雑文

2017年12月 5日 (火)

悪魔のティティヴィルスの話

Chuseini  今回は、中世ヨーロッパで目撃された悪魔のティティヴィルスの話です。

 この悪魔は、アイリーン・パウワー著「中世を生きる人々」(東京大学出版会)という本の中に登場しています。まずは、この本の紹介から。

  著者のアイリーン・パウアは、イギリスの中世史家です。この本は、中世のヨーロッパ社会に生きた無名の人々の姿を描いたもので、6人の人物が登場しますが、13世紀の旅行家マルコ・ポーロ以外は、まったく普通のありふれた人物です。農夫、尼僧院長、パリの主婦、羊毛商人、毛織物の織元の6人を通して、中世ヨーロッパの本音の人間生活が活き活きと描かれています。
 私たちは、中世ヨーロッパと聞けば、神聖な祈りに満ちた世界、魔女狩りや封建的因習に満ちた暗黒社会、アーサー王や騎士の恋物語などを思い浮かべますが、実際の生活がどんなだったかは、ほとんど知りません。
 人間社会ではいつの時代でも、法律や支配の抜け穴をチャッカリと生き抜く人々がいたり、欲望や喜怒哀楽に動かされながら生活する人間臭い人々がいるものです。中世のヨーロッパ社会も同じであることを、この本は教えてくれます。

  さて、悪魔のティティヴィルスの話は、第3章「マダム・エグランティーン」に出てきます。尼僧院長のエグランティーンの生活を描くことにより、中世の修道院の実態が明らかにされていきます。
  修道院といえば、禁欲的で厳粛な雰囲気を想像しますが、実際は必ずしもそうではなかったようです。
  「祈祷は空虚な形式と化し、信仰の念は薄らぎ、時には恥ずかしいほど冒涜的な態度でそそくさとすまされた。余りにもきまりきった日課が、もたらす当然の反動であった。……中世後期の修道院において時間不励行の罪はごく普通のことだった。…祈祷の間にくすくす笑い、ふざけ、喧嘩をし、下の席でうたっている人の剃った頭に上の席からあつい蝋燭の蝋を落とした。……」
 「祈祷の言葉をとばし読みする者、もぐもぐと誤魔化す者、いい加減に急ぐ者、神聖な聖歌を歌う時、ぶらぶらする者、とびはねる者。」 こんなような状況だったので、悪の父はティティヴィルスという悪魔を傭うことにしたのです。

  信仰心の深い人には、しばしばティティヴィルスは目撃されていました。長い大きな袋を首のまわりにぶら下げ、みすぼらしい姿で尼僧席の周りをウロウロしながら、不誠実な言葉を袋に集めるのです。
  修道院長に見つかり、問いつめられたティティヴィルスは答えます。
  「毎日あなた方の修道院で読んだり歌ったりする時にできる失敗、怠慢、言葉のきれはしなどを千袋ずつ主人の所に持っていかねばなりません。そうしないとひどくぶたれるのです。」
 彼は、神のためではなく自己の虚栄のために歌うテナー歌手の歌も、人々のつまらない噂話なども袋に詰めていたそうです。
 ティティヴィルスを傭った悪の父も、さぞかし満足だったことでしょう。
 
 中世ばかりでなくいつの時代も、人間は不誠実な言葉やいい加減な言葉を吐き続けています。堕落した言葉を拾い集めなければならないティティヴィルスの仕事は、際限もなく続いています。哀れなティティヴィルスに同情、いや共感してしまいます。
 宗教改革前夜の中世に目撃されたという悪魔のティティヴィルスの話、何か深く印象に残ります。
   ……………
 悪魔のティティヴィルスのその後について、この本には記述はありませんが、中世の修道院以上に堕落した現代の日本では、悪魔のティティヴィルスは忙しく働いているに違いありません。特に不実な言葉が飛び交う永田町と呼ばれる界隈では……。
 今の日本ほど、堕落した言葉が溢れ、言葉が意味を失っている時代はありません。
「丁寧な説明」とは、なにも説明しないことであり、
「働き方改革」とは、残業代を払わずに、非正規で一生働かせることであり、
「1億総活躍」とは、老人も病人も低福祉で働き続けろ、という意味です。
「人づくり革命」とは、人を潰す政策を隠すための言葉です。
「危機突破」とは、危機を振りまくことでした。
「忖度する言葉」。流行語大賞です。人を堕落させる言葉ですね。

 東京都庁方面で、ティティヴィルスを見たという噂もあります。
「東京大改革」、「日本をリセット」、「改革の一丁目一番地」。この空虚な言葉をティティヴィルスが見逃すはずはありませんね。
 現代のティティヴィルスは、どんな姿をしているんでしょうね。
 私も目撃したいものです。
  悪魔のティティヴィルスの話でした。 「中世を生きる人々」お薦めします。

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2017年11月29日 (水)

蜜柑の想い出

  Akutagawa0102 立冬も過ぎ、寒さが増して来ました。炬燵に入って蜜柑でも食べたくなる季節になりましたね。そんなわけで、今回は「蜜柑」にまつわる想い出などを書いてみます。

 芥川龍之介の作品に、「蜜柑」という短編があります。先ずは、この作品を紹介してみます。

 冬の日暮れ方、主人公の「私」は、横須賀発上りの汽車に乗ります。
「私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりとした影をとしていた。」
  発車間際に、小娘が慌ただしく駆け込んできて、「私」の前の席に座ります。
「油気のない髪を銀杏返しに結って、…皹(ひび)だらけの両頬を気持ちの悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった」
 垢じみた萌黄色の襟巻き。大きな風呂敷包みを抱いた霜焼けの手。「私」は、この小娘に対して「不快感」や「腹立たしさ」のようなものを感じるのです。
 列車がトンネルを抜け、町はずれの踏切に差しかかった時、「私」は意外な光景を目にします。
「頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。……一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分からない歓声を一生懸命に迸(ほとばし)らせた。」
  この時、この小娘は窓から身を乗り出し、蜜柑を五つ六つ、男の子たちに向かってほうり投げたのです。
 「私」は思わず息を呑み、この瞬間にすべてを理解するのです。
これから奉公先に赴こうとする娘。わざわざ踏切まで見送りに来た弟たち。
「小鳥のように声を挙げた三人の子どもたちと、その上に乱落する鮮やかな蜜柑」。
「暖かな日の色に染まっている蜜柑」。娘から弟たちへの惜別の贈り物。
「私」の心の上に、切ないほどはっきりと、この光景が焼き付けられたのです。
  ………

 まだ多くの人が貧しかった日本。娘たちは女中奉公に、男たちは丁稚奉公や工場労働者として故郷を離れていった時代。そんな時代の夕暮れの空に投げ上げられた蜜柑。鮮やかな放物線を描き落下していきました。
 およそ百年前に、芥川龍之介に目撃された蜜柑。今の時代でも、誰かがどこかで投げ上げているのでしょうか。暖かな日の色に染まった蜜柑を……。
  私の心の奥には、この蜜柑の映像が、見たわけでもないのにはっきりと記憶されています。冬のきれいな夕焼けを見ると、空に蜜柑が飛んでいるような気がします。
 芥川龍之介「蜜柑」、名作です。お薦めします。

