薦めします。          では。 また。

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2017年7月20日 (木)

新美南吉の詩を読む

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  夭逝の詩人は、どのように死と向きあったのでしょうか。今回は、29歳の若さで亡くなった新美南吉です。
 新美南吉は、「ごんぎつね」などの童話作家として有名です。「ごんぎつね」は、1956年に小学四年の国語教科書に初めて採用され、1980年からはすべての教科書に採用されました。50歳以下の人ならだれでも知っていることになります。童話作家としてあまりに有名になったため、詩人としての新美南吉はあまり知られていないようです。
 では、新美南吉の作品と生涯を追っていきましょう。

 南吉は、1913年(大正2年)、愛知県半田に生まれました。本名は「渡辺正八」。
南吉は四歳の時、母を亡くします。父が再婚し、継母の元で育てられますが離婚。生母のの実家、新美家の養子になりますが、養母との二人暮らしに耐えられず逃げ帰ります。このように、南吉はめぐまれない少年時代を送ります。
  南吉17歳の時の短歌です。傷ついた想い出を歌っています。
 ~♪まま母と あらがいてのち家出ぬ 赤きけいとう うつつなく見る~♪

 18歳で半田中学校を卒業。体が病弱だったため、師範学校の試験に不合格。半田第二小学校の代用教員となります。この頃から、鈴木三重吉が創刊した児童文学誌「赤い鳥」に投稿を始めます。「赤い鳥」に初掲載された「窓」という詩をみてみましょう。
 ~♪「窓」
窓をあければ
風がくる、風がくる
 光った風がふいてくる

窓をあければ
こえがくる、こえがくる
 遠い子どものこえがくる

窓をあければ
空がくる、空がくる
 こはくのような空がくる ♪~

 窓を開ければ、光った風、子どもの声、琥珀色の空。南吉の澄んだ目を感じます。同じ頃作られた「光」という詩では、~♪……人は光の中にいる。/神も光のなかにいる。♪~と、光に満ちた信仰的思いを感じさせる詩を作っています。
 
 19歳で、東京外国語学校英文科に進学します。彼の童話の代表作である「ごんぎつね」や「手袋を買いに」は、この時期の作品です。
  「ごんぎつね」では、きつねは心のつながりを求めますが、悲劇的結末が待っています。「手袋を買いに」では、汚れのない無邪気な子どもの心のみが、心と心をつなげることに成功します。
 生きてゆくことの孤独。他者と心をつなげたいという心情。これらは、南吉童話の底流を流れています。南吉の恵まれない生い立ちを反映したものであると思います。

 21歳で、結核による喀血。帰郷。静養。精神的挫折。この頃より、自己の内面や背後に死を感じさせる詩作が多くなっていきます。この頃書かれた「墓碑銘」という詩をみてみましょう。
~♪ 「墓碑銘」
  この石の上を過ぎる
 小鳥たちよ。
 しばしここに翼をやすめよ。
 この石の下に眠っているのは、
 おまえたちの仲間のひとりだ。
 何かのまちがいで、
 人間に生まれてしまったけれど、
 ・・・・・・
 人間のしゃべる憎しみといつわりの言葉より、 
 おまえたちの
 よろこびと悲しみの純粋な言葉を愛した。
 ・・・・・・
 彼には人間たちのように
 おたがいを傷つけあって生きる勇気は、
 とてもなかった。
 ・・・・・・
 彼は逃げてばかりいた。
 けれど現実の冷たい風は、
 ゆく先き、ゆく先きへ追っかけていって、
 彼の青い灯を消そうとした。
 ・・・・・・
 彼はある日死んでしまった。
 小鳥たちよ、
 真実、彼はおまえたちを好きであった。
 ・・・・・・
 小鳥よ、ときどきここへ遊びにきておくれ。
 そこで歌ってきかせておくれ。
 ・・・・・・
 彼はこの墓碑銘を、
 おまえたちの言葉で書けないことを、
 ややこしい人間の言葉でしか書けないことを、
 かえすがえす残念に思う。  ♪~

 「憎しみといつわりの言葉」より、「よろこびと悲しみの純粋な言葉」を愛したい自分。しかし、現実に立ち向かえない弱い自分。近づいてくる死。深刻な生と心の危機。南吉は、詩をつくることにより、傷ついた心を乗り越えていきます。
  22歳で、再び上京。東京外語を卒業するも、再び喀血し帰郷。時々自殺を考える苦しい生活を送ります。思いを寄せていた女性が結婚するということもありました。この時期に書かれた「わが靴の破れたるごとく」という詩をみてみましょう。

~♪「わが靴の破れたるごとく」
 わが靴の破れたるごとく
 わがこころまた破れたり
  靑やかに美しかりし
 かの若き日の感傷は乾からび
 今ははや
 まことにいたみ凋(しぼ)みたる
 かなしき傷痕のみ
 その破れたる心抱きて
 今宵また氷雨しみらなる
 暗き街々をさまよへば
 わが靴は心とともに
 憐れに貧しく
 しみしみと泣くなり   ♪~

