雑文

2018年2月14日 (水)

大河ドラマと歴史認識で一言

Saigo NHK大河ドラマ、林真理子原作の「西郷どん」始まりましたね。どんな西郷像が描かれるのか楽しみにしている方も多いと思います。
  しかし、歴史小説や大河ドラマを楽しむときには注意が必要です。ドラマを歴史的事実と勘違いしてしまう人が多いのです。これにより、歪んだ歴史観を持ってしまう人が少なからずいます。これについて、私の意見を少し書いてみます。

  【司馬遼太郎・坂の上の雲】
 日本人の歴史認識に大きな影響を与えた作家に、司馬遼太郎がいます。
 司馬遼太郎は、~ まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。~という書き出しで始まる代表作「坂の上の雲」で、明治の時代を、極東の小国日本が世界に通用する近代国家となっていく栄光の時代として描きました。
 確かに明治維新は、日本史上の大きな変革であったことは間違いないですが、歴史には、いつも明と暗があります。明治維新から始まる時代を栄光の時代と一面的に評価するのは、実証的な歴史学からすれば問題が大き過ぎます。

 【明治維新の歴史的評価は確定していません】
 明治維新を歴史学的にどう評価するかは、研究者により様々な見方があり、確定しているとは言えません。
  例えば、私たち世代は、歴史教科書で明治維新=1868年と習いましたが、今の教科書では、「明治維新=近代的国家を確立していく過程」として教えられています。しかも、明治維新がいつ始まり、いつ終わったか定説はありません。始まりを天保年間にとる研究者もいれば、黒船来航にとる研究者もいます。
終わりについては、「廃藩置県」、「西南戦争」、「明治憲法」などの説があります。
明治維新の期間についてさえ様々な意見がある状態です。
  明治維新は、民主主義的な性格をもった革命であると主張する研究者もあれば、絶対主義的な天皇制の成立だとする研究者もいます。
このように、明治維新=栄光の時代という評価は、感覚的な一面的評価と言えます。

 【歴史認識に歪みが…】
 時代小説や大河ドラマにより、知らず知らずのうちに、感覚的で一面的な歴史的評価が刷り込まれることはよくあることです。
 明治維新は素晴らしいと一面的に評価してしまうと、歴史認識にも様々な歪みが生じてきます。その思考過程を単純化すると、次のようになります。

 ★明治維新は栄光の時代→明治維新を実現したのは薩長同盟→薩長同盟を作り上げた維新の志士は素晴らしい→吉田松陰や西郷隆盛、坂本龍馬は偉い

  維新の志士が、史実以上に高く評価されるというが起こっています。坂本龍馬が実際の歴史的役割以上に高い評価を受けているのも、司馬氏の小説によるところが大きいです。坂本龍馬については、次の教科書改訂では削除されることになっています。
 薩長同盟についても様々な評価があります。また、維新の中心だった士族階級の働きに注目がゆき過ぎて、武士道などをやたら賞賛する人もいます。
  1873年の「地租改正」では、地価の3%という過酷な税が義務づけられ、払えない農民は小作人に転落し格差が拡大しました。農民による一揆も各地で頻発しました。
 士族階級の動きばかりでなく、農民や商人の動きも視野に入れて、明も暗もある歴史を見ていく必要があります。

 【その後の歴史認識にも歪みが…】
 明治維新は栄光の時代という一面的時代認識は、次に続く時代の認識にも歪みをもたらしていきます。大胆にその思考過程を単純化してみます。

 ★栄光の明治維新=アジアでいち早く近代化を成し遂げ富国強兵の国家づくりを成功させ→列強の植民地化をはね返し日清・日露戦争に勝利し→韓国を植民地化することに成功し→さらに中国大陸へと進出し→列強に肩を列べるまでになった:この時代は帝国主義の時代であり植民地を広げるのは当然のことである。日本は欧米列強のやっていることを後追いしただけであり非難されるものではない→ABCDラインにより経済封鎖を受け→やむを得ず太平洋戦争を始めた→敗戦→東京裁判は勝者による裁きであり不当である

 明治維新は栄光の時代という時代認識を出発点にして、歴史をこのような形で展開している人たちが少なからずいます。
 日清戦争中の朝鮮王宮占領事件。日清戦争後に引き起こされた朝鮮王妃(閔妃)殺害事件。朝鮮の農民が抗日で立ち上がった第2次甲午農民戦争では、日本軍は数万の人々を殺害しました。
 明治の朝鮮半島への進出が、栄光に満ちたものどころか、朝鮮半島を踏み台にして策謀と殺戮に満ちた帝国主義の階段を駆け上がる最初の時代だったのです。
 また、アジアで二千数百万人の犠牲者が出た戦争とはいったい何だったのでしょうか。『日本は侵略戦争はしていない。歴史的に正当である。』こういう主張は、歴史修正主義と呼ばれています。
  大河ドラマや歴史小説から、なんとなく歴史を理解した気分になると、いつの間にか歴史修正主義に取り込まれていくレールが引かれているのです。

 【明治150年】
  今年は、明治改元(1868年)から150年目に当たるため、「明治150年」を謳ったイベントが数多く準備されています。近代国家の成立に尽力した明治維新の偉業を称え、明治を礼賛しようというわけです。
 かって、佐藤栄作首相の下で、明治百年記念式典が行われました。この時も、明治賛美・近代化賛美が展開されていました。
一面的な明治礼賛は、歴史認識を歪める入り口です。
明も暗もある歴史的事実に向きあう必要があります。

 【定まらない西郷の評価】
 明治150年の今年、大河ドラマ「西郷どん」が始まりました。
「西郷は市民平等を基本とする民主的な社会を目指したのか、士族の権益をあくまでも守ろうとしたのか」。「大度量の人だったのか、狭量の人だったのか」。西郷への評価は、時代により、また立場の違いや歴史観の違いにより定まっていません。
 定まっていないからこそ、様々に描くことが可能です。林真理子「西郷どん」は、果たして何を描くのでしょうか。
  今回の「西郷どん」で時代考証を担当されている原口泉氏の「西郷隆盛はどう語られてきたか」(新潮文庫)は、具体的資料に基づき、各時代で様々な人から、西郷がどう語られてきたかを俯瞰的に述べていて面白かったです。お薦めします。
 ドラマはドラマとして楽しむことは良いことですが、西郷隆盛礼賛、明治礼賛の一面的歴史観に流されないことが大切だと思います。

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2018年2月 2日 (金)

雑草はなぜそこに生えているのか・感想

Zassou1  稲垣栄洋著「雑草はなぜそこに生えているのか」(ちくまプリマー新書)を読みましたので紹介させていただきます。
 著者は静岡大学大学院教授、雑草生態学の研究者です。雑草を追究し、雑草についての著書も多いです。最近では、雑草からみた日本文化論なども書いておられます。

 では簡単に、内容の一部を紹介してみます。(項目は私が勝手に設定しました。)

【雑草の定義は?】
 著者によれば、雑草の定義はきわめて曖昧なもののようです。
アメリカの雑草学会の定義は、「人類の活動と幸福・繁栄に対して、これに逆らったりこれを妨害したりするすべての植物」だそうです。一言で言えば、「邪魔になる草」です。 しかし、邪魔になる植物といっても、ヨモギは雑草ですが、草餅になったりして役に立つこともあります。従って、雑草を厳密に定義することはできず、「邪魔になることが多い植物」といった程度の曖昧な定義なのだそうです。
 日本には、およそ7000種の種子植物があり、雑草として扱われるのは、僅か500種、よく目にする主要な雑草は100種にも満たないそうです。
 どんな植物でも雑草に成れるわけではないのです。
 雑草への道のりも、けっこう厳しいのです。