 実は私にも、蜜柑にまつわる想い出があります。次にそれを…。僭越ながら…。

  半世紀も前のことです。年の瀬の夕刻、私は京都駅より山陰線午後18時発の列車に乗りました。学校が冬休みになり、丹後半島にある故郷に帰省するためです。汽車を降りてから、まだバスを乗り継がねばならず、この汽車が故郷に向かう実質最終列車です。私と同じ出身地の人にはよく知られた、京都駅発18時の最終列車です。
 私の目の前の席には、私と同じ年頃のちょっと可愛い女性です。私は、可愛い女性を見れば、下心を持って話しかけるなどということは、決してしないタイプの人間です。
 黙って本を読んでいた私に、その女性が、「どうぞ。食べませんか。」と、蜜柑を一つ手渡してくれたのです。その時の生温かい蜜柑の感触は今も忘れられないです。
 たどたどしく続く会話から、この女性は、私の隣町の出身で、大阪に就職し一年目の正月を故郷で過ごすために帰省するところでした。
 たどたどしく、おずおずと会話は続きました。
 この女性を楽しませようとあれこれ話題を探していましたが、数学の問題を解くようにはいかず、なかなか難しい問題でした。
  私が、「大阪へ出て一番嫌なことは何ですか?」と質問したとき、衝撃の言葉が返ってきました。何かを訴えるような、いや、悲しそうにも聞こえる声で…。

 「都会の空は、星が見えないんです。それが一番寂しくて……。」

 この言葉を聞いた瞬間、頭の中を言葉にならない考えが、激しく駆け巡りました。「私は、最近星を見たことがない」。「私は、何か大切なもの忘れていたのでないか」。言葉が見つからず、窓の外に目をやると、暗闇のむこうに漁り火のように、村々の灯りが見えていました。  ………

 東京オリンピックや高度経済成長に湧く日本。空の星が見えなくなっていった日本。私が生きてきた、団塊の時代と呼ばれるその後の時代は、何か大切なものを忘れていく時代だったのでしょうか。
  蜜柑をくれた女性。生温かった蜜柑の感触。寒い冬の空を見上げると、いつも懐かしく思い出します。
 この女性は、今でも、どこかで、星を見上げているのでしょうか。
  蜜柑の想い出でした。  では。また。

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2017年11月 6日 (月)

憲法改定にどう向き合うか②

「憲法改定にどう向き合うか①」の続きです。 ①は→ こちら
  戦後史を俯瞰しながら、自衛隊の指揮権問題を中心に戦後史をみていきます。

 【自衛隊の指揮権~旧安保体制下では】
 朝鮮戦争下、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は独立します。しかし、ほぼ同時に、旧安保条約が締結され、アメリカの占領的状態が継続されました。
 アメリカは、後方支援のため再軍備を要請し、警察予備隊が結成され、これが後に自衛隊となります。
  旧安保条約に基づき、アメリカ軍の日本における地位を定めた『日米行政協定』の交渉が行われます。アメリカ側の示した『日米行政協定』原案の第14条では、「日本の軍隊はアメリカ軍の指揮下に入る」となっていました。交渉に当たった岡崎官房長官(後の外務大臣)は、「これでは国民の反発があり政権がもたない。条文には現れないような形にして欲しい」と要求し、出来上がったのが『日米行政協定』第24条です。

 行政協定24条:『…急迫した脅威が生じた場合には、…必要な共同処置をとり…直ちに協議しなければならない。』

  「共同処置をとり直ちに協議する」までの部分を条文化し、「アメリカ軍の指揮下に入る」という部分は密約という形で合意しました。いわゆる指揮権密約です。
 指揮権を具体化する組織として、第26条で定められた日米合同委員会が位置づけられました。結局、次のように表すことが出来ます。
 『日米行政協定24条』+『密約』+『日米合同委員会』=『有事の時、自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入る』

  【自衛隊の指揮権~新安保条約下では】
  1960年に安保条約の改定が行われました。指揮権密約はどうなったのでしょうか。
 国民から非難を受けた『日米行政協定』第24条は削除されますが、ほぼ同じ内容で新安保条約の第4条に受け継がれ、さらに軍事力の増強を定めた第3条、共同作戦を義務づけた第5条などがあいまって、さらに強化されました。
 日米安保協議委員会(SCC)が組織され、その下部組織としていくつかの組織が作られ、アメリカ軍と自衛隊幹部による直接的、具体的な協議が非公開で行われる体制も出来上がりました。日米防衛協力小委員会(SDC)、日米安保運用協議会(SCG)などです。
 '60年の安保条約の改定は、国民から大きな批判を招き、「安保反対闘争」が全国的に展開されました。

 【日米ガイドライン】
  ★1978年に日米防衛協力小委員会(SDC)で、日米防衛協力のための指針(第1次日米ガイドライン)が決定されました。
 自衛隊とアメリカ軍は、調整機関を通して緊密に連携し、日本とその周辺で作戦行動を執るとする内容です。調整機関とは実質在日米軍司令部です。
 作戦領域は日本領土から周辺(極東)へと広がりました。
 鈴木・レーガン共同声明では、「1000海里・シーレーン防衛」が明記されました。
  中曽根総理の「不沈空母」発言は1983年のことです。

 ★1997年に、第2次ガイドラインが決定されました。
 日米防衛協力ガイドラインとは、アメリカ太平洋軍と自衛隊との協議で決められたもので、国会で論議され決まったものではありません。国民からみれは密室協議です。シビリアンコントロールという点からも重大な問題です。
 この第2次ガイドラインに沿って、「周辺事態法」が成立しました。自衛隊の活動領域の拡大が進みました。
 アフガン紛争、イラク戦争中、燃料補給や米軍輸送のために、自衛隊は、海上給油やイラク派遣を行いました。
 横田基地に自衛隊航空総隊司令部が、キャンプ座間には、米陸軍第一軍司令部と自衛隊の中央即応集団司令部が移ってきて、司令部機能が一体化され、自衛隊と米軍の共同作戦体制が進みました。
 
 ★2015年に第3次ガイドラインが決定されました。
 このガイドラインでは、平時から緊急事態までのあらゆる段階で、自衛隊と米軍が協同することが確認されました。いわゆる「切れ目のない対応」。
 第3次ガイドラインの発表に続いて、国会では集団的自衛権を容認する「平和安全法」が強行採決されました。ガイドラインの方が先行し、国会決議がこれを追いかけるという、シビリアンコントロールに疑念を抱かされる事態になりました。
 同盟調整メカニズム(ACM)で、自衛隊とアメリカ軍の調整機関が設置され、事実上の日米統合司令部が発足しました。

  【私の結論】
 以上みてきたように、自衛隊は、『アメリカ軍の指揮下で作戦行動をする軍隊』という側面を持っていることが分かります。このような対米従属的な状態で自衛隊を戦力として憲法に位置づけることには、問題が多すぎます。
  「平和安全法」の廃止、「日米安保条約」と「日米地位協定」の改定が前提として必要であると考えます。私の結論は、(A)には×を投じます。
   *****
 自衛隊の指揮権についてだけみても、これだけの問題点があります。
 「日米地位協定」については、書くスペースが無くなりましたが、その異様さは、肌で感じられていることと思います。
 ・全国にたくさんの米軍基地が存在し、沖縄は基地の島となっている。
 ・日本の上空には、国内法の根拠が無いにも拘わらず、アメリカ軍の飛行管制空域が広がっている。(沖縄空域、岩国空域、首都圏の横田空域など)
 ・在日米軍駐留関係の日本負担経費は、6千億円を超えている。
 ・先日、ヘリが墜落したが、日本の警察や消防は手出しも出来ず、墜落原因も究明されず、同型ヘリの飛行停止は直ぐに解除されてしまった。
  ・事故率の高いオスプレイが、日本上空7つのルートで、日本の航空法を無視して低空飛行訓練をしていると思われるのに、抗議もしないし、止めさせることも出来ない。

  あ~~、もう書き出したらキリがありませんね。日本の主権はどうなっているのでしょうか。
 北朝鮮に対してアメリカが軍事行動をとれば、自衛隊も協同で行動することになります。ならず者国家の北朝鮮が、日本を核攻撃する可能性さえあります。東京が攻撃されれば、100万人の人が死ぬという試算も出されています。こんな危険を冒してまで、アメリカに追随するのは、ちょっと御免です。
 穴の空いた「核の傘」から自立して、アメリカに頼らない日本独自の安全保障を追求する必要がありますね。
 核兵器禁止条約にも早く署名して欲しいものです。
 以上、私の勝手な意見を書きました。 では。また。