 25歳で、安城高等女学校の英語教師として就職することができます。。生徒と共に詩集を作ったり、しばらくの充実した生活を送ります。
  28歳で、結核は腎臓へと進行。死を覚悟し遺書を書きます。日記には、病気や死に関する記述が多くなります。
 29歳。1月12日の日記です。
 <……朝目がさめるとすぐ病気のことが頭に来た。しかし恐怖感はなかった。「死」にも馴れることが出来るものだなと思った。貧乏や失恋に馴れることが出来るように。…新しい生活が始まったのである。腎臓結核(つまり死)との新婚生活が。……>

 死を覚悟しながらも南吉は、最後の力をふりしぼり童話を書き続けます。「おじいさんのランプ」、「牛をつないだ椿の木」、「ごんごろ鐘」、「花の木村と盗人たち」など、後期の名作を残します。
  26歳頃の童話作品「最後の胡弓ひき」では、時代の潮流に取り残された胡弓弾きと味噌屋の主人との心の交流、失われゆくものや滅びゆくものの哀惜の念が描かれます。
 しかし、後期作品の「おじいさんのランプ」では、時代の流れを感じとったランプ売りのおじいさんは、きっぱりとランプに別れを告げ、人々の内面を照らす本を売る商売を始めます。
 「ごんごろ鐘」では、「古いものは新しいものに生まれかわって、はじめて役立つということに違いない。」と、童話の最後を締めくくっています。古いものは新しいものに変わっていく、自らもまた同じであると……。
 「牛をつないだ椿の木」では、日露戦争へ出征する主人公は、自らの一生の仕事として、旅人や村人のために井戸を堀ります。南吉は、激しく移り変わる時代の流れの中で、自らの死を自覚し、井戸水のように澄んだ作品を後世に残そうとしたのだと思います。
 30歳を迎える年の3月に、死を自覚して退職届けと父への遺言状を書きます。自らの作品を後の世に託し、29歳で永眠しました。
                *********
 スペースが少なくて、十分に詩を紹介することが出来ませんでしたが、私の一番のお薦めの詩は、「疲レタ少年ノタビ」です。死に対する南吉の姿勢が一番示されているような気がします。
 興味をもたれた方は、「新美南吉童話集(岩波文庫)」、「新美南吉詩集(ハルキ文庫)」をお薦めします。低価格♪
 岩崎書店の美しい日本の詩歌シリーズ、「花をうかべて―新美南吉詩集」は、分厚い装丁で、編集の仕方もなかなか良いです。ただし、文庫本2冊分の値段。    
「デデムシ 新美南吉詩歌集」石川勝治・斎藤卓志編集(春風社 )は、年代順に作品が読め、短歌、俳句作品も掲載されている優れものです。1944円。(アマゾン)

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2017年6月30日 (金)

年金問題、最低限の理解

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  暇に任せて、図書館から年金問題についてのいろいろな本を借りてきて、猛勉強してみました。制度の大まかな成り立ちや問題点について、自分なりに理解できた範囲で問題点を解説してみます。
 年金制度は複雑な経緯を辿っており、多くの人が理解不足と不信・不満のかたまりとなっています。政治家や評論家がメディアを通じてあれこれ発言し、何が真実か解らなくなり、やたら不安がかき立てられています。次のような意見もよく耳にします。

 ◎年金未納者が多く、今の年金制度は間もなく破綻する。若い世代は老人になった時、年金はもらえないかもしれない。
 ◎高齢化社会が進み、社会保障費は増加の一途である。年金についても消費税を増税して、その財源で年金を支えるべきだ。
 ◎今の老人は年金をもらいすぎている。人口減少で現役世代に大きな負担がかかっている。現在の年金支給額は切り下げるべきだ。
 ◎保険料を未納にし、それを積み立ておくか、民間の年金保険にした方が得だ。
 ◎GPIFが株式に投資しているが、利益が出れば年金給付が増える…等々。
 
  これらは、すべて間違った意見です。不十分ながら解説してみます。

 【公的年金は賦課方式】
 現在の公的年金制度は賦課方式をとっています。積み立て方式ではありません。この賦課方式というものを理解するだけでも、年金にまつわる間違った言説を見破ることができます。賦課方式とは何でしょうか? まずこれから解説します。
 賦課方式では、現役世代が収めた年金保険料が、年金受給世代の年金として支払われます。賦課方式は積み立て方式ではありません。いわば、川の流れのようなものです。上流から流れ込む保険料を下流で年金として受け取るわけです。「年金積立金が不足し、将来的に積立金が無くなれば、制度が破綻する」と不安を煽る人がいます。しかし、賦課方式では、原理的には積立金は不要です。積立金が不足し年金制度か破綻するということはありません。
 企業年金などの私的年金では、株式に投資し利益が出ればもらえる年金が増えます。しかし、賦課方式は、年金積立金を運用している法人・GPIFが、株式に投資して利益を出しても、それが年金支給額に反映されるという仕組みではありません。
 過去の経緯で積み上がっている積立金の株式への投資は、株価をつり上げるために利用されているだけ。しかも、民間に丸投げされていて、取り扱う銀行などが利益を手にしているだけです。公的な年金を市場運用している国はほとんどありません。
  ちなみに、企業年金などに使われている積み立て方式では、市場運用は絶対必要です。なぜなら、貯金と同じで、インフレなどに対応できないからです。