【雑草は強い植物?】
 「雑草」といえば、私たちは「踏まれても踏まれても立ち上がる強い草」と思っています。「雑草魂」という言葉もよく使われます。 
  しかし、著者は、「強い草」というイメージは違っていると断じます。雑草とは、実は弱い草なのだそうです。踏まれても立ち上がらないのです。
 植物の世界は、光と水と土を奪い合う激しい生存競争の世界です。植物にとって豊かな森の中では、雑草は光の奪い合い競争に負けてしまい、生存することはできません。つまり、競争には弱い植物なのです。

 【雑草は攪乱依存型植物】
 環境の整った土地で勝利する植物を、競争型植物(C型)といいます。自由競争に強い植物です。
 しかし、C型植物がいつも勝利するとは限りません。砂漠などの極度にストレスがかかる土地では、サボテンなどが生き残ります。ストレス耐性型植物(S型)です。
 雑草は攪乱依存型植物 (R型)です。人間は土地を耕したり、草刈りをしたり、開発したり、いつも環境を攪乱しています。このような攪乱された、荒れた場所でうまく生き延びているのが雑草たちなのです。人に寄り添う植物とも言えます。

 【雑草の巧みな戦略】
  〈発芽戦略〉
 弱い雑草にとって、いつ芽を出すかは生死を分ける問題です。雑草の発芽は、暖かくなれば一斉に芽を出すというような単純なものではなく、複雑な休眠の仕組みを持っています。一度低温の状態を経験しなければ、暖かくても芽を出さないのです。冬の初めに暖かいからといって芽を出せば、後にやってくる寒さで全滅してしまいます。
 芽を出す準備をしても、条件が悪ければ再び休眠するという二次休眠という仕組みもあるそうです。雑草は寝てチャンスを待つ植物なのです。
 また、雑草の種子は、ある条件になれば一斉に発芽するのではなく、それぞれの種子には個性があり、発芽の時期が微妙にずれるのです。一斉に発芽すれば全滅するかも知れません。だから、さみだれ的に発芽するのです。人が草刈りをしても、雑草は直ぐまた生えてくると思うのはこのためです。

 〈多様性戦略〉
 農作物は、一斉に芽を出し一斉に実をつけます。農作物は均一性が大切なのです。
1840年代にアイルランドでジャガイモの疫病が発生し、ジャガイモが全滅し100万人の人が餓死するという事態が発生したそうです。
 様々な環境変化に対応するためには、均一性ではなく、多様性が必要なのです。雑草は、多様な性質を保持し、多様な環境に対応して生き延びているのです。
 例えば、スズメノテッポウという雑草は、人間の作り出した環境である畑と水田では、種子の大きさとか数が微妙に違うのです。水田の方は種子が大きく数が少なく、畑の方は種子が小さく数も多いのです。それは、畑の方が環境の攪乱が大きいからです。水田は、環境変化が周期的で安定しています。
 微妙な環境にも対応できる多様性を持っているからこそ、生き残れるわけです。

 〈雑草の生殖と繁殖戦略〉
 雑草の繁殖戦略の基本は、どんな困難状態になっても必ず種子を残すことだそうです。そのために、多様な仕組みを進化させているのです。
 巧みな仕組みで昆虫をおびき寄せ受粉する、もし昆虫がいなくても自動的に自家受粉で繁殖するという、二重に保険を懸けた仕組みをもった雑草もいます。例えば、ハコベやツユクサ、オオイヌノフグリなどは、「自動自家受粉」の仕組みを使っています。ホトケノザなどは、「閉鎖花」といって、つぼみの中で自家受粉してしまう花を、もしもの時の保険として持っています。
 ………と、まあこんな調子で、この本は雑草の面白さ満載の本です。

 著者は述べています。……雑草は、「踏まれても踏まれても立ち上がる」強い植物ではない。時には、チャンスは寝て待ち、どんな困難な状況になっても、「必ず花を咲かせ種子を残す」植物である。「大切なことは見失わない生き方。これこそが本当の雑草魂である」。……
      *******
 自然環境は多様性に富み、様々な攪乱も起こります。この多様性の中で、それぞれの個性うまく適応させて生きているのが、様々な雑草たちなのです。
 人もまた、多様な個性をもった生き物です。多様な個性が様々な分野で発揮できる社会。多様な個性が尊重される社会。そういう社会が今、求められています。
 経済的効率のみで人々が選別され、多様な個性が圧殺される社会。そういう社会は脆弱な社会ではないでしょうか。
 雑草の生き方から、我々人も大いに学ぶべきものがありそうです。
 本書では、著者から若い読者への、雑草から学ぶ生き方のメッセージが満載です。
 お薦めします。    では。また。

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2018年1月19日 (金)

中室牧子著「学力の経済学」感想

Shoukan2018501  中室牧子著「学力の経済学」(ディスカバー・トゥエンティーワン)を、図書館で見つけて読みました。教育経済学という学問分野があることも初めて知りました。
 この本は、2年前、ベストセラー(30万部)だったそうです。

 中室牧子氏は、慶応大学準教授、教育経済学の専門家ということです。
 教育経済学は、教育政策の費用対効果を統計的に分析・評価するもので、統計データや教育実験などの科学的根拠に基づいて行われます。

 最初は面白くて引き込まれ、笑いながら読み進みましたが、途中で目が醒めて、この本のおかしさに気付きました。
 では、内容を紹介してみます。

  <第2章より>
  ★子どもをご褒美で釣ってはいけないのか?
 子どもを「ご褒美」で釣ってはいけないのか? こんな疑問は、興味がありますね。 ハーバード大のフライヤー教授の教育実験の結果は、「効果あり」です。
 「よい成績を取ればご褒美」というアウトプットにご褒美を与えるより、「本を1冊読めばご褒美」とか「宿題をすればご褒美」というように、具体的なインプットにご褒美を与える方が、結果として効果が大きいそうです。どうしたら良い成績が取れるのか、具体的方法は子どもには分からないですから…。 納得ですね。

 この本は、こんな調子で様々の教育課題に対して、教育経済学の研究を紹介しながら答えを紹介しています。面白そうなものを取り出してみます。

  ★「頭がいいのね」と「よくがんばったね」は、どちらが効果的か?
 答えは、「よくがんばったね」です。「能力を褒めることは、子どものやる気を蝕む」という、教育実験の結果をまとめた論文があるそうです。

 ★テレビやゲームは子どもに悪影響を及ぼすか?
 答えは、「ほとんど影響はない」です。テレビやゲームを禁止しても、学習時間はほとんど増えないということです。
 「勉強しなさい」も、効果はないそうです。逆効果の場合もあるそうです。

 ★「友だち」が学力に与える影響は?
 ・学力の高い友だちの中にいると、プラスの影響がある。
 ・レベルの高すぎるグループに無理矢理入れると逆効果になる可能性がある。
 ・問題児の存在は、学級全体に負の効果を与える。
 ・飲酒、喫煙、暴力などの反社会的行為は、友人からの影響を受けやすい。
  ということです。

 ★教育にはいつ投資すべきか?
  教育を投資と考えるならば、最も収益率が高いのは、幼児教育ということです。
  これは、ペリー幼稚園を舞台に行われた大規模な教育実験の結果だそうです。

  <第3章より>
  ペリー幼稚園での幼児教育プログラムの研究より明らかになったことは、意欲、忍耐力、自制心といった「非認知能力」が、将来の年収、学歴や就業などの労働市場における成果に大きく影響をするということです。
  「非認知能力」への投資も非常に重要ということです。 なるほど。

 <第4章より>
 ★少人数学級は効果があるか?
  著者の結論は、「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策である」です。
  この結論の根拠になった論文は、慶應義塾大学の赤林教授の研究です。
 研究方法は→40人学級の学校に転校生があると、学級は20人規模の少人数学級が突然誕生します。この突然生じた少人数学級の学力が上昇するか調べるものです。
  結果は、学力の上昇は見られなかったということです。
 著者は結論づけます。
「少人数学級になるときめの細かい指導ができるなどと考えることは、根拠のない期待や思いこみ。こんなことに財政支出するのは危険!」  ウーン!! ちょっと待て!