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2017年11月 5日 (日)

憲法改定にどう向き合うか①

 先日の『48回衆議院選挙にあたって』という記事で、憲法改定と海外派兵は、アメリカの首尾一貫した要求であること、民進党の分裂は憲法改定をめぐる問題であることを戦後史を振り返りながら書きました。
  『48回衆議院選挙にあたって』は、→ こちら です。

  今回の選挙で自民党は大勝しました。当然のことながら、間もなく、国民は憲法改定に直面することになります。国の進路を決める重大な問題であり、国民一人一人が、しっかりと自分の意見を持つべき時が来たのだと思います。
 以下、一国民である私の意見を書いてみます。

 【改定の焦点は9条】
 憲法改定の項目として、教育の無償化や解散権の制約、個人情報の保護など様々な問題が提起されています。しかし、これらの問題は本質的な問題ではありません。
  例えば、教育の無償化という問題について言えば、現憲法はそれを禁止してはいません。憲法改正しなくても、無償化の法律を作れば出来ます。国会の3分の2を占める勢力が、やる気を出せば出来ることです。今、教育無償化が進まないのは、やる気がないだけです。憲法に書き込んでも、予算化されなければ実現しません。解散権の制限など、他の項目についても同じ事が言えます。(ただし、緊急事態条項は危険な意味を持ちます)
 あくまでも9条をどうするか、自衛隊を憲法に書き込むかどうかが、今回の核心的問題なのです。問題の焦点を見失ってはいけません。
 マスコミは、あれこれと争点らしきものを並べて、争点を曖昧にするのはいつものことです。

  【自衛隊は国民から認知されている】
 自衛隊は災害派遣などで成果を上げ、この点では、ほとんどの国民からは評価されています。PKO派遣で一定の役割を果たしているという評価もあります。自衛隊の存在は、今や多くの国民から認知されています。
 現在の政党の中で、自衛隊の即時廃止を主張する政党はありません。
 今問われているのは、自衛隊を廃止するかどうかではありません。憲法上にどう位置づけるかの問題です。

 【戦後史における現在の到達点】
 『48回衆議院選挙にあたって』で書いたように、自衛隊は、朝鮮戦争下という状況の中でアメリカの要請により誕生しました。その後の東西冷戦の中で、共産圏と対峙するものとして存在しました。東西冷戦終了後は、アメリカの世界戦略の中に位置づけられ、アメリカからは憲法改定と海外派兵を求め続けられました。そして、2015年、日米同盟を進めるために、憲法の枠組みを乗り越える「平和安全法」が成立しました。

  【国民の選択肢は三つ】
 現時点で日本の置かれた状況を考えると、国民の前に示された選択肢は、論理的に考えると三つしかないことが分かります。
(A):『9条2項を削除し、自衛隊を戦力として位置づける』
 集団的自衛権を容認した「平和安全法」は合憲とする人、日米同盟を外交の基軸だと考える人は、この(A)を選択することになります。
 政党で言えば、自民党、公明党、維新の党、希望の党ということになります。
  2項を残したまま、3項に自衛隊を加憲するのは、国民の支持を得るための一時しのぎで、2項との矛盾が生じます。遠くない時期に2項を削除することになります。

 (B):『自衛隊を海外派兵をしない専守防衛の戦力として位置づける』
 専守防衛の自衛隊は合憲であるという人、対米従属に反対の人、「平和安全法」は違憲であるとする人、安全保障のためには何らかの戦力は必要と考える人は、この(B)を選択する事になります。護憲的改憲派と言うべき立場です。
  現在、この方向を明確に打ち出している政党はありません。
 立憲民主党は、「平和安全法を廃止し、明確に専守防衛を保障する改憲もあり得る」と言っているので、この(B)に最も近いかもしれません。
 共産党も「当面自衛隊は保持するものの、将来的には国民の合意で決める」と言っているので、国民的合意で(B)に変化する可能性はあります。

 (C):『自衛隊は専守防衛の枠内に留め、当面は現憲法を維持する。』
 9条は、アメリカからの海外派兵要請を拒み、敵地攻撃力などの兵力の拡大に歯止めをかける役割を果たしてきたことを評価して、当面は現在の憲法を維持しようと考える人、「平和安全法」は違憲であるとする人は、この(C)を選択することになります。
 政党としては、社民党、共産党、立憲民主党ということになります。 

  【対立軸は(A)対(B+C)】
  間もなく予想される憲法改定発議は、国会の3分の2以上を占める(A)の立場からの発議です。(A)の立場からの憲法草案に賛成か反対かを問う国民投票です。
 したがって対立軸は、(A)対(B+C)になるわけです。
 護憲か改憲かは対立軸ではありません。(B)の意見の人は改憲ですが、(A)とは対立的位置にいます。あくまでも、(A)に対して、○か×が問われているのです。
 様々な意見が、マスコミを通じて錯綜する中で、対立軸を間違えると、教育無償化に賛成だから、(A)には○ということになったりします。
 また、(B)と(C)の意見の違いに焦点を当てて対立するのは、歴史の現局面を見失うことになります。アメリカに頼らない日本独自の安全保障を確立するのは、歴史的には次の段階での課題です。

  【自衛隊とは何かを考える】
  自衛隊を憲法に位置づけようというわけですから、現在の自衛隊をどのように考えるかが重要な問題です。
 次に戦後史を俯瞰しなが、自衛隊の指揮権問題を中心に戦後史をみていきます。
     この続きは、「憲法改定にどう向き合うか②」です。 ②は、→ こちら

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2017年10月13日 (金)

48回衆議院選挙にあたって

 今回の衆議院総選挙について、思うところを書いてみます。

 森友・加計問題で追いつめられた安倍政権でしたが、支持率の回復と野党の体制が整わない間隙を狙って衆議院を解散させました。憲法改正も公約に掲げられました。
 民進党の解体という劇的な事態が生まれました。このような大きな政治的動きがあった時は、冷静に事態を見る必要があります。戦後史全体を俯瞰しながら、この事態は、戦後史全体のどこに位置しているのかという事を考える必要があります。

 では、簡単に戦後史をおさらいしてみましょう。(憲法・安全保障を中心に)
 
 【サンフランシスコ体制の成立】
  敗戦後の1946年、GHQが作成した憲法草案が示され、議論の結果、これを修正して現在の日本国憲法が生まれました。戦争に疲れた多くの国民にとっては、歓迎すべきものとして…。
 世界的に見れば、この時代すでに東西の冷戦が始まっていました。
 1950年に朝鮮戦争が始まりました。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれましたが、西側諸国との片面講和でした。この講和条約には、「連合国日本占領軍は、本条約効力発生後90日以内に日本から撤退すること」(第6条a)が定められていましたが、同時期に結ばれた「日米安保条約」「日米行政協定」により、米国の半占領状態が続くことになりました。
  「日米行政協定」を一言で言えば、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という協定です。(第二条1項、第三条1項)
 日本は、アメリカに従属した「反共の砦」として、共産国と対峙する西側諸国の一員となったのです。

 【砂川事件判決・司法権の従属】
 1957年の砂川事件伊達判決をめぐって、日本の司法さえもがが、対米従属であることが明らかになりました。
 米軍の駐留を違憲とした伊達判決は、高裁を飛び越え、ただちに最高裁に持ち込まれ、「高度に政治的問題については憲法判断はしない」」(統治行為論)という判決が下りました。後に、最高裁田中耕太郎長官は、密かにアメリカ側と接触していた事実が明らかになりました。この司法権の従属判決は現在も続いています。

 【日米安保条約の改定】
 1960年に旧「安保条約」と「日米行政協定」にかわり、新「安保条約」と「日米地位協定」が結ばれましたが、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という本質的内容は継続されました。
 「日米行政協定」→「日米地位協定+密約」という形をとなりながら…。
  日本国内には多数の米軍基地があり、米軍には日本の法律が適用されない治外法権状態は、現在も続いています。