 【マクロ経済スライド】
 賦課方式の年金は、川の流れと同じです。上流からの保険料収入がある限り川は流れ続けます。しかし、人口減少、高齢化社会、インフレ、デフレ、景気の変動などがあり、この川の流れを一定に保つのは大変難しいです。そこで、2004年から導入されているのが、マクロ経済スライドという方法です。
 マクロ経済スライドを簡単に言えば、保険料が上がりすぎないように、上流側の保険料に上限を設けます。当然、下流で受け取る年金にも上限が発生します。その上で、人口減少、高齢化など将来的要素を考慮に入れて年金支給額を決定します。これにより、川の流れが維持できるようにコントロールするわけです。別の言い方をすれば、川の流れを維持するために、受け取れる年金を抑制するわけです。年金を抑制されるのは嫌だと言っても、川の流れを維持するための必要悪ということです。このように、現在の現役世代が年金世代となっても、川の流れが維持されるように人口減少や高齢化は織り込み済みで設計されています。いろいろ問題はあっても、川がすぐに干上がることはありません。
 団塊の世代が現役の頃は、高度経済成長もあり、年金会計にゆとりがありました。杜撰な年金運用もあり、年金をもらいすぎた人がいるのは確かです。しかし、マクロスライドで、徐々にゆがみは解消していっています。

 【公的年金はお得な保険】
 公的年金を払わずに、積立貯金をしたり民間の年金保険にすると、どっちが得なのでしょうか? 答えは簡単です。公的年金と同じ支払い率を持つ民間の年金保険はありません。なぜなら、国民年金には税金が投入されています。厚生年金では、保険料の半分は会社持ちです。公的年金に未加入という選択肢はありません。
 年金未納者は40%といわれています。これが社会的「悪」のように非難されることがあります。しかし、多くは、第3号被保険者や所得の低い人、学生など、法的に猶予されている人たちです。純粋な未納者は数%です。未納率が高くて年金を維持できないと騒ぐのは、問題が少しずれています。年金制度を維持するために未納者を減らす必要があるのではなく、「老後に年金をもらえない人を減らすために未納者を減らす必要がある」というのが正しい言い方です。

 【消費税と年金】
「社会保障のために消費税が必要…」という嘘から、日本人は、もういい加減に目を覚ますべきです。消費税は、貧乏人が消費しても金持ちが消費しても同じ税率です。これに対して所得税は累進課税で、所得の多い人ほどたくさん税金を払います。社会保障は、所得の多い人が、所得の少ない人を支えることにより成り立ちます。つまり社会保障は、所得の移転制度なのです。消費税には累進性がありません。社会保障の財源としては不適切です。世界の多くの国で、これは常識になっています。
 当然のことながら、消費税を年金財源にすることは間違いです。厚生年金の場合、保険料の半分は企業負担です。ここに、フラットに集めた消費税を投入することは、企業の負担を小さくすることになり、財界にとって有利な政策となります。
 消費税増税は、多国籍企業の利益を優先する新自由主義的経済政策を主張する経団連を先頭に、政界やマスコミに溢れています。政治家や評論家を評価するとき、消費税に反対か賛成かは、重要で基本的な目印です。
 公的年金の民営化を主張する人もいますが、問題外でしょう。

 【人口減少と年金】
 「日本の人口は減少している。2015年には、1人の老人を2.3人で支えていたのに、2050年には、1.3人で支えなければならない。」と、こんなふうにに言われると不安になります。2010年に8000万人あった生産年齢人口は、2030年には6700万人ほどになり、「生産年齢人口率」は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)に下がる予想です。5.7%の減少です。20年で5.7%ということは、1年あたり0.3%です。これは、経済成長でカバーできる範囲の数字です。しかし、逆に言えば、経済成長(賃金の増加)が無ければ年金制度は維持できないということになります。年金制度の安定は、経済政策から大きな影響を受けます。賃金が増えなければ、保険料収入が減り年金制度は危機に陥ります。アベノミクスにより株高で好景気といわれていますが、実質賃金は下落しています。これは年金にとって良くない方向ですね。庶民の生活にとっても…。