  何か、この辺まで来ると目が醒めてきますね。
  こんなデータから、少人数学級を否定されてはたままりませんね。教科書も教材も同じで、指導方法も一斉講義方式の授業では、成果が出ないのも当然です。

 少人数学級が、全国一斉で始まるとすれば、指導方法や教材が劇的に変化します。また、変化させなければいけないです。
 OECDの統計で見れば、欧米では学級規模は30人以下が普通となっています。日本は、大規模学級を指導し、勤務時間も長くなっています。
 日本では、大規模学級での一斉講義方式の授業が一般的となっています。学級規模が小さくなれば、生徒が参加できる授業づくりが進むことはまちがいないです。大声で命令口調で喋る日本の教師の特徴も変化するかも知れませんね。

 また、学級規模の縮小は、今や重要な課題です。私が教師になった頃に比べると、現在では教師に求められる課題は、複雑で多様化してきています。
 昔であれば、「やりにくい子」、「できない子」、「落ち着きのない子」などと、一括りにされていた生徒も、実は、様々な発達の課題を持っていることが、心理学の研究が進み科学的に明らかにされてきています。家庭内での虐待や不登校の生徒、食物アレルギーをもった生徒などへも、以前より遙かにきめ細かな指導が求められています。
 成績が上がるかどうかというアウトプットだけを見て、効果が少ないから少人数学級を否定する、これは暴論に近いでしょう。

  <第5章より>
 第5章に入ると、著者のパワーはますます炸裂してきます。
 【いい先生とは?】
  ★いい先生とは、学力を上げられる教師である。
 ★いい先生を作るためには、成果が出ればボーナスを増やすより、成果が出なければボーナスを削る仕組みの方が有効である。
  ★なるべく能力の高い人に教員になってもらうためには、教員免許制度を無くすことである。
  点数の向上というアウトプットだけで、教師を評価しようなどとは、もうついて行けませんね。この辺まで来ると、教育経済学なるものは適用を誤れば危険なものであると思わざるを得ませんね。

 著者は言います。
「現在の日本経済の状況を考えると、学校の教員を1人増やすには警察官や消防士を1人減らさないといけないし、学校を新しく建てるには、病院を新しく作ることをあきらめなければいけない。」
  教育にお金をかければ、なぜ、警察官や消防士を減らしたり、病院を減らさねばいけないのでしょうか? 
 戦闘機の購入やイージスァショアの導入よりも、教育への投資を増やすことは意味がないのでしょうか? その政策の選択は誰が決めるのでしょうね。
 そこまでして、OECD諸国の中で、GDPに占める教育予算が最低の国を維持し続ける必要があるのでしょうか?
  2013年の統計で見ると、日本の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は前年と同じ3.6%で、OECD加盟国中最下位。最下位は4年連続!
  著者は、政府の教育政策に影響のある委員を兼職されているようです。また、労働者派遣業で稼ぐパソナグループ会長・竹中平蔵氏の慶応時代のお弟子さんとか。納得!

 最初は笑って、後は気持ち悪くなる本でした。面白い内容もあるものの、お薦め度は半分以下かな?  では。また。

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2017年12月 5日 (火)

悪魔のティティヴィルスの話

Chuseini  今回は、中世ヨーロッパで目撃された悪魔のティティヴィルスの話です。

 この悪魔は、アイリーン・パウワー著「中世を生きる人々」(東京大学出版会)という本の中に登場しています。まずは、この本の紹介から。

  著者のアイリーン・パウアは、イギリスの中世史家です。この本は、中世のヨーロッパ社会に生きた無名の人々の姿を描いたもので、6人の人物が登場しますが、13世紀の旅行家マルコ・ポーロ以外は、まったく普通のありふれた人物です。農夫、尼僧院長、パリの主婦、羊毛商人、毛織物の織元の6人を通して、中世ヨーロッパの本音の人間生活が活き活きと描かれています。
 私たちは、中世ヨーロッパと聞けば、神聖な祈りに満ちた世界、魔女狩りや封建的因習に満ちた暗黒社会、アーサー王や騎士の恋物語などを思い浮かべますが、実際の生活がどんなだったかは、ほとんど知りません。
 人間社会ではいつの時代でも、法律や支配の抜け穴をチャッカリと生き抜く人々がいたり、欲望や喜怒哀楽に動かされながら生活する人間臭い人々がいるものです。中世のヨーロッパ社会も同じであることを、この本は教えてくれます。

  さて、悪魔のティティヴィルスの話は、第3章「マダム・エグランティーン」に出てきます。尼僧院長のエグランティーンの生活を描くことにより、中世の修道院の実態が明らかにされていきます。
  修道院といえば、禁欲的で厳粛な雰囲気を想像しますが、実際は必ずしもそうではなかったようです。
  「祈祷は空虚な形式と化し、信仰の念は薄らぎ、時には恥ずかしいほど冒涜的な態度でそそくさとすまされた。余りにもきまりきった日課が、もたらす当然の反動であった。……中世後期の修道院において時間不励行の罪はごく普通のことだった。…祈祷の間にくすくす笑い、ふざけ、喧嘩をし、下の席でうたっている人の剃った頭に上の席からあつい蝋燭の蝋を落とした。……」
 「祈祷の言葉をとばし読みする者、もぐもぐと誤魔化す者、いい加減に急ぐ者、神聖な聖歌を歌う時、ぶらぶらする者、とびはねる者。」 こんなような状況だったので、悪の父はティティヴィルスという悪魔を傭うことにしたのです。

  信仰心の深い人には、しばしばティティヴィルスは目撃されていました。長い大きな袋を首のまわりにぶら下げ、みすぼらしい姿で尼僧席の周りをウロウロしながら、不誠実な言葉を袋に集めるのです。
  修道院長に見つかり、問いつめられたティティヴィルスは答えます。
  「毎日あなた方の修道院で読んだり歌ったりする時にできる失敗、怠慢、言葉のきれはしなどを千袋ずつ主人の所に持っていかねばなりません。そうしないとひどくぶたれるのです。」
 彼は、神のためではなく自己の虚栄のために歌うテナー歌手の歌も、人々のつまらない噂話なども袋に詰めていたそうです。
 ティティヴィルスを傭った悪の父も、さぞかし満足だったことでしょう。
 