 【再軍備と憲法改正を求めるアメリカ】
 アメリカは、朝鮮戦争下、日本に再軍備化を要請し「警察予備隊」が創設され、1954年には自衛隊となりました。
 アメリカの公文書公開により、1948年のフォレスタル国防長官時代に「日本の限定的再軍備」(ロイヤル陸軍長官答申)が、アメリカの軍首脳部の公的な方針として確定していた事が明らかになっています。この文書には、将来憲法を改定して、本格的に軍隊をもたせるための準備をやっていくことも明記されていました。
 憲法改正と海外派兵は、アメリカの基本的な要求だったのです。
  歴代自民党政府は、「専守防衛の自衛隊は合憲」という立場でした。日本社会党は、「自衛隊は憲法違反、非武装中立」を主張し、自民党と対立しました。
 自民党のリベラル的な性格を持つハト派政権は、憲法9条を口実にアメリカからの海外派兵要請をかわしつづけました。憲法9条は、アメリカからの海外派兵要請を拒否する側面も持っていました。
 タカ派といわれる中曽根首相は、憲法改正を強く主張し、「日本は不沈空母」という発言もしました。

 【東西冷戦の終結】
 1991年、ソ連の崩壊により冷戦が終結し、アメリカは世界で唯一の超大国となりました。日本の「反共の砦」、「不沈空母」の役割が終わったかに見えました。
 しかし、北朝鮮の脅威、中国の軍事力増強など、極東地域の平和への脅威を理由に、引き続き安保体制は継続しました。
  単なる継続でなく、むしろ積極的に「日米同盟は外交の基軸」論が主張されるようになりました。

 【日本社会党の崩壊】
 総評の解散、連合の結成など労働界が右へと再編されていきました。非武装・中立を主張していた日本社会党は、ジリジリと勢力を弱めていました。
 1994年、村山連立政権が誕生しました。非武装・中立を主張していた社会党は、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の路線を大転換しました。この結果、社会党は国民の支持を失い、分党・解党の道をたどりました。
 その後は、「自衛隊合憲、専守防衛論」が政治の主流となっていきました。

  【集団的自衛権・改憲の要求】
 1991年の湾岸戦争以降、アメリカの日本への海外派兵圧力が強まってきました。
 1997年には、日米ガイドラインが改定されました。(周辺事態に対応)
様々な条件付きでしたが、あいついで海外派兵を可能にする法律、PKO協力法、周辺事態法などがが成立しました。
 2000年、アーミテージ国務副長官が対日報告書で、『集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している』として、集団的自衛権の行使を求めてきました。
 小泉政権下で、イラク、アフガン戦争への協力をめぐり、テロ対策特別措置法、イラク復興特別措置法が成立しました。有事法制も整えられました。
この時期は全体として、海外派兵強化、有事法制の整備、大規模な改憲運動が進みました。
 【憲法の枠組みを乗り越え始めた第2次安倍政権】
 2015年、日米ガイドラインを改定。(協力を切れ目無く、地球規模に拡大)
  第2次安倍政権では、集団的自衛権行使を可能とする平和安全法が成立しました。
 憲法学者をはじめ、市民連合、学生組織などが、この法律は憲法違反であると一斉に批判しました。「日米同盟」の強化はついに、憲法の枠組みを壊さなければ進められない状態に到達したのです。

  【民進党の分裂と選挙の争点】
 以上のように見てくると、日本社会党の崩壊は、自衛隊は合憲かどうかをめぐっての問題でした。今回の民進党の分裂は、憲法9条を改正するかしないかをめぐる問題です。消費税の使い道や社会保障の進め方で分裂したのではありません。
 選挙の争点は、まちがいなく「憲法改正」です。今回の選挙は、戦後史の中で、初めて本格的に憲法改正が問われる選挙なのです。マスコミはあれこれ面白く報道するので、選挙の争点が見えにくくなっています。「チガウダロ~!」と叫びたくなります。

 【北朝鮮危機をめぐって】
 ならずもの国家・北朝鮮を巡る最悪のシナリオは、「アメリカ軍の軍事攻撃→北朝鮮による日本の米軍基地への核攻撃」です。戦後史の中で、日本が核攻撃をうけるかもしれない最大の危機が迫っています。自民党の6割、維新の9割の議員が、アメリカの軍事オプションに賛成という報道があります。軍事行動をちらつかせるトランプ大統領に追随するとは、危険かつ愚かです。日本が核攻撃を受ける危険を孕んでいます。
 「話し合いは無駄だ。必要なのは圧力だ」という主張は、戦後史全体を俯瞰すれば、海外派兵と憲法改正に親和性のある主張です。
 一番の基本的な問題は、アメリカ軍の基地が日本に多数存在することです。
 「日本はアメリカの核の傘で守られている」、「日米同盟は外交の基軸」。これらの意見を克服し、アメリカ追随国家から自立する必要があると考えます。被爆国でありながら、核兵器禁止条約に署名しない国など、あり得ないでしょう。

  「北朝鮮問題は話し合いで…」は当然の主張ですが、どこで、誰が、何を話し合うのかが問題です。「アメリカと北朝鮮が二国間で…」という中国などの主張は無責任です。中国は朝鮮戦争の片方の当事者です。もう片方の当事者は国連軍です。
 話し合いの舞台は当然国連です。武力による威嚇は国連憲章違反です。
 核兵器禁止と国家の主権を尊重した、朝鮮戦争終結についての話し合いです。
   (これは私論です。)
  選挙の投票先は難しくないですね。

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2017年9月 1日 (金)

原民喜詩集を読む

 Haratamiki_01
  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、原爆詩人として知られている原民喜です。彼は、自らの自画像を描く言葉として、「死と愛と孤独」という言葉を残しています。この詩人はどのように生き、そして、なぜ自死したのでしょうか? その生涯を追ってみます。

明治38年(1905年)、広島市幟町で12人きょうだいの五男として生まれます。
12歳の時、父を亡くし、この頃より極端に無口で内向的な少年となっていきます。

13歳の時、聖書の世界を教えてくれた姉を亡くします。
 形見として譲り受けた青い表紙の聖書を、彼は生涯愛読していたそうです。姉の死に向き合い、彼はさらに寡黙な人へとなっていきます。
 証言によれば中学時代、彼の声を聞いたことがない級友もいたとか。

19歳で慶応大学予科に入学。熱心な文学活動。日本赤色救援会などの活動に参加。
 しかし、寡黙で人付き合いは出来にくかったようです。

27歳で、大学英文科を卒業。就職難の時代でダンス教習所の受付として働きます。
 女性と同棲したり、自殺を図ったり、荒れた生活だったようです。

28歳。まわりの勧めにより貞恵と結婚。
 この貞恵は、気さくで明るく、利発な女性だったようです。民樹の文学を信頼し、無口で人付き合いの出来にくい民樹を支え、励まし続けました。
 後に彼は、「人と逢ふ時には大概、妻が傍から彼のかはりに喋っていた」(遙かな旅)と回想しています。また、「死と愛と孤独」という作品の中で、
 ~♪嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。♪~
と書き残しています。
 貞恵は、彼の耳となり、口となり、よき読者として彼を支えたのです。
 しかし、このような関係はいつまでも続くわけではありません。

 ~♪「そら」 (小さな庭)
おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかったのだ。うごけないからだゆえ朝の訪れが待ちどおしかったのだ。♪~

 ~♪「病室」 (小さな庭)
おまえの声はもう細っていたのに、咳ばかりは思ひきり大きかった。どこにそんな力が潜んでいるのか、咳は真夜中を選んで現れた。それはかたはらにいても堪えがたいのに、まるでおまへを揉みくちゃにするような発作であった。嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどっても、病室の嘆きはうつろはなかった。嘆きはあった、……そして、じっと祈っているおまえのけはひも。 ♪~