  【年金制度を充実させるためには】
 2013年のOECDの発表によると、日本の年金水準(所得代替率)は、下から3番目の低さです。もっと年金を充実させるためにはどうすればいいのでしょうか。
 ★「増え続ける社会保障費で国の財政が破綻する。消費税の増税が必要だ。社会保障費削減はやむを得ない。」と危機をあおっている人々が、政治の主流となっています。国の社会保障に責任を持とうとしない政治を変えることは基本として重要です。
 ★社会保障は、税の累進性によって成り立ちます。所得を正確に掌握し、所得税率を上げて、所得税の累進性を高める必要があります。法人税や所得税に対する様々な優遇税制も見直す必要があります。金融所得の分離課税は廃止しすべきでしょう。
 ★年金を支えるのは現役世代です。非正規労働が4割を超えるなど、労働環境が悪化しています。「働き方改革」などという的はずれな政策ではなく、最低賃金の引き上げや、非正規雇用の正規雇用化などをすすめ、現役世代の賃金を増やすことが必要です。これにより保険料収入を増やして年金財政を安定させることができます。
 ★様々な学者や政治家が、いろいろな年金改革を提案しています。細かい数字と数式を並べられると、ついゴマカされてしまいます。しかし、ゴマカされないために一つの目印があります。それは、高所得の人ほど負担が大きくなる「応能負担原則」が強化されているかどうかをみることです。
 例えば、標準報酬の上限を引き上げて、高所得者の保険料負担を増やすなどの政策は、すぐにでも可能です。現在、標準報酬月額の上限は、62万円に据え置かれたままです。月収が62万円の人と月収が数百万円もある人が同じ保険料は、常識的にあり得ないでしょう。また、中小企業よりも大企業の方に高額所得者が多いとすれば、厚生年金の保険料は会社と折半なので、大企業がより多くの保険料の拠出をすることにもなります。
  年金積立金を株などに投資してないで、保険料を下げるなどに有効利用することも直ぐにできることです。
 ★マクロ経済スライドルールの変更、将来的な廃止。厚生年金と国民年金の会計統合など、今後に検討すべき課題です。

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2017年6月15日 (木)

山之口貘の詩を読む

 Yamabaku
  山之口貘という詩人をご存じでしょうか? 知らない人のために、この詩人を紹介してみます。私にそのようなことをする資格があるかどうか大変疑問ですが、私の知る限りを紹介してみます。
 激動の戦前・戦中・戦後をかくもマイペースに、「僕」という生活者のままで、時流に流されず、貧困の中をユーモアを失わず生き抜いた人がいることを知るのは、私たちにとって、何か心が洗われるような気がします。

 では早速、貘さんの自己紹介から…。
  ~♪ 自己紹介 
   ここに寄り集まつた諸氏よ
   先ほどから諸氏の位置に就て考へてゐるうちに
   考へてゐる僕の姿に僕は気がついたのであります

   僕ですか?
   これはまことに自惚れるやうですが
   びんぼうなのであります                   ♪~

 山之口貘さんは、本名山口重三郎、沖縄の名家の生まれでしたが、家は破産・没落し、借金の肩代わりの下男奉公から逃れるため、那覇の公園や海辺で放浪生活を送ることになります。23歳で上京、詩を書きながら、暖房工事人夫、汲み取り屋、鉄屑運搬船の人夫、荷造り作業員、マンホールの掃除人など、職業を転々としながら生きていきます。16年間畳の上で寝ることはなかったといいます。
 貘さんは、まことにおおらかに、自らを誇れるような貧乏だったのです。

 ~♪ 存在
   …………
  僕である僕とは
  僕であるより外には仕方のない僕なのか
  おもうにそれはである
  僕のことなんか
  僕にきいてはくどくなるだけである

    なんとなればそれがである
  見さえすれば直ぐにも解る僕なんだが
  僕を見るにはそれもまた
  もう一廻わりだ
  社会のあたりを廻って来いと言いたくなる   ♪~

   汲み取り屋、マンホールの掃除人、底辺生活、…。「社会のあたり」を生き抜いてきた貘さんは、「僕」という人間の生活の現実を凛として描くことにより、社会を描いた詩人でした。
 貘さんが生きた時代は、戦争の時代でした。多くの詩人が大政翼賛、戦争賛美の詩へと傾斜する中で、友人の金子光晴氏と共に、貘さんは戦争・翼賛の詩を書かなかった数少ない詩人の一人でした。金子光晴氏は、はっきりとした反戦詩を書きましたが、獏さんは声高に反戦を主張するのではなく、ただひたすら「僕」の生活を書きました。戦争が激しくなっていく時期の「ねずみ」という詩をみてみましょう。

 ~♪ ねずみ
  生死の生をほっぽり出して
  ねずみが一匹浮彫みたいに
  往来のまんなかにもりあがっていた
  …………
  車輪が
  すべって来ては
  ねずみはだんだんひらたくなった
  ひらたくなるにしたがって
  ねずみは
  ねずみ一匹の
  ねずみでもなければ一匹でもなくなって
  その死の影すら消え果てた
  …………      ♪~

 厳しい言論弾圧の時代、個人の表現の自由は奪われていきます。検閲官は、この抵抗詩を、ただのネズミの詩として見逃しまったようです。
 戦後になっても貘さんは、「僕」の日常生活を描くことにより、社会を深く見つめる詩を書き続けました。平和。原水爆。沖縄などについて…。
 第五福竜丸事件にまつわる詩、「鮪に鰯」をみてみましょう。