 中世ばかりでなくいつの時代も、人間は不誠実な言葉やいい加減な言葉を吐き続けています。堕落した言葉を拾い集めなければならないティティヴィルスの仕事は、際限もなく続いています。哀れなティティヴィルスに同情、いや共感してしまいます。
 宗教改革前夜の中世に目撃されたという悪魔のティティヴィルスの話、何か深く印象に残ります。
   ……………
 悪魔のティティヴィルスのその後について、この本には記述はありませんが、中世の修道院以上に堕落した現代の日本では、悪魔のティティヴィルスは忙しく働いているに違いありません。特に不実な言葉が飛び交う永田町と呼ばれる界隈では……。
 今の日本ほど、堕落した言葉が溢れ、言葉が意味を失っている時代はありません。
「丁寧な説明」とは、なにも説明しないことであり、
「働き方改革」とは、残業代を払わずに、非正規で一生働かせることであり、
「1億総活躍」とは、老人も病人も低福祉で働き続けろ、という意味です。
「人づくり革命」とは、人を潰す政策を隠すための言葉です。
「危機突破」とは、危機を振りまくことでした。
「忖度する言葉」。流行語大賞です。人を堕落させる言葉ですね。

 東京都庁方面で、ティティヴィルスを見たという噂もあります。
「東京大改革」、「日本をリセット」、「改革の一丁目一番地」。この空虚な言葉をティティヴィルスが見逃すはずはありませんね。
 現代のティティヴィルスは、どんな姿をしているんでしょうね。
 私も目撃したいものです。
  悪魔のティティヴィルスの話でした。 「中世を生きる人々」お薦めします。

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2017年11月29日 (水)

蜜柑の想い出

  Akutagawa0102 立冬も過ぎ、寒さが増して来ました。炬燵に入って蜜柑でも食べたくなる季節になりましたね。そんなわけで、今回は「蜜柑」にまつわる想い出などを書いてみます。

 芥川龍之介の作品に、「蜜柑」という短編があります。先ずは、この作品を紹介してみます。

 冬の日暮れ方、主人公の「私」は、横須賀発上りの汽車に乗ります。
「私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりとした影をとしていた。」
  発車間際に、小娘が慌ただしく駆け込んできて、「私」の前の席に座ります。
「油気のない髪を銀杏返しに結って、…皹(ひび)だらけの両頬を気持ちの悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった」
 垢じみた萌黄色の襟巻き。大きな風呂敷包みを抱いた霜焼けの手。「私」は、この小娘に対して「不快感」や「腹立たしさ」のようなものを感じるのです。
 列車がトンネルを抜け、町はずれの踏切に差しかかった時、「私」は意外な光景を目にします。
「頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。……一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分からない歓声を一生懸命に迸(ほとばし)らせた。」
  この時、この小娘は窓から身を乗り出し、蜜柑を五つ六つ、男の子たちに向かってほうり投げたのです。
 「私」は思わず息を呑み、この瞬間にすべてを理解するのです。
これから奉公先に赴こうとする娘。わざわざ踏切まで見送りに来た弟たち。
「小鳥のように声を挙げた三人の子どもたちと、その上に乱落する鮮やかな蜜柑」。
「暖かな日の色に染まっている蜜柑」。娘から弟たちへの惜別の贈り物。
「私」の心の上に、切ないほどはっきりと、この光景が焼き付けられたのです。
  ………

 まだ多くの人が貧しかった日本。娘たちは女中奉公に、男たちは丁稚奉公や工場労働者として故郷を離れていった時代。そんな時代の夕暮れの空に投げ上げられた蜜柑。鮮やかな放物線を描き落下していきました。
 およそ百年前に、芥川龍之介に目撃された蜜柑。今の時代でも、誰かがどこかで投げ上げているのでしょうか。暖かな日の色に染まった蜜柑を……。
  私の心の奥には、この蜜柑の映像が、見たわけでもないのにはっきりと記憶されています。冬のきれいな夕焼けを見ると、空に蜜柑が飛んでいるような気がします。
 芥川龍之介「蜜柑」、名作です。お薦めします。

 実は私にも、蜜柑にまつわる想い出があります。次にそれを…。僭越ながら…。

  半世紀も前のことです。年の瀬の夕刻、私は京都駅より山陰線午後18時発の列車に乗りました。学校が冬休みになり、丹後半島にある故郷に帰省するためです。汽車を降りてから、まだバスを乗り継がねばならず、この汽車が故郷に向かう実質最終列車です。私と同じ出身地の人にはよく知られた、京都駅発18時の最終列車です。
 私の目の前の席には、私と同じ年頃のちょっと可愛い女性です。私は、可愛い女性を見れば、下心を持って話しかけるなどということは、決してしないタイプの人間です。
 黙って本を読んでいた私に、その女性が、「どうぞ。食べませんか。」と、蜜柑を一つ手渡してくれたのです。その時の生温かい蜜柑の感触は今も忘れられないです。
 たどたどしく続く会話から、この女性は、私の隣町の出身で、大阪に就職し一年目の正月を故郷で過ごすために帰省するところでした。
 たどたどしく、おずおずと会話は続きました。
 この女性を楽しませようとあれこれ話題を探していましたが、数学の問題を解くようにはいかず、なかなか難しい問題でした。
  私が、「大阪へ出て一番嫌なことは何ですか?」と質問したとき、衝撃の言葉が返ってきました。何かを訴えるような、いや、悲しそうにも聞こえる声で…。

 「都会の空は、星が見えないんです。それが一番寂しくて……。」

 この言葉を聞いた瞬間、頭の中を言葉にならない考えが、激しく駆け巡りました。「私は、最近星を見たことがない」。「私は、何か大切なもの忘れていたのでないか」。言葉が見つからず、窓の外に目をやると、暗闇のむこうに漁り火のように、村々の灯りが見えていました。  ………

 東京オリンピックや高度経済成長に湧く日本。空の星が見えなくなっていった日本。私が生きてきた、団塊の時代と呼ばれるその後の時代は、何か大切なものを忘れていく時代だったのでしょうか。
  蜜柑をくれた女性。生温かった蜜柑の感触。寒い冬の空を見上げると、いつも懐かしく思い出します。
 この女性は、今でも、どこかで、星を見上げているのでしょうか。
  蜜柑の想い出でした。  では。また。

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2017年11月 6日 (月)

憲法改定にどう向き合うか②

「憲法改定にどう向き合うか①」の続きです。 ①は→ こちら
  戦後史を俯瞰しながら、自衛隊の指揮権問題を中心に戦後史をみていきます。

 【自衛隊の指揮権~旧安保体制下では】
 朝鮮戦争下、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は独立します。しかし、ほぼ同時に、旧安保条約が締結され、アメリカの占領的状態が継続されました。
 アメリカは、後方支援のため再軍備を要請し、警察予備隊が結成され、これが後に自衛隊となります。
  旧安保条約に基づき、アメリカ軍の日本における地位を定めた『日米行政協定』の交渉が行われます。アメリカ側の示した『日米行政協定』原案の第14条では、「日本の軍隊はアメリカ軍の指揮下に入る」となっていました。交渉に当たった岡崎官房長官(後の外務大臣)は、「これでは国民の反発があり政権がもたない。条文には現れないような形にして欲しい」と要求し、出来上がったのが『日米行政協定』第24条です。

 行政協定24条:『…急迫した脅威が生じた場合には、…必要な共同処置をとり…直ちに協議しなければならない。』

  「共同処置をとり直ちに協議する」までの部分を条文化し、「アメリカ軍の指揮下に入る」という部分は密約という形で合意しました。いわゆる指揮権密約です。
 指揮権を具体化する組織として、第26条で定められた日米合同委員会が位置づけられました。結局、次のように表すことが出来ます。
 『日米行政協定24条』+『密約』+『日米合同委員会』=『有事の時、自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入る』