39歳。肺結核に罹り病床にあった妻を、彼はついに亡くしてしまいます。
 ~♪もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……♪~(遙かな旅)
  妻に死に別れた彼は、毎夜、妻の幻と対話し、妻へ宛た手記を書きながら、悲しい美しい一冊の詩集を残すために生きていきます。

40歳。家業を手伝うため広島の兄の家に疎開。すべて運命のいたずらか、ここで原子爆弾に被爆。彼は、頑丈な厠にいたため奇跡的に生き残ります。
 
 ~♪「コレガ人間ナノデス」
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス   ♪~ (原爆小景)

~♪「水ヲ下サイ」
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
………   ♪~  (原爆小景)

 彼は、原爆の惨状を目の当たりにして、「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよう」と決意します。
 ~♪自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に操返し操返し云いきかせた。それは僕の息づかいや涙と同じようになっていた。
………
 僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
………  ♪~ (鎮魂歌)

 彼は心の苦しみに耐えながらも必死に、「原爆小景」などの詩や被爆の体験を綴った三部作、「壊滅の序曲」、「夏の花」、「廃墟から」などを書き上げます。
 彼の作品は、自分の主義主張を表明したり、原爆の悲惨さを強調し、反戦・平和を訴えるといった作品ではありません。父や肉親の死、愛する妻の死、そして原爆による多くの人の死、その死の意味を自らに問いかけ、すべての死者の魂を鎮魂する歌、というべき作品を書き残したのでした。
 「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう」と思いつつも、被爆の体験を書き残すために、5年間も生き延びた彼の精神に、危機が迫っていきます。

~♪…私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。……
 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。♪~(死と愛と孤独)。
  
~♪「悲歌」
………
すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに ♪~   (魔のひととき)

45歳。1915年(昭和26年)。朝鮮戦争が戦われ、原爆の使用が噂される時代、彼はついに電車の線路に横たわります。 「死と愛と孤独」の詩人の最後でした。
   ******
 広島の平和記念公園の爆心地近くに、彼の碑が建てられています。そこには、死の数ヶ月前に書かれたと言われている、彼の詩が刻まれています。
 ~♪「碑銘」
遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻   ♪~

 彼の作品は、「戦後民主主義」といったものからは無縁だと思います。彼の中にあるのは、自らも含めた、すべての死者に対する鎮魂の祈りです。次々と死んでいった肉親。花を愛し自分を支えてくれた妻。多くの被爆者。死を見つめ続けた詩人は、その生涯の最後の時、「崩れ墜つ天地のまなか」に、自らの魂を鎮魂するかのごとくに咲く「一輪の花の幻」を見たのです。

 最後に、彼の祈りのような詩を一つ鑑賞して終わりにします。
 ~♪「永遠のみどり」
ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ      ♪~

  *原民喜の作品の多くは、青空文庫で読むことが出来ます。お薦めします。

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2017年8月17日 (木)

村上昭夫詩集「動物哀歌」を読む

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 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、肺結核のため41歳の若さで亡くなった村上昭夫の場合をみていきます。
 彼の手になる詩集は、「動物哀歌」という詩集一冊のみで、近現代詩人の中では、あまり知られていない詩人かも知れません。

 では、年譜にしたがって略歴をみていきます。
昭和2年(1927):岩手県、現在の陸前高田市に生まれる。
昭和20年(1945)18歳:岩手中学卒業。
 官吏として満州ハルビンに渡り、臨時徴兵。敗戦。捕虜生活。
昭和21年(1946)19歳:帰国。翌年、盛岡郵便局に就職。
 職場での合唱や文化活動に励む。
昭和25年(1950)23歳:結核発症。3年間岩手サナトリウム入院。
 入院を機に、俳句や詩を書き始める。
 退院後、野良犬クロとの出会い。
昭和30年(1955)28歳:病気により郵便局を免職。
 雑誌などに投稿。詩人クラブの活動。
昭和34年(1959)32歳:仙台厚生病院入院。
 右肺切除。入院は3年に及ぶ。
昭和40年(1965)38歳:国立盛岡療養所に入院。 
昭和42年(1967)40歳:詩集「動物哀歌」上梓。土井晩翠賞を受賞。
昭和43年(1968)41歳:10月、41歳で永眠。全身衰弱。

 年譜からも分かるように、村上昭夫は、病気を契機に詩を作り始め、病気と向き合いながら詩をつくり、長くない一生を終えました。
 もっともよく知られた「雁の声」という詩をみてみましょう。

 ~♪「雁の声」
雁の声を聞いた
雁の渡ってゆく声は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

私は治らない病気を持っているから
それで 雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

雁の渡ってゆく姿を
私なら見れると思う
雁のゆきつく先のところを
私なら知れると思う
雁をそこまで行って抱けるのは
私よりほかないのだと思う

雁の声を聞いたのだ
雁の一心に渡ってゆくあの声を
私は聞いたのだ   ♪~

 彼の詩は、いつも宇宙的広がりを見据えながら展開していきます。
 宇宙の深淵へと遙かに渡っていく雁。不治の病であるがゆえに、彼は雁の哀しみの声を聞くことが出来たのです。その宇宙の深淵で、雁の哀しみと命を抱きしめることが出来るのは、彼だけなのです。…… 自然の摂理により消えていく命。自らの死の予感から、彼は、動物の哀しみと自分自身を重ね、哀しいまでの透明な眼差しで宇宙の深淵をのぞき見たのです。

  彼が「動物哀歌」の詩を書くきっかけは、野良犬クロとの出会いです。川を流されていた子犬を拾い、クロと名づけ、家の縁の下を住み家として与えます。後に彼は、「動物哀歌はすべてクロが作ってくれたようなもんだ」と語っていたそうです。
 いくつかある犬の詩の中から一つ紹介してみます。
 ~♪「犬」
犬よ
それがお前の遠吠えではないのか
 ……
お前の遠吠えする声の方向に
死なせるものや愛させるもの
別れさせるものが
目も眩むばかりにおいてあって
お前はそれを誰も知らない間に
密かに地上に呼んでいるのではないか

だがお前はひるになると
 ……
愛くるしい目を向けたりする
真実忠実な犬でしかないように
嘘の姿を見せるのだ ♪~

 忠実な犬。嘘の姿でしか生きられない哀しい存在。死や愛や別離を隠し生きる犬。
荒野の月に向かって吠える犬の遠吠えに、彼は聞くのです。生きることの哀しさ、命の愛おしさを……。
 嘘の姿を生きる飼い犬。おびえながら生きる野良犬。弱々しいもの、滅びゆくものへの限りない共感。彼は、動物たちへの共感を通して、死を見つめて生きようとする自らの意志、生きることの哀しさ、命の尊厳を詠ったのです。

 彼の詩に登場する動物は多いです。犬を初めとして、鶴、鹿、すずめ、熱帯魚、雁、鳶、鴉、、鳩、リス、牛、ねずみ、深海魚、象、熊、猿、蛇、虎、蜥蜴、あざらし、キリギリス、ウミネコ……略……。 その中から「ねずみ」の詩を紹介してみます。

 ~♪ 「ねずみ」
ねずみを苦しめてごらん
そのために世界の半分は苦しむ

ねずみに血を吐かしてごらん
そのために世界の半分は血を吐く

そのようにして
一切のいきものをいじめてごらん
そのために
世界はふたつにさける
 ……
一匹のねずみが愛されない限り
世界の半分は
愛されないのだと ♪~

 弱いものの命の尊厳が侵されるとき、世界は二つに裂けるのです。一匹のねずみが愛されない世界では、もはや世界の半分は愛されないのです。死を予感した彼の透明な眼差しは、世界の奥底に隠された真実を見抜いているのです。