 ~♪ 鮪に鰯
  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  …………
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ   ♪~

 ビキニの死の灰に脅かされ、腹立ち紛れの貘さん。「死んでもよければ鮪を食え」と言ってはみたものの、貧乏では鮪は食べられません。いつも食べている鰯の灰は火鉢の灰でした。何げない日常の生活の中に、ユーモアと鋭い社会批評が含まれています。

 ~♪  求婚の広告
 一日もはやく私は結婚したいのです
 結婚さえすれば
 私は人一倍生きていたくなるでしょう
 かように私は面白い男であると私もおもうのです
 面白い男と面白く暮したくなって
 私をおっとにしたくなって
 せんちめんたるになっている女はそこらにいませんか
 さっさと来て呉れませんか女よ
 見えもしない風を見ているかのように
 どの女があなたであるかは知らないが
 あなたを
 私は待ち侘びているのです       ♪~

  ~♪ 畳
  なんにもなかった畳のうえに
  いろんな物があらわれた
  …………
  結婚生活を呼び呼びして
  おっとになった僕があらわれた
  女房になった女があらわれた
  桐の簞笥たんすがあらわれた
  …………       ♪~

 求婚の広告に効果があったのか、金子光晴氏の世話で、貘さんは34歳でめでたく結婚します。やっと放浪生活に終止符をうちます。しかし、1963年、59歳で、胃ガンにより亡くなるまで貧乏生活は続きました。
 
 ~♪ 鼻のある結論
  ある日
  悶々としている鼻の姿を見た
  …………
  またある日
  僕は文明をかなしんだ
  詩人がどんなに詩人でも 未だに食わねば生きられないほどの
  それは非文明的な文明だった
  だから僕なんかでも 詩人であるばかりでなくて汲取屋をも兼ねていた ♪~

 貘さんは、自分の思想や主張を声高に主張するのではなく、社会の底辺や地べたの「僕」の現実を詩にすることにより、ユーモアと風刺の効いた社会批判や文明批判を書き残しました。
 詩人の高橋新吉は、「風刺詩人」、茨木のり子は「精神の貴族」と評しています。
 沖縄についての詩など、まだまだ紹介したいですが、スペースが無くなりました。
 今の時代に、ますます輝いている詩人の一人かと思います。
   山之口貘詩集(岩波文庫)、お薦めします。

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2017年6月 2日 (金)

40数年ぶりの再会

 Kyotoeki
  先日、40数年前の職場の同僚2人と再会することができました。
 京都駅中央改札の前で約束していましたが、直ぐ近くに立っていたにも拘わらずお互いが認識できず、携帯電話で話しながら確認しあうという状態でした。
 しかし、お互いを確認した後は、僅か数年間という付き合いだったにも拘わらず、その後の40年という時間の壁を遙かに超えて、何の違和感もなく、隔たりもなく、あの頃そのままに会話をすることができました。この後、3人で昼食を共にしながら、なつかしい時間を過ごしました。

 40数年前、私は、今回再会したM.Y子先生と共に、新採用教員としてY中学校に赴任しました。次の年に、U.K郎先生がやってきました。その後、M.Y子先生とは3年、U.K郎先生とは2年間の付き合いでした。3人が共有した時間は、人生全体から見れば僅かな時間でしかありません。半世紀近い前、3人の若者が偶然出会い、僅かな時間を共にし、そして別れていった、ただそれだけのことにすぎないのですが……。
 「民主教育」という言葉が、まだ輝きを持っていた時代。正しい教育のあり方を真剣に求めていた時代。自らの人間形成に大きな影響を受けた時代。そんな時代を必死に生きていたからこそ、心に深く想い出が刻まれているのだと思います。

 二人のことをほんの少しだけ紹介してみましょう。
  まず、M.Y子先生は、世界遺産の五箇山地方の出身です。少女時代は、学校へ行く前に軽く草刈りの一仕事。学校から帰ってからは、子守や夕食の支度などが日々の日課だったそうです。米作りと養蚕もやっていたため、桑の葉の取り入れから、田んぼの草とりから、農作業の手伝いは膨大だったそうです。
 「それでよくK大に合格できましたね。」と言うと、
 「世の中のすべての人が、そういう生活をしているものと、長い間思っていました。」でした。彼女にとっては、ごく普通の生活だったようです。
 大学時代の彼女は演劇部で活躍。その後、愛する先輩の後を追って京都府に就職。
 遠距離恋愛を実らせて結婚。ご主人は、高校の先生だったそうですが、定年退職後、請われて市会議員に。現在2期目に入っているそうです。家事に、合唱団に、諸活動に、持ち前の体力と精神力で忙しくしているようです。

  U.K郎先生は九州男児。九州のK大卒業。私などは、レールの上をただ平凡に走りたがる人間ですが、彼の場合は少し波乱に富んでいるようです。
 その後、しばらくして教師を退職。上を目ざして大学院へと進学。卒業後、まだネットビジネスが世間で広がる前に、ネットのプラットホーム作りを手がけたり、不動産に係わったり、いろいろやったそうです。数千万円の損を被ったこともあるとか。ネットビジネスに成功していれば、億万長者になったかも…。その後は、大阪の某有名進学校の英語教師として勤務。昨年退職を迎えたそうです。いつも前向きな彼は、まだまだこれから、人生を冒険していきそうです。