  【自衛隊の指揮権~新安保条約下では】
  1960年に安保条約の改定が行われました。指揮権密約はどうなったのでしょうか。
 国民から非難を受けた『日米行政協定』第24条は削除されますが、ほぼ同じ内容で新安保条約の第4条に受け継がれ、さらに軍事力の増強を定めた第3条、共同作戦を義務づけた第5条などがあいまって、さらに強化されました。
 日米安保協議委員会(SCC)が組織され、その下部組織としていくつかの組織が作られ、アメリカ軍と自衛隊幹部による直接的、具体的な協議が非公開で行われる体制も出来上がりました。日米防衛協力小委員会(SDC)、日米安保運用協議会(SCG)などです。
 '60年の安保条約の改定は、国民から大きな批判を招き、「安保反対闘争」が全国的に展開されました。

 【日米ガイドライン】
  ★1978年に日米防衛協力小委員会(SDC)で、日米防衛協力のための指針(第1次日米ガイドライン)が決定されました。
 自衛隊とアメリカ軍は、調整機関を通して緊密に連携し、日本とその周辺で作戦行動を執るとする内容です。調整機関とは実質在日米軍司令部です。
 作戦領域は日本領土から周辺(極東)へと広がりました。
 鈴木・レーガン共同声明では、「1000海里・シーレーン防衛」が明記されました。
  中曽根総理の「不沈空母」発言は1983年のことです。

 ★1997年に、第2次ガイドラインが決定されました。
 日米防衛協力ガイドラインとは、アメリカ太平洋軍と自衛隊との協議で決められたもので、国会で論議され決まったものではありません。国民からみれは密室協議です。シビリアンコントロールという点からも重大な問題です。
 この第2次ガイドラインに沿って、「周辺事態法」が成立しました。自衛隊の活動領域の拡大が進みました。
 アフガン紛争、イラク戦争中、燃料補給や米軍輸送のために、自衛隊は、海上給油やイラク派遣を行いました。
 横田基地に自衛隊航空総隊司令部が、キャンプ座間には、米陸軍第一軍司令部と自衛隊の中央即応集団司令部が移ってきて、司令部機能が一体化され、自衛隊と米軍の共同作戦体制が進みました。
 
 ★2015年に第3次ガイドラインが決定されました。
 このガイドラインでは、平時から緊急事態までのあらゆる段階で、自衛隊と米軍が協同することが確認されました。いわゆる「切れ目のない対応」。
 第3次ガイドラインの発表に続いて、国会では集団的自衛権を容認する「平和安全法」が強行採決されました。ガイドラインの方が先行し、国会決議がこれを追いかけるという、シビリアンコントロールに疑念を抱かされる事態になりました。
 同盟調整メカニズム(ACM)で、自衛隊とアメリカ軍の調整機関が設置され、事実上の日米統合司令部が発足しました。

  【私の結論】
 以上みてきたように、自衛隊は、『アメリカ軍の指揮下で作戦行動をする軍隊』という側面を持っていることが分かります。このような対米従属的な状態で自衛隊を戦力として憲法に位置づけることには、問題が多すぎます。
  「平和安全法」の廃止、「日米安保条約」と「日米地位協定」の改定が前提として必要であると考えます。私の結論は、(A)には×を投じます。
   *****
 自衛隊の指揮権についてだけみても、これだけの問題点があります。
 「日米地位協定」については、書くスペースが無くなりましたが、その異様さは、肌で感じられていることと思います。
 ・全国にたくさんの米軍基地が存在し、沖縄は基地の島となっている。
 ・日本の上空には、国内法の根拠が無いにも拘わらず、アメリカ軍の飛行管制空域が広がっている。(沖縄空域、岩国空域、首都圏の横田空域など)
 ・在日米軍駐留関係の日本負担経費は、6千億円を超えている。
 ・先日、ヘリが墜落したが、日本の警察や消防は手出しも出来ず、墜落原因も究明されず、同型ヘリの飛行停止は直ぐに解除されてしまった。
  ・事故率の高いオスプレイが、日本上空7つのルートで、日本の航空法を無視して低空飛行訓練をしていると思われるのに、抗議もしないし、止めさせることも出来ない。

  あ~~、もう書き出したらキリがありませんね。日本の主権はどうなっているのでしょうか。
 北朝鮮に対してアメリカが軍事行動をとれば、自衛隊も協同で行動することになります。ならず者国家の北朝鮮が、日本を核攻撃する可能性さえあります。東京が攻撃されれば、100万人の人が死ぬという試算も出されています。こんな危険を冒してまで、アメリカに追随するのは、ちょっと御免です。
 穴の空いた「核の傘」から自立して、アメリカに頼らない日本独自の安全保障を追求する必要がありますね。
 核兵器禁止条約にも早く署名して欲しいものです。
 以上、私の勝手な意見を書きました。 では。また。

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2017年11月 5日 (日)

憲法改定にどう向き合うか①

 先日の『48回衆議院選挙にあたって』という記事で、憲法改定と海外派兵は、アメリカの首尾一貫した要求であること、民進党の分裂は憲法改定をめぐる問題であることを戦後史を振り返りながら書きました。
  『48回衆議院選挙にあたって』は、→ こちら です。

  今回の選挙で自民党は大勝しました。当然のことながら、間もなく、国民は憲法改定に直面することになります。国の進路を決める重大な問題であり、国民一人一人が、しっかりと自分の意見を持つべき時が来たのだと思います。
 以下、一国民である私の意見を書いてみます。

 【改定の焦点は9条】
 憲法改定の項目として、教育の無償化や解散権の制約、個人情報の保護など様々な問題が提起されています。しかし、これらの問題は本質的な問題ではありません。
  例えば、教育の無償化という問題について言えば、現憲法はそれを禁止してはいません。憲法改正しなくても、無償化の法律を作れば出来ます。国会の3分の2を占める勢力が、やる気を出せば出来ることです。今、教育無償化が進まないのは、やる気がないだけです。憲法に書き込んでも、予算化されなければ実現しません。解散権の制限など、他の項目についても同じ事が言えます。(ただし、緊急事態条項は危険な意味を持ちます)
 あくまでも9条をどうするか、自衛隊を憲法に書き込むかどうかが、今回の核心的問題なのです。問題の焦点を見失ってはいけません。
 マスコミは、あれこれと争点らしきものを並べて、争点を曖昧にするのはいつものことです。

  【自衛隊は国民から認知されている】
 自衛隊は災害派遣などで成果を上げ、この点では、ほとんどの国民からは評価されています。PKO派遣で一定の役割を果たしているという評価もあります。自衛隊の存在は、今や多くの国民から認知されています。
 現在の政党の中で、自衛隊の即時廃止を主張する政党はありません。
 今問われているのは、自衛隊を廃止するかどうかではありません。憲法上にどう位置づけるかの問題です。

 【戦後史における現在の到達点】
 『48回衆議院選挙にあたって』で書いたように、自衛隊は、朝鮮戦争下という状況の中でアメリカの要請により誕生しました。その後の東西冷戦の中で、共産圏と対峙するものとして存在しました。東西冷戦終了後は、アメリカの世界戦略の中に位置づけられ、アメリカからは憲法改定と海外派兵を求め続けられました。そして、2015年、日米同盟を進めるために、憲法の枠組みを乗り越える「平和安全法」が成立しました。