 ~♪「五億年」
五億年の雨が降り
五億年の雪が降り
それから私は
何処にもいなくなる

闘いという闘いが総て終わりを告げ
一匹の虫だけが静かにうたっている
その時
例えばコオロギのようなものかも知れない
五億年以前を鳴いたという
その無量のかなしみをこめて
星雲いっぱいにしんしんと鳴いている
その時
私はもう何処にもいなくなる
しつこかった私の影さえも溶解している
  ……  ♪~

 五億年の遙かな時間の流れ。「闘いが総て終わりを告げ/一匹の虫だけが静かにうたっている」宇宙。五億年の雨が降り、雪が降る宇宙。彼は、その宇宙の中を動物たちの無量の哀しみを抱き、影とともに宇宙のなかへと溶解し、「何処にもいなくなる」のです。 自らの死の悲しみを動物たちに投影し、その動物たちを抱きしめ、遙かな時空の果てへと歩み去った詩人、村上昭夫は41歳で永眠しました。
    ******
 宇宙を吹き渡る郷愁の風に吹かれ、微かな光を求めて億光年を歩み続けると、そこにはすべての命の故郷があるのです。そこでは、動物の哀しみと人の哀しみが共鳴し、お互いを抱きしめ合うことが出来るのです。そんな故郷を目ざして村上昭夫は旅立っていったと私には思えます。
 失われていく自然の原風景への哀しみが滲む「精霊船」。「都会の牛」。
 満州での戦争体験を滲ませた「死んだ牛」。「砂丘のうた」。
  「砂丘のうた」では、「もう殺しあったりすることなんかない/海を越えた愛のうたを」と詠います。いろいろ紹介したいですが、スペースが無くなりました。
 村上昭夫詩集、お薦めします。          では。 また。

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2017年7月20日 (木)

新美南吉の詩を読む

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  夭逝の詩人は、どのように死と向きあったのでしょうか。今回は、29歳の若さで亡くなった新美南吉です。
 新美南吉は、「ごんぎつね」などの童話作家として有名です。「ごんぎつね」は、1956年に小学四年の国語教科書に初めて採用され、1980年からはすべての教科書に採用されました。50歳以下の人ならだれでも知っていることになります。童話作家としてあまりに有名になったため、詩人としての新美南吉はあまり知られていないようです。
 では、新美南吉の作品と生涯を追っていきましょう。

 南吉は、1913年(大正2年)、愛知県半田に生まれました。本名は「渡辺正八」。
南吉は四歳の時、母を亡くします。父が再婚し、継母の元で育てられますが離婚。生母のの実家、新美家の養子になりますが、養母との二人暮らしに耐えられず逃げ帰ります。このように、南吉はめぐまれない少年時代を送ります。
  南吉17歳の時の短歌です。傷ついた想い出を歌っています。
 ~♪まま母と あらがいてのち家出ぬ 赤きけいとう うつつなく見る~♪

 18歳で半田中学校を卒業。体が病弱だったため、師範学校の試験に不合格。半田第二小学校の代用教員となります。この頃から、鈴木三重吉が創刊した児童文学誌「赤い鳥」に投稿を始めます。「赤い鳥」に初掲載された「窓」という詩をみてみましょう。
 ~♪「窓」
窓をあければ
風がくる、風がくる
 光った風がふいてくる

窓をあければ
こえがくる、こえがくる
 遠い子どものこえがくる

窓をあければ
空がくる、空がくる
 こはくのような空がくる ♪~

 窓を開ければ、光った風、子どもの声、琥珀色の空。南吉の澄んだ目を感じます。同じ頃作られた「光」という詩では、~♪……人は光の中にいる。/神も光のなかにいる。♪~と、光に満ちた信仰的思いを感じさせる詩を作っています。
 
 19歳で、東京外国語学校英文科に進学します。彼の童話の代表作である「ごんぎつね」や「手袋を買いに」は、この時期の作品です。
  「ごんぎつね」では、きつねは心のつながりを求めますが、悲劇的結末が待っています。「手袋を買いに」では、汚れのない無邪気な子どもの心のみが、心と心をつなげることに成功します。
 生きてゆくことの孤独。他者と心をつなげたいという心情。これらは、南吉童話の底流を流れています。南吉の恵まれない生い立ちを反映したものであると思います。

 21歳で、結核による喀血。帰郷。静養。精神的挫折。この頃より、自己の内面や背後に死を感じさせる詩作が多くなっていきます。この頃書かれた「墓碑銘」という詩をみてみましょう。
~♪ 「墓碑銘」
  この石の上を過ぎる
 小鳥たちよ。
 しばしここに翼をやすめよ。
 この石の下に眠っているのは、
 おまえたちの仲間のひとりだ。
 何かのまちがいで、
 人間に生まれてしまったけれど、
 ・・・・・・
 人間のしゃべる憎しみといつわりの言葉より、 
 おまえたちの
 よろこびと悲しみの純粋な言葉を愛した。
 ・・・・・・
 彼には人間たちのように
 おたがいを傷つけあって生きる勇気は、
 とてもなかった。
 ・・・・・・
 彼は逃げてばかりいた。
 けれど現実の冷たい風は、
 ゆく先き、ゆく先きへ追っかけていって、
 彼の青い灯を消そうとした。
 ・・・・・・
 彼はある日死んでしまった。
 小鳥たちよ、
 真実、彼はおまえたちを好きであった。
 ・・・・・・
 小鳥よ、ときどきここへ遊びにきておくれ。
 そこで歌ってきかせておくれ。
 ・・・・・・
 彼はこの墓碑銘を、
 おまえたちの言葉で書けないことを、
 ややこしい人間の言葉でしか書けないことを、
 かえすがえす残念に思う。  ♪~

 「憎しみといつわりの言葉」より、「よろこびと悲しみの純粋な言葉」を愛したい自分。しかし、現実に立ち向かえない弱い自分。近づいてくる死。深刻な生と心の危機。南吉は、詩をつくることにより、傷ついた心を乗り越えていきます。
  22歳で、再び上京。東京外語を卒業するも、再び喀血し帰郷。時々自殺を考える苦しい生活を送ります。思いを寄せていた女性が結婚するということもありました。この時期に書かれた「わが靴の破れたるごとく」という詩をみてみましょう。

~♪「わが靴の破れたるごとく」
 わが靴の破れたるごとく
 わがこころまた破れたり
  靑やかに美しかりし
 かの若き日の感傷は乾からび
 今ははや
 まことにいたみ凋(しぼ)みたる
 かなしき傷痕のみ
 その破れたる心抱きて
 今宵また氷雨しみらなる
 暗き街々をさまよへば
 わが靴は心とともに
 憐れに貧しく
 しみしみと泣くなり   ♪~

 25歳で、安城高等女学校の英語教師として就職することができます。。生徒と共に詩集を作ったり、しばらくの充実した生活を送ります。
  28歳で、結核は腎臓へと進行。死を覚悟し遺書を書きます。日記には、病気や死に関する記述が多くなります。
 29歳。1月12日の日記です。
 <……朝目がさめるとすぐ病気のことが頭に来た。しかし恐怖感はなかった。「死」にも馴れることが出来るものだなと思った。貧乏や失恋に馴れることが出来るように。…新しい生活が始まったのである。腎臓結核(つまり死)との新婚生活が。……>