  「それじゃあ、また。」・・・二人とは、京都駅の雑踏の中で別れました。
  別れた後、言い知れぬ寂しさが湧いてきて、あの頃の想い出をたどりながら、雑踏の中を歩きました。
 半世紀近い時間を超えて、三人が心の中に共有していたものは何なのでしょうか。
 ひたむきな希望のようなもの。情熱のようなもの。時代の風のようなもの。それは、決して言葉では語ることのできない何かです。
  ・・・さよなら。また、いつかどこかで・・・・。
           ******
  「私はもう長くは生きられない。なつかしい人に再会し、お別れの言葉を言おう。」これが、今の私の目標です。
 人は記憶を失えば、自分が何者であるかさえ解らなくなってしまいます。つまり、自分の人生とは、自分自身の想い出の連鎖なのです。なつかしい想い出の人に再会するということは、その頃の自分の人生に再会するということです。
人生の節目で出会った人と再会し、想い出を語り合い、過ぎ去った自分自身の人生を再確認し、そして二度と帰らぬ日々に別れを告げていこうというわけです。
 話をしたい人はたくさんいるのですが、少々体調が思うようにいかないです。
                  では。 また。

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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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2017年5月 1日 (月)

中原中也の詩を読む

  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか、今回は中原中也をみていきます。夭逝の詩人から中原中也を外すことはできませんね。
 中原中也の詩は、中学校や高校の教科書でもよく取り扱われていて、近代詩への入り口となっています。若い人の中にファンも多いですね。詩人や研究者の方の評論もたくさん出されています。今更、一読者である素人が、稚拙な何かを言うのも畏れ多いことですが、それはそれで、素人なりに思ったままをズバリと書いてみます。 我流「中也」論。

 まず、年譜により、彼の生涯の概略を確認してみます。
★1907年(明治40年)
 山口で生まれる。父は軍医で、後に中原医院を開く。
★1923年(大正12年):16歳
 文学熱が高じ、怠学により落第。家族で協議の結果、京都の立命館中学に転校。
  京都で長谷川泰子と同棲。詩や小説に没頭する。
★1925年(大正14年):18歳
  長谷川泰子と共に上京。東京での詩作の日々が始まる。
 小林秀雄、高橋新吉、草野心平、河上徹太郎、萩原朔太郎らと交流。
★1933年(昭和8年):26歳
  遠縁の上野孝子と結婚。
  翌年、長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版。詩人としての評価も高まる。
★1936年(昭和11年):29歳
  長男文也、小児結核で死去。
★1937年(昭和12年):30歳
  「在りし日の歌」の原稿完成。結核性脳膜炎で死去。

 中也の実家は医者で、裕福な家庭の出身です。その後、彼は一生実家から援助を受け続け、生活のためにあくせく働き、世間に揉まれて生きることもありませんでした。17歳で女と同棲を始めたりして、世間一般からみれば、文学に狂った放蕩息子という感じです。逆に、良く言えば、あくせくせす純粋に詩に没頭した詩人だったといえます。
 中也にとって詩人とは、生活のためにあくせくと雑事に追われる世俗とは一線を画した、精神的特権階級だったと思います。そのため、彼は世間を高みから傍観したり、世間にとけ込めない孤独感を感じていたと思われます。「正午」という詩ををみてみましょう。
  ~♪ 「正午 ~丸ビル風景~」      (在りし日の歌)
   あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
   ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
   あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
   空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
   ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
   なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
    ・・・・
   空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな   ♪~

 この詩は、高みから世間を見下ろす中也の視点や彼の持つ孤立感、漂泊感の溢れた詩です。 次に、「倦怠」という詩をみてみましょう。
  ~♪ 「倦怠」        (生前発表詩篇)
   倦怠の谷間に落つる
   この真ッ白い光は、
   私の心を悲しませ、
   私の心を苦しくする。
    ・・・・
   たちまちにそれは心を石と化し
   人はただ寝ころぶより仕方もないのだ
   同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
   悔いながらにかぞえなければならないのだ。
    ・・・・              ♪~

 世間や外界に対して果たされずに過ぎる義務の数々。世間からの孤立感が、彼にもたらしたものは「倦怠」です。彼の詩の中に流れる主要なテーマの一つが、「倦怠」です。
 彼は、世俗との抵抗しがたい苦闘の中で、どうしようもない倦怠感を抱いていたのです。家計を営む生活者ではない、霞を喰って生きるような詩人の負い目でしょうか。
 実家に金銭的に頼らねばならない負い目、成功できない負い目、彼にとって故郷もまた、閉ざされていました。「帰郷」と「黄昏」という詩をみてみましょう。
   ~♪ 「帰郷」        (山羊の歌)
   ・・・・
  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ     ♪~