  【国民の選択肢は三つ】
 現時点で日本の置かれた状況を考えると、国民の前に示された選択肢は、論理的に考えると三つしかないことが分かります。
(A):『9条2項を削除し、自衛隊を戦力として位置づける』
 集団的自衛権を容認した「平和安全法」は合憲とする人、日米同盟を外交の基軸だと考える人は、この(A)を選択することになります。
 政党で言えば、自民党、公明党、維新の党、希望の党ということになります。
  2項を残したまま、3項に自衛隊を加憲するのは、国民の支持を得るための一時しのぎで、2項との矛盾が生じます。遠くない時期に2項を削除することになります。

 (B):『自衛隊を海外派兵をしない専守防衛の戦力として位置づける』
 専守防衛の自衛隊は合憲であるという人、対米従属に反対の人、「平和安全法」は違憲であるとする人、安全保障のためには何らかの戦力は必要と考える人は、この(B)を選択する事になります。護憲的改憲派と言うべき立場です。
  現在、この方向を明確に打ち出している政党はありません。
 立憲民主党は、「平和安全法を廃止し、明確に専守防衛を保障する改憲もあり得る」と言っているので、この(B)に最も近いかもしれません。
 共産党も「当面自衛隊は保持するものの、将来的には国民の合意で決める」と言っているので、国民的合意で(B)に変化する可能性はあります。

 (C):『自衛隊は専守防衛の枠内に留め、当面は現憲法を維持する。』
 9条は、アメリカからの海外派兵要請を拒み、敵地攻撃力などの兵力の拡大に歯止めをかける役割を果たしてきたことを評価して、当面は現在の憲法を維持しようと考える人、「平和安全法」は違憲であるとする人は、この(C)を選択することになります。
 政党としては、社民党、共産党、立憲民主党ということになります。 

  【対立軸は(A)対(B+C)】
  間もなく予想される憲法改定発議は、国会の3分の2以上を占める(A)の立場からの発議です。(A)の立場からの憲法草案に賛成か反対かを問う国民投票です。
 したがって対立軸は、(A)対(B+C)になるわけです。
 護憲か改憲かは対立軸ではありません。(B)の意見の人は改憲ですが、(A)とは対立的位置にいます。あくまでも、(A)に対して、○か×が問われているのです。
 様々な意見が、マスコミを通じて錯綜する中で、対立軸を間違えると、教育無償化に賛成だから、(A)には○ということになったりします。
 また、(B)と(C)の意見の違いに焦点を当てて対立するのは、歴史の現局面を見失うことになります。アメリカに頼らない日本独自の安全保障を確立するのは、歴史的には次の段階での課題です。

  【自衛隊とは何かを考える】
  自衛隊を憲法に位置づけようというわけですから、現在の自衛隊をどのように考えるかが重要な問題です。
 次に戦後史を俯瞰しなが、自衛隊の指揮権問題を中心に戦後史をみていきます。
     この続きは、「憲法改定にどう向き合うか②」です。 ②は、→ こちら

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2017年10月13日 (金)

48回衆議院選挙にあたって

 今回の衆議院総選挙について、思うところを書いてみます。

 森友・加計問題で追いつめられた安倍政権でしたが、支持率の回復と野党の体制が整わない間隙を狙って衆議院を解散させました。憲法改正も公約に掲げられました。
 民進党の解体という劇的な事態が生まれました。このような大きな政治的動きがあった時は、冷静に事態を見る必要があります。戦後史全体を俯瞰しながら、この事態は、戦後史全体のどこに位置しているのかという事を考える必要があります。

 では、簡単に戦後史をおさらいしてみましょう。(憲法・安全保障を中心に)
 
 【サンフランシスコ体制の成立】
  敗戦後の1946年、GHQが作成した憲法草案が示され、議論の結果、これを修正して現在の日本国憲法が生まれました。戦争に疲れた多くの国民にとっては、歓迎すべきものとして…。
 世界的に見れば、この時代すでに東西の冷戦が始まっていました。
 1950年に朝鮮戦争が始まりました。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれましたが、西側諸国との片面講和でした。この講和条約には、「連合国日本占領軍は、本条約効力発生後90日以内に日本から撤退すること」(第6条a)が定められていましたが、同時期に結ばれた「日米安保条約」「日米行政協定」により、米国の半占領状態が続くことになりました。
  「日米行政協定」を一言で言えば、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という協定です。(第二条1項、第三条1項)
 日本は、アメリカに従属した「反共の砦」として、共産国と対峙する西側諸国の一員となったのです。

 【砂川事件判決・司法権の従属】
 1957年の砂川事件伊達判決をめぐって、日本の司法さえもがが、対米従属であることが明らかになりました。
 米軍の駐留を違憲とした伊達判決は、高裁を飛び越え、ただちに最高裁に持ち込まれ、「高度に政治的問題については憲法判断はしない」」(統治行為論)という判決が下りました。後に、最高裁田中耕太郎長官は、密かにアメリカ側と接触していた事実が明らかになりました。この司法権の従属判決は現在も続いています。

 【日米安保条約の改定】
 1960年に旧「安保条約」と「日米行政協定」にかわり、新「安保条約」と「日米地位協定」が結ばれましたが、「米軍が必要とすれば、日本のどんな場所でも米軍基地にすることができる」という本質的内容は継続されました。
 「日米行政協定」→「日米地位協定+密約」という形をとなりながら…。
  日本国内には多数の米軍基地があり、米軍には日本の法律が適用されない治外法権状態は、現在も続いています。

 【再軍備と憲法改正を求めるアメリカ】
 アメリカは、朝鮮戦争下、日本に再軍備化を要請し「警察予備隊」が創設され、1954年には自衛隊となりました。
 アメリカの公文書公開により、1948年のフォレスタル国防長官時代に「日本の限定的再軍備」(ロイヤル陸軍長官答申)が、アメリカの軍首脳部の公的な方針として確定していた事が明らかになっています。この文書には、将来憲法を改定して、本格的に軍隊をもたせるための準備をやっていくことも明記されていました。
 憲法改正と海外派兵は、アメリカの基本的な要求だったのです。
  歴代自民党政府は、「専守防衛の自衛隊は合憲」という立場でした。日本社会党は、「自衛隊は憲法違反、非武装中立」を主張し、自民党と対立しました。
 自民党のリベラル的な性格を持つハト派政権は、憲法9条を口実にアメリカからの海外派兵要請をかわしつづけました。憲法9条は、アメリカからの海外派兵要請を拒否する側面も持っていました。
 タカ派といわれる中曽根首相は、憲法改正を強く主張し、「日本は不沈空母」という発言もしました。

 【東西冷戦の終結】
 1991年、ソ連の崩壊により冷戦が終結し、アメリカは世界で唯一の超大国となりました。日本の「反共の砦」、「不沈空母」の役割が終わったかに見えました。
 しかし、北朝鮮の脅威、中国の軍事力増強など、極東地域の平和への脅威を理由に、引き続き安保体制は継続しました。
  単なる継続でなく、むしろ積極的に「日米同盟は外交の基軸」論が主張されるようになりました。

 【日本社会党の崩壊】
 総評の解散、連合の結成など労働界が右へと再編されていきました。非武装・中立を主張していた日本社会党は、ジリジリと勢力を弱めていました。
 1994年、村山連立政権が誕生しました。非武装・中立を主張していた社会党は、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の路線を大転換しました。この結果、社会党は国民の支持を失い、分党・解党の道をたどりました。
 その後は、「自衛隊合憲、専守防衛論」が政治の主流となっていきました。