 死を覚悟しながらも南吉は、最後の力をふりしぼり童話を書き続けます。「おじいさんのランプ」、「牛をつないだ椿の木」、「ごんごろ鐘」、「花の木村と盗人たち」など、後期の名作を残します。
  26歳頃の童話作品「最後の胡弓ひき」では、時代の潮流に取り残された胡弓弾きと味噌屋の主人との心の交流、失われゆくものや滅びゆくものの哀惜の念が描かれます。
 しかし、後期作品の「おじいさんのランプ」では、時代の流れを感じとったランプ売りのおじいさんは、きっぱりとランプに別れを告げ、人々の内面を照らす本を売る商売を始めます。
 「ごんごろ鐘」では、「古いものは新しいものに生まれかわって、はじめて役立つということに違いない。」と、童話の最後を締めくくっています。古いものは新しいものに変わっていく、自らもまた同じであると……。
 「牛をつないだ椿の木」では、日露戦争へ出征する主人公は、自らの一生の仕事として、旅人や村人のために井戸を堀ります。南吉は、激しく移り変わる時代の流れの中で、自らの死を自覚し、井戸水のように澄んだ作品を後世に残そうとしたのだと思います。
 30歳を迎える年の3月に、死を自覚して退職届けと父への遺言状を書きます。自らの作品を後の世に託し、29歳で永眠しました。
                *********
 スペースが少なくて、十分に詩を紹介することが出来ませんでしたが、私の一番のお薦めの詩は、「疲レタ少年ノタビ」です。死に対する南吉の姿勢が一番示されているような気がします。
 興味をもたれた方は、「新美南吉童話集(岩波文庫)」、「新美南吉詩集(ハルキ文庫)」をお薦めします。低価格♪
 岩崎書店の美しい日本の詩歌シリーズ、「花をうかべて―新美南吉詩集」は、分厚い装丁で、編集の仕方もなかなか良いです。ただし、文庫本2冊分の値段。    
「デデムシ 新美南吉詩歌集」石川勝治・斎藤卓志編集(春風社 )は、年代順に作品が読め、短歌、俳句作品も掲載されている優れものです。1944円。(アマゾン)

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2017年6月30日 (金)

年金問題、最低限の理解

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  暇に任せて、図書館から年金問題についてのいろいろな本を借りてきて、猛勉強してみました。制度の大まかな成り立ちや問題点について、自分なりに理解できた範囲で問題点を解説してみます。
 年金制度は複雑な経緯を辿っており、多くの人が理解不足と不信・不満のかたまりとなっています。政治家や評論家がメディアを通じてあれこれ発言し、何が真実か解らなくなり、やたら不安がかき立てられています。次のような意見もよく耳にします。

 ◎年金未納者が多く、今の年金制度は間もなく破綻する。若い世代は老人になった時、年金はもらえないかもしれない。
 ◎高齢化社会が進み、社会保障費は増加の一途である。年金についても消費税を増税して、その財源で年金を支えるべきだ。
 ◎今の老人は年金をもらいすぎている。人口減少で現役世代に大きな負担がかかっている。現在の年金支給額は切り下げるべきだ。
 ◎保険料を未納にし、それを積み立ておくか、民間の年金保険にした方が得だ。
 ◎GPIFが株式に投資しているが、利益が出れば年金給付が増える…等々。
 
  これらは、すべて間違った意見です。不十分ながら解説してみます。

 【公的年金は賦課方式】
 現在の公的年金制度は賦課方式をとっています。積み立て方式ではありません。この賦課方式というものを理解するだけでも、年金にまつわる間違った言説を見破ることができます。賦課方式とは何でしょうか? まずこれから解説します。
 賦課方式では、現役世代が収めた年金保険料が、年金受給世代の年金として支払われます。賦課方式は積み立て方式ではありません。いわば、川の流れのようなものです。上流から流れ込む保険料を下流で年金として受け取るわけです。「年金積立金が不足し、将来的に積立金が無くなれば、制度が破綻する」と不安を煽る人がいます。しかし、賦課方式では、原理的には積立金は不要です。積立金が不足し年金制度か破綻するということはありません。
 企業年金などの私的年金では、株式に投資し利益が出ればもらえる年金が増えます。しかし、賦課方式は、年金積立金を運用している法人・GPIFが、株式に投資して利益を出しても、それが年金支給額に反映されるという仕組みではありません。
 過去の経緯で積み上がっている積立金の株式への投資は、株価をつり上げるために利用されているだけ。しかも、民間に丸投げされていて、取り扱う銀行などが利益を手にしているだけです。公的な年金を市場運用している国はほとんどありません。
  ちなみに、企業年金などに使われている積み立て方式では、市場運用は絶対必要です。なぜなら、貯金と同じで、インフレなどに対応できないからです。

 【マクロ経済スライド】
 賦課方式の年金は、川の流れと同じです。上流からの保険料収入がある限り川は流れ続けます。しかし、人口減少、高齢化社会、インフレ、デフレ、景気の変動などがあり、この川の流れを一定に保つのは大変難しいです。そこで、2004年から導入されているのが、マクロ経済スライドという方法です。
 マクロ経済スライドを簡単に言えば、保険料が上がりすぎないように、上流側の保険料に上限を設けます。当然、下流で受け取る年金にも上限が発生します。その上で、人口減少、高齢化など将来的要素を考慮に入れて年金支給額を決定します。これにより、川の流れが維持できるようにコントロールするわけです。別の言い方をすれば、川の流れを維持するために、受け取れる年金を抑制するわけです。年金を抑制されるのは嫌だと言っても、川の流れを維持するための必要悪ということです。このように、現在の現役世代が年金世代となっても、川の流れが維持されるように人口減少や高齢化は織り込み済みで設計されています。いろいろ問題はあっても、川がすぐに干上がることはありません。
 団塊の世代が現役の頃は、高度経済成長もあり、年金会計にゆとりがありました。杜撰な年金運用もあり、年金をもらいすぎた人がいるのは確かです。しかし、マクロスライドで、徐々にゆがみは解消していっています。

 【公的年金はお得な保険】
 公的年金を払わずに、積立貯金をしたり民間の年金保険にすると、どっちが得なのでしょうか? 答えは簡単です。公的年金と同じ支払い率を持つ民間の年金保険はありません。なぜなら、国民年金には税金が投入されています。厚生年金では、保険料の半分は会社持ちです。公的年金に未加入という選択肢はありません。
 年金未納者は40%といわれています。これが社会的「悪」のように非難されることがあります。しかし、多くは、第3号被保険者や所得の低い人、学生など、法的に猶予されている人たちです。純粋な未納者は数%です。未納率が高くて年金を維持できないと騒ぐのは、問題が少しずれています。年金制度を維持するために未納者を減らす必要があるのではなく、「老後に年金をもらえない人を減らすために未納者を減らす必要がある」というのが正しい言い方です。

 【消費税と年金】
「社会保障のために消費税が必要…」という嘘から、日本人は、もういい加減に目を覚ますべきです。消費税は、貧乏人が消費しても金持ちが消費しても同じ税率です。これに対して所得税は累進課税で、所得の多い人ほどたくさん税金を払います。社会保障は、所得の多い人が、所得の少ない人を支えることにより成り立ちます。つまり社会保障は、所得の移転制度なのです。消費税には累進性がありません。社会保障の財源としては不適切です。世界の多くの国で、これは常識になっています。
 当然のことながら、消費税を年金財源にすることは間違いです。厚生年金の場合、保険料の半分は企業負担です。ここに、フラットに集めた消費税を投入することは、企業の負担を小さくすることになり、財界にとって有利な政策となります。
 消費税増税は、多国籍企業の利益を優先する新自由主義的経済政策を主張する経団連を先頭に、政界やマスコミに溢れています。政治家や評論家を評価するとき、消費税に反対か賛成かは、重要で基本的な目印です。
 公的年金の民営化を主張する人もいますが、問題外でしょう。

 【人口減少と年金】
 「日本の人口は減少している。2015年には、1人の老人を2.3人で支えていたのに、2050年には、1.3人で支えなければならない。」と、こんなふうにに言われると不安になります。2010年に8000万人あった生産年齢人口は、2030年には6700万人ほどになり、「生産年齢人口率」は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)に下がる予想です。5.7%の減少です。20年で5.7%ということは、1年あたり0.3%です。これは、経済成長でカバーできる範囲の数字です。しかし、逆に言えば、経済成長(賃金の増加)が無ければ年金制度は維持できないということになります。年金制度の安定は、経済政策から大きな影響を受けます。賃金が増えなければ、保険料収入が減り年金制度は危機に陥ります。アベノミクスにより株高で好景気といわれていますが、実質賃金は下落しています。これは年金にとって良くない方向ですね。庶民の生活にとっても…。