  ~♪ 「黄昏」          (山羊の歌)
   ・・・・
  なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
  草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
  畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

  ――つひに私は耕やさうとは思はない!
  ぢいつとぼんやり黄昏の中に立つて、
  なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 何も成し遂げられない自分。父親に対する負い目。彼にとって過去とは、疲れたような懐かしさや後悔の堆積する空間でした。よく知られた「頑是ない歌」でも、~♪思へば遠く来たもんだ/ 十二の冬のあの夕べ/ 港の空に鳴り響いた/ 汽笛の湯気は今いづこ・・・・と、過ぎ去った過去を後悔の念と漂泊感を滲ませながら詠います。
 このように、彼の心は、周囲に対しても過去に対しても閉ざされていました。彼は、この心の閉鎖空間の中で、「悲しみ」を詠いました。彼の詩の中に流れる主要なテーマの二つ目が、「悲しみ」です。よく知られた詩、「汚れつちまつた悲しみに……」を読みましょう。
  ~♪「汚れつちまつた悲しみに……」   (山羊の歌)
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

   汚れつちまつた悲しみは
   たとへば狐の革裘
   汚れつちまつた悲しみは
   小雪のかかつてちぢこまる

   汚れつちまつた悲しみは
   なにのぞむなくねがふなく
   汚れつちまつた悲しみは
   倦怠のうちに死を夢む

   汚れつちまつた悲しみに
   いたいたしくも怖気づき
   汚れつちまつた悲しみに
   なすところもなく日は暮れる……      ♪~

 「倦怠のうちに死を夢む」。いったいこの悲しみは、どんな悲しみなのでしょうか。どんな汚れなのでしょうか。誰が汚したのしょうか。「なすところもなく日は暮れる……」。すべては受身形の悲しみです。彼の悲しみは、閉ざされた心の中を漂うばかりです。
 また、彼の心は、未来に対しても閉ざされていました。「わが半生」をみてみます。
   ~♪ 「わが半生」        (在りし日の歌)
      ・・・・ 
   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。       ~♪

 出口の無い閉ざされた心の中の「悲しみ」と「倦怠」。過去、未来、周囲、すべての方向に閉ざされた心の世界で、彼は心の中にもう一人の自分であるピエロを住まわせることにより、心のバランスをとり自らの心を慰めていたと思われます。
  ~♪ 「幻影」        (在りし日の歌)
   私の頭の中には、いつの頃からか、
   薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
   それは、紗の服なんかを着込んで、
   そして、月光を浴びてゐるのでした。
         ・・・・    ♪~

   ~♪ 「骨」
   ホラホラ、これが僕の骨だ、
   生きてゐた時の苦労にみちた
   あのけがらはしい肉を破つて、
   しらじらと雨に洗はれ、
   ヌックと出た、骨の尖さき。
        ・・・・
      故郷ふるさとの小川のへりに、
   半ばは枯れた草に立つて、
   見てゐるのは、――僕?
   恰度立札ほどの高さに、
   骨はしらじらととんがつてゐる。    ♪~

 離人症に罹ったかのように心を分離させ、もう一人の自分であるピエロを心の中に住まわせ、故郷に骨となって立ち尽くしている自分自身を見た詩人。閉ざされた心の中で、「悲しみ」と「倦怠」を詠った詩人。中原中也は、昭和12年、わずか30歳の若さでこの世を去りました。

 昭和12年といえば、廬溝橋事件。日本は戦争の時代へと突入していきます。多くの詩人は大政翼賛へと転向していきました。そんな時代の中で、社会に対し心の扉を閉ざし、自己を心の閉鎖空間の中に沈潜させていった若者・中原中也は生きていたのです。
 今また、中也の詩が若者の心をとらえているといいます。就活競争。非正規労働。個がバラバラにされる競争社会。自己責任社会。青春に挫折し、心を病む若者がいる限り、中也の詩は今後も読み継がれていくと思います。
 では、最後に彼の「志」を微かに感じさせる詩で、締めくくりたいと思います。
  ~♪ 「月夜の浜辺」
   月夜の晩に、ボタンが一つ
   波打際に、落ちてゐた。

   それを拾つて、役立てようと
   僕は思つたわけでもないが
   なぜだかそれを捨てるに忍びず
   僕はそれを、袂に入れた。
        ・・・・
   月夜の晩に、拾つたボタンは
   どうしてそれが、捨てられようか?    ♪~

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2017年4月17日 (月)

山村暮鳥の詩を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回の夭逝詩人は、山村暮鳥をとり上げてみます。
 山村暮鳥を知らない日本人は少ないと思います。私と同世代の人は、名前くらいは必ず知っています。小学校の国語の教科書に、次の詩が取り上げられていました。
 ~♪ 「風景」
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ   ⇒☆
いちめんのなのはな

二連目の☆の部分では、「 ひばりのおしやべり」
三連目の☆の部分では、「 やめるはひるのつき」と少し変化するだけ。
 視覚的効果もねらった詩です。広々とした菜の花畑に、かすかな麦笛の音、ひばりの囀り、空には薄白く昼の月。静かな広がりの中にくっきりとした動的添景表現ですね。