  【集団的自衛権・改憲の要求】
 1991年の湾岸戦争以降、アメリカの日本への海外派兵圧力が強まってきました。
 1997年には、日米ガイドラインが改定されました。(周辺事態に対応)
様々な条件付きでしたが、あいついで海外派兵を可能にする法律、PKO協力法、周辺事態法などがが成立しました。
 2000年、アーミテージ国務副長官が対日報告書で、『集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している』として、集団的自衛権の行使を求めてきました。
 小泉政権下で、イラク、アフガン戦争への協力をめぐり、テロ対策特別措置法、イラク復興特別措置法が成立しました。有事法制も整えられました。
この時期は全体として、海外派兵強化、有事法制の整備、大規模な改憲運動が進みました。
 【憲法の枠組みを乗り越え始めた第2次安倍政権】
 2015年、日米ガイドラインを改定。(協力を切れ目無く、地球規模に拡大)
  第2次安倍政権では、集団的自衛権行使を可能とする平和安全法が成立しました。
 憲法学者をはじめ、市民連合、学生組織などが、この法律は憲法違反であると一斉に批判しました。「日米同盟」の強化はついに、憲法の枠組みを壊さなければ進められない状態に到達したのです。

  【民進党の分裂と選挙の争点】
 以上のように見てくると、日本社会党の崩壊は、自衛隊は合憲かどうかをめぐっての問題でした。今回の民進党の分裂は、憲法9条を改正するかしないかをめぐる問題です。消費税の使い道や社会保障の進め方で分裂したのではありません。
 選挙の争点は、まちがいなく「憲法改正」です。今回の選挙は、戦後史の中で、初めて本格的に憲法改正が問われる選挙なのです。マスコミはあれこれ面白く報道するので、選挙の争点が見えにくくなっています。「チガウダロ~!」と叫びたくなります。

 【北朝鮮危機をめぐって】
 ならずもの国家・北朝鮮を巡る最悪のシナリオは、「アメリカ軍の軍事攻撃→北朝鮮による日本の米軍基地への核攻撃」です。戦後史の中で、日本が核攻撃をうけるかもしれない最大の危機が迫っています。自民党の6割、維新の9割の議員が、アメリカの軍事オプションに賛成という報道があります。軍事行動をちらつかせるトランプ大統領に追随するとは、危険かつ愚かです。日本が核攻撃を受ける危険を孕んでいます。
 「話し合いは無駄だ。必要なのは圧力だ」という主張は、戦後史全体を俯瞰すれば、海外派兵と憲法改正に親和性のある主張です。
 一番の基本的な問題は、アメリカ軍の基地が日本に多数存在することです。
 「日本はアメリカの核の傘で守られている」、「日米同盟は外交の基軸」。これらの意見を克服し、アメリカ追随国家から自立する必要があると考えます。被爆国でありながら、核兵器禁止条約に署名しない国など、あり得ないでしょう。

  「北朝鮮問題は話し合いで…」は当然の主張ですが、どこで、誰が、何を話し合うのかが問題です。「アメリカと北朝鮮が二国間で…」という中国などの主張は無責任です。中国は朝鮮戦争の片方の当事者です。もう片方の当事者は国連軍です。
 話し合いの舞台は当然国連です。武力による威嚇は国連憲章違反です。
 核兵器禁止と国家の主権を尊重した、朝鮮戦争終結についての話し合いです。
   (これは私論です。)
  選挙の投票先は難しくないですね。

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2017年9月 1日 (金)

原民喜詩集を読む

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  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、原爆詩人として知られている原民喜です。彼は、自らの自画像を描く言葉として、「死と愛と孤独」という言葉を残しています。この詩人はどのように生き、そして、なぜ自死したのでしょうか? その生涯を追ってみます。

明治38年(1905年)、広島市幟町で12人きょうだいの五男として生まれます。
12歳の時、父を亡くし、この頃より極端に無口で内向的な少年となっていきます。

13歳の時、聖書の世界を教えてくれた姉を亡くします。
 形見として譲り受けた青い表紙の聖書を、彼は生涯愛読していたそうです。姉の死に向き合い、彼はさらに寡黙な人へとなっていきます。
 証言によれば中学時代、彼の声を聞いたことがない級友もいたとか。

19歳で慶応大学予科に入学。熱心な文学活動。日本赤色救援会などの活動に参加。
 しかし、寡黙で人付き合いは出来にくかったようです。

27歳で、大学英文科を卒業。就職難の時代でダンス教習所の受付として働きます。
 女性と同棲したり、自殺を図ったり、荒れた生活だったようです。

28歳。まわりの勧めにより貞恵と結婚。
 この貞恵は、気さくで明るく、利発な女性だったようです。民樹の文学を信頼し、無口で人付き合いの出来にくい民樹を支え、励まし続けました。
 後に彼は、「人と逢ふ時には大概、妻が傍から彼のかはりに喋っていた」(遙かな旅)と回想しています。また、「死と愛と孤独」という作品の中で、
 ~♪嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。♪~
と書き残しています。
 貞恵は、彼の耳となり、口となり、よき読者として彼を支えたのです。
 しかし、このような関係はいつまでも続くわけではありません。

 ~♪「そら」 (小さな庭)
おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかったのだ。うごけないからだゆえ朝の訪れが待ちどおしかったのだ。♪~

 ~♪「病室」 (小さな庭)
おまえの声はもう細っていたのに、咳ばかりは思ひきり大きかった。どこにそんな力が潜んでいるのか、咳は真夜中を選んで現れた。それはかたはらにいても堪えがたいのに、まるでおまへを揉みくちゃにするような発作であった。嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどっても、病室の嘆きはうつろはなかった。嘆きはあった、……そして、じっと祈っているおまえのけはひも。 ♪~

39歳。肺結核に罹り病床にあった妻を、彼はついに亡くしてしまいます。
 ~♪もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……♪~(遙かな旅)
  妻に死に別れた彼は、毎夜、妻の幻と対話し、妻へ宛た手記を書きながら、悲しい美しい一冊の詩集を残すために生きていきます。

40歳。家業を手伝うため広島の兄の家に疎開。すべて運命のいたずらか、ここで原子爆弾に被爆。彼は、頑丈な厠にいたため奇跡的に生き残ります。
 
 ~♪「コレガ人間ナノデス」
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス   ♪~ (原爆小景)

~♪「水ヲ下サイ」
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
………   ♪~  (原爆小景)

 彼は、原爆の惨状を目の当たりにして、「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよう」と決意します。
 ~♪自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に操返し操返し云いきかせた。それは僕の息づかいや涙と同じようになっていた。
………
 僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
………  ♪~ (鎮魂歌)

 彼は心の苦しみに耐えながらも必死に、「原爆小景」などの詩や被爆の体験を綴った三部作、「壊滅の序曲」、「夏の花」、「廃墟から」などを書き上げます。
 彼の作品は、自分の主義主張を表明したり、原爆の悲惨さを強調し、反戦・平和を訴えるといった作品ではありません。父や肉親の死、愛する妻の死、そして原爆による多くの人の死、その死の意味を自らに問いかけ、すべての死者の魂を鎮魂する歌、というべき作品を書き残したのでした。
 「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう」と思いつつも、被爆の体験を書き残すために、5年間も生き延びた彼の精神に、危機が迫っていきます。

~♪…私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。……
 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。♪~(死と愛と孤独)。
  
~♪「悲歌」
………
すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに ♪~   (魔のひととき)

45歳。1915年(昭和26年)。朝鮮戦争が戦われ、原爆の使用が噂される時代、彼はついに電車の線路に横たわります。 「死と愛と孤独」の詩人の最後でした。
   ******
 広島の平和記念公園の爆心地近くに、彼の碑が建てられています。そこには、死の数ヶ月前に書かれたと言われている、彼の詩が刻まれています。
 ~♪「碑銘」
遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻   ♪~

 彼の作品は、「戦後民主主義」といったものからは無縁だと思います。彼の中にあるのは、自らも含めた、すべての死者に対する鎮魂の祈りです。次々と死んでいった肉親。花を愛し自分を支えてくれた妻。多くの被爆者。死を見つめ続けた詩人は、その生涯の最後の時、「崩れ墜つ天地のまなか」に、自らの魂を鎮魂するかのごとくに咲く「一輪の花の幻」を見たのです。

 最後に、彼の祈りのような詩を一つ鑑賞して終わりにします。
 ~♪「永遠のみどり」
ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ      ♪~

  *原民喜の作品の多くは、青空文庫で読むことが出来ます。お薦めします。

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2017年8月17日 (木)

村上昭夫詩集「動物哀歌」を読む

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 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、肺結核のため41歳の若さで亡くなった村上昭夫の場合をみていきます。
 彼の手になる詩集は、「動物哀歌」という詩集一冊のみで、近現代詩人の中では、あまり知られていない詩人かも知れません。

 では、年譜にしたがって略歴をみていきます。
昭和2年(1927):岩手県、現在の陸前高田市に生まれる。
昭和20年(1945)18歳:岩手中学卒業。
 官吏として満州ハルビンに渡り、臨時徴兵。敗戦。捕虜生活。
昭和21年(1946)19歳:帰国。翌年、盛岡郵便局に就職。
 職場での合唱や文化活動に励む。
昭和25年(1950)23歳:結核発症。3年間岩手サナトリウム入院。
 入院を機に、俳句や詩を書き始める。
 退院後、野良犬クロとの出会い。
昭和30年(1955)28歳:病気により郵便局を免職。
 雑誌などに投稿。詩人クラブの活動。
昭和34年(1959)32歳:仙台厚生病院入院。
 右肺切除。入院は3年に及ぶ。
昭和40年(1965)38歳:国立盛岡療養所に入院。 
昭和42年(1967)40歳:詩集「動物哀歌」上梓。土井晩翠賞を受賞。
昭和43年(1968)41歳:10月、41歳で永眠。全身衰弱。

 年譜からも分かるように、村上昭夫は、病気を契機に詩を作り始め、病気と向き合いながら詩をつくり、長くない一生を終えました。
 もっともよく知られた「雁の声」という詩をみてみましょう。

 ~♪「雁の声」
雁の声を聞いた
雁の渡ってゆく声は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

私は治らない病気を持っているから
それで 雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病は
あの涯のない宇宙の涯の深さと
おんなじだ

雁の渡ってゆく姿を
私なら見れると思う
雁のゆきつく先のところを
私なら知れると思う
雁をそこまで行って抱けるのは
私よりほかないのだと思う

雁の声を聞いたのだ
雁の一心に渡ってゆくあの声を
私は聞いたのだ   ♪~

 彼の詩は、いつも宇宙的広がりを見据えながら展開していきます。
 宇宙の深淵へと遙かに渡っていく雁。不治の病であるがゆえに、彼は雁の哀しみの声を聞くことが出来たのです。その宇宙の深淵で、雁の哀しみと命を抱きしめることが出来るのは、彼だけなのです。…… 自然の摂理により消えていく命。自らの死の予感から、彼は、動物の哀しみと自分自身を重ね、哀しいまでの透明な眼差しで宇宙の深淵をのぞき見たのです。

  彼が「動物哀歌」の詩を書くきっかけは、野良犬クロとの出会いです。川を流されていた子犬を拾い、クロと名づけ、家の縁の下を住み家として与えます。後に彼は、「動物哀歌はすべてクロが作ってくれたようなもんだ」と語っていたそうです。
 いくつかある犬の詩の中から一つ紹介してみます。
 ~♪「犬」
犬よ
それがお前の遠吠えではないのか
 ……
お前の遠吠えする声の方向に
死なせるものや愛させるもの
別れさせるものが
目も眩むばかりにおいてあって
お前はそれを誰も知らない間に
密かに地上に呼んでいるのではないか

だがお前はひるになると
 ……
愛くるしい目を向けたりする
真実忠実な犬でしかないように
嘘の姿を見せるのだ ♪~

 忠実な犬。嘘の姿でしか生きられない哀しい存在。死や愛や別離を隠し生きる犬。
荒野の月に向かって吠える犬の遠吠えに、彼は聞くのです。生きることの哀しさ、命の愛おしさを……。
 嘘の姿を生きる飼い犬。おびえながら生きる野良犬。弱々しいもの、滅びゆくものへの限りない共感。彼は、動物たちへの共感を通して、死を見つめて生きようとする自らの意志、生きることの哀しさ、命の尊厳を詠ったのです。

 彼の詩に登場する動物は多いです。犬を初めとして、鶴、鹿、すずめ、熱帯魚、雁、鳶、鴉、、鳩、リス、牛、ねずみ、深海魚、象、熊、猿、蛇、虎、蜥蜴、あざらし、キリギリス、ウミネコ……略……。 その中から「ねずみ」の詩を紹介してみます。

 ~♪ 「ねずみ」
ねずみを苦しめてごらん
そのために世界の半分は苦しむ

ねずみに血を吐かしてごらん
そのために世界の半分は血を吐く

そのようにして
一切のいきものをいじめてごらん
そのために
世界はふたつにさける
 ……
一匹のねずみが愛されない限り
世界の半分は
愛されないのだと ♪~

 弱いものの命の尊厳が侵されるとき、世界は二つに裂けるのです。一匹のねずみが愛されない世界では、もはや世界の半分は愛されないのです。死を予感した彼の透明な眼差しは、世界の奥底に隠された真実を見抜いているのです。

 ~♪「五億年」
五億年の雨が降り
五億年の雪が降り
それから私は
何処にもいなくなる

闘いという闘いが総て終わりを告げ
一匹の虫だけが静かにうたっている
その時
例えばコオロギのようなものかも知れない
五億年以前を鳴いたという
その無量のかなしみをこめて
星雲いっぱいにしんしんと鳴いている
その時
私はもう何処にもいなくなる
しつこかった私の影さえも溶解している
  ……  ♪~

 五億年の遙かな時間の流れ。「闘いが総て終わりを告げ/一匹の虫だけが静かにうたっている」宇宙。五億年の雨が降り、雪が降る宇宙。彼は、その宇宙の中を動物たちの無量の哀しみを抱き、影とともに宇宙のなかへと溶解し、「何処にもいなくなる」のです。 自らの死の悲しみを動物たちに投影し、その動物たちを抱きしめ、遙かな時空の果てへと歩み去った詩人、村上昭夫は41歳で永眠しました。
    ******
 宇宙を吹き渡る郷愁の風に吹かれ、微かな光を求めて億光年を歩み続けると、そこにはすべての命の故郷があるのです。そこでは、動物の哀しみと人の哀しみが共鳴し、お互いを抱きしめ合うことが出来るのです。そんな故郷を目ざして村上昭夫は旅立っていったと私には思えます。
 失われていく自然の原風景への哀しみが滲む「精霊船」。「都会の牛」。
 満州での戦争体験を滲ませた「死んだ牛」。「砂丘のうた」。
  「砂丘のうた」では、「もう殺しあったりすることなんかない/海を越えた愛のうたを」と詠います。いろいろ紹介したいですが、スペースが無くなりました。
 村上昭夫詩集、お薦めします。          では。 また。

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