  【年金制度を充実させるためには】
 2013年のOECDの発表によると、日本の年金水準(所得代替率)は、下から3番目の低さです。もっと年金を充実させるためにはどうすればいいのでしょうか。
 ★「増え続ける社会保障費で国の財政が破綻する。消費税の増税が必要だ。社会保障費削減はやむを得ない。」と危機をあおっている人々が、政治の主流となっています。国の社会保障に責任を持とうとしない政治を変えることは基本として重要です。
 ★社会保障は、税の累進性によって成り立ちます。所得を正確に掌握し、所得税率を上げて、所得税の累進性を高める必要があります。法人税や所得税に対する様々な優遇税制も見直す必要があります。金融所得の分離課税は廃止しすべきでしょう。
 ★年金を支えるのは現役世代です。非正規労働が4割を超えるなど、労働環境が悪化しています。「働き方改革」などという的はずれな政策ではなく、最低賃金の引き上げや、非正規雇用の正規雇用化などをすすめ、現役世代の賃金を増やすことが必要です。これにより保険料収入を増やして年金財政を安定させることができます。
 ★様々な学者や政治家が、いろいろな年金改革を提案しています。細かい数字と数式を並べられると、ついゴマカされてしまいます。しかし、ゴマカされないために一つの目印があります。それは、高所得の人ほど負担が大きくなる「応能負担原則」が強化されているかどうかをみることです。
 例えば、標準報酬の上限を引き上げて、高所得者の保険料負担を増やすなどの政策は、すぐにでも可能です。現在、標準報酬月額の上限は、62万円に据え置かれたままです。月収が62万円の人と月収が数百万円もある人が同じ保険料は、常識的にあり得ないでしょう。また、中小企業よりも大企業の方に高額所得者が多いとすれば、厚生年金の保険料は会社と折半なので、大企業がより多くの保険料の拠出をすることにもなります。
  年金積立金を株などに投資してないで、保険料を下げるなどに有効利用することも直ぐにできることです。
 ★マクロ経済スライドルールの変更、将来的な廃止。厚生年金と国民年金の会計統合など、今後に検討すべき課題です。

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2017年6月15日 (木)

山之口貘の詩を読む

 Yamabaku
  山之口貘という詩人をご存じでしょうか? 知らない人のために、この詩人を紹介してみます。私にそのようなことをする資格があるかどうか大変疑問ですが、私の知る限りを紹介してみます。
 激動の戦前・戦中・戦後をかくもマイペースに、「僕」という生活者のままで、時流に流されず、貧困の中をユーモアを失わず生き抜いた人がいることを知るのは、私たちにとって、何か心が洗われるような気がします。

 では早速、貘さんの自己紹介から…。
  ~♪ 自己紹介 
   ここに寄り集まつた諸氏よ
   先ほどから諸氏の位置に就て考へてゐるうちに
   考へてゐる僕の姿に僕は気がついたのであります

   僕ですか?
   これはまことに自惚れるやうですが
   びんぼうなのであります                   ♪~

 山之口貘さんは、本名山口重三郎、沖縄の名家の生まれでしたが、家は破産・没落し、借金の肩代わりの下男奉公から逃れるため、那覇の公園や海辺で放浪生活を送ることになります。23歳で上京、詩を書きながら、暖房工事人夫、汲み取り屋、鉄屑運搬船の人夫、荷造り作業員、マンホールの掃除人など、職業を転々としながら生きていきます。16年間畳の上で寝ることはなかったといいます。
 貘さんは、まことにおおらかに、自らを誇れるような貧乏だったのです。

 ~♪ 存在
   …………
  僕である僕とは
  僕であるより外には仕方のない僕なのか
  おもうにそれはである
  僕のことなんか
  僕にきいてはくどくなるだけである

    なんとなればそれがである
  見さえすれば直ぐにも解る僕なんだが
  僕を見るにはそれもまた
  もう一廻わりだ
  社会のあたりを廻って来いと言いたくなる   ♪~

   汲み取り屋、マンホールの掃除人、底辺生活、…。「社会のあたり」を生き抜いてきた貘さんは、「僕」という人間の生活の現実を凛として描くことにより、社会を描いた詩人でした。
 貘さんが生きた時代は、戦争の時代でした。多くの詩人が大政翼賛、戦争賛美の詩へと傾斜する中で、友人の金子光晴氏と共に、貘さんは戦争・翼賛の詩を書かなかった数少ない詩人の一人でした。金子光晴氏は、はっきりとした反戦詩を書きましたが、獏さんは声高に反戦を主張するのではなく、ただひたすら「僕」の生活を書きました。戦争が激しくなっていく時期の「ねずみ」という詩をみてみましょう。

 ~♪ ねずみ
  生死の生をほっぽり出して
  ねずみが一匹浮彫みたいに
  往来のまんなかにもりあがっていた
  …………
  車輪が
  すべって来ては
  ねずみはだんだんひらたくなった
  ひらたくなるにしたがって
  ねずみは
  ねずみ一匹の
  ねずみでもなければ一匹でもなくなって
  その死の影すら消え果てた
  …………      ♪~

 厳しい言論弾圧の時代、個人の表現の自由は奪われていきます。検閲官は、この抵抗詩を、ただのネズミの詩として見逃しまったようです。
 戦後になっても貘さんは、「僕」の日常生活を描くことにより、社会を深く見つめる詩を書き続けました。平和。原水爆。沖縄などについて…。
 第五福竜丸事件にまつわる詩、「鮪に鰯」をみてみましょう。

 ~♪ 鮪に鰯
  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  …………
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ   ♪~

 ビキニの死の灰に脅かされ、腹立ち紛れの貘さん。「死んでもよければ鮪を食え」と言ってはみたものの、貧乏では鮪は食べられません。いつも食べている鰯の灰は火鉢の灰でした。何げない日常の生活の中に、ユーモアと鋭い社会批評が含まれています。

 ~♪  求婚の広告
 一日もはやく私は結婚したいのです
 結婚さえすれば
 私は人一倍生きていたくなるでしょう
 かように私は面白い男であると私もおもうのです
 面白い男と面白く暮したくなって
 私をおっとにしたくなって
 せんちめんたるになっている女はそこらにいませんか
 さっさと来て呉れませんか女よ
 見えもしない風を見ているかのように
 どの女があなたであるかは知らないが
 あなたを
 私は待ち侘びているのです       ♪~

  ~♪ 畳
  なんにもなかった畳のうえに
  いろんな物があらわれた
  …………
  結婚生活を呼び呼びして
  おっとになった僕があらわれた
  女房になった女があらわれた
  桐の簞笥たんすがあらわれた
  …………       ♪~

 求婚の広告に効果があったのか、金子光晴氏の世話で、貘さんは34歳でめでたく結婚します。やっと放浪生活に終止符をうちます。しかし、1963年、59歳で、胃ガンにより亡くなるまで貧乏生活は続きました。
 
 ~♪ 鼻のある結論
  ある日
  悶々としている鼻の姿を見た
  …………
  またある日
  僕は文明をかなしんだ
  詩人がどんなに詩人でも 未だに食わねば生きられないほどの
  それは非文明的な文明だった
  だから僕なんかでも 詩人であるばかりでなくて汲取屋をも兼ねていた ♪~

 貘さんは、自分の思想や主張を声高に主張するのではなく、社会の底辺や地べたの「僕」の現実を詩にすることにより、ユーモアと風刺の効いた社会批判や文明批判を書き残しました。
 詩人の高橋新吉は、「風刺詩人」、茨木のり子は「精神の貴族」と評しています。
 沖縄についての詩など、まだまだ紹介したいですが、スペースが無くなりました。
 今の時代に、ますます輝いている詩人の一人かと思います。
   山之口貘詩集(岩波文庫)、お薦めします。

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