  また、彼の最後の詩集『雲』もよく知られています。二つばかり紹介します。
   ~♪ 「雲」
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる       ♪~

 ~♪ 「雲」
おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか  ♪~

 山村暮鳥は、キリスト教の伝道師でした。「いちめんのなのはな」と詩集『雲』のイメージから、暮鳥は、信仰深いクリスチャンで、自然を愛する自然派詩人と思っている人もいると思いますが、それは少し違います。
 では、彼の生涯を年譜で概観しながら、作品を確認していきましょう。

 ★1884年 明治17年
  群馬県生れ。本名は土田八九十(つちだ・はつくじゅう)。複雑で貧しい家庭に生まれ、小作農の働き手をはじめとして、様々な職業を転々とながら底辺生活を送る。
  ★1903年 19歳
 東京府築地の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。 ひそかに詩を作り始める。
  ★1910年 26歳
 自由詩社同人となり、官能謳歌的詩を発表し、上級牧師より警告を受ける。
  ★1913年 30歳
 愛欲的傾向の『三人の処女』発表。萩原朔太郎、室生犀星らと「人魚詩社」設立。
  ★1915年  32歳
 詩集『聖三稜玻璃』を出版。極端な象徴派的な異色の詩。悪評を受ける。
  ★1918年  35歳
 この年、結核のため喀血する。詩風は一変し、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な傾向を強める。 『風は草木にささやいた』を発表。 
 翌年、結核のため伝道師を休職。
  ★1922年 39歳
 神を糾弾する『梢の巣にて』を刊行。
  ★1924年  40歳
 茨城県大洗町で死去。『雲』を編集。(死後一年後に出版)

 山村暮鳥はキリスト教の伝道師でありながら、彼の詩は、信仰とかけ離れた人間的欲望に根ざしたものでした。上級牧師より警告を受けたり、敬虔な信者から反発されたりしてトラブルにもなりました。詩集『聖三稜玻璃』からほんの少し一節を。
 ~♪ 「囈語」           *囈語 ←うわごと
 ・・・・
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。  ♪~

  人間の犯罪とそれから直感される言葉を並べた言葉遊びです。姦淫、殺人、墮胎……、いくら言葉遊びでも、聖職者としてこれはちょっとアウトでしょう。
 その後、暮鳥は作風を一変。今度は、自然と人間への賛歌を歌いあげる人間主義・人道主義というべき作風へと変化します。『風は草木にささやいた』より、一つだけ紹介してみます。大地と人間への賛歌です。
 ~♪ 「此處で人間は大きくなるのだ」
とつとつと脈うつ大地
その上で農夫はなにかかんがへる
此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか
雨あがり
しつとりとしめつた大地の感觸
あまりに大きな此の幸福
どつしりとからだも太れ
見ろ
なんといふ豐富さだ
此の青青とした穀物畑
このふつくりとした畝畝
このひろびろとしたところで人間は大きくなるのだ
おお脈うち脈うつ大地の健康
大槌で打つやうな美である      ♪~

 やがて、結核のため伝道師を休職します。そして、彼は神との訣別、神を糾弾する詩集『梢の巣にて』を発表します。この中の長編詩『荘厳なる苦悩者の頌栄』の一節を書き出してみましょう。
 ~♪ 荘厳なる苦悩者の頌栄
 ・・・・
神様
人間は自主です
もうあなたの奴隷ではありません
此の貴い崇高い力のうへに立つた人間
御覧ください
この人間のかゞやかしさを
光りかゞやく人間を
まるで神様です
 ・・・・
人間はめざめました
あなたはもう消えてなくならなければなりません
けれど神様
真のあなたである神様
理想としての神様
それをわたしはわれわれ人間にみつけました
眼ざめた人間がそれです
あなたに咀はれた此の大地を
ともかくも楽園とした人間です
その人間です
おゝ新しい神様                 ♪~

 神に呪われたこの大地を、ともかくも楽園としたのは人間であると…。もうかなり言いたい放題ですね。
 クリスチャン詩人八木重吉は、神に付き従うことにより、信仰と詩の矛盾を統一し、「宗教的自然派詩人」となりました。
 暮鳥は逆に、神を捨てるることにより、自然賛歌・人道主義へと到達したのです。詩集『雲』の世界は、信仰と人間主義を彼なりに統一した世界と言えます。彼は神から自立し、静かで心安らかな世界に到達したのです。
 人間派・自然派詩人、暮鳥の最後の詩集『雲』より、2つばかり紹介します。
  ~♪ 「ある時」
宗教などといふものは
もとよりないのだ
ひよろりと
天をさした一本の紫苑よ     ♪~

    ~♪ 「ある時」
またひぐらしのなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ           ♪~

 神から自立し、ひょろりと天をさした一本の紫苑。山村暮鳥はカナカナの声を聞きながら、どこかにあるいい国へと旅立ちました。 40歳でした。

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