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2017年3月31日 (金)

石川啄木詩集・歌集を読む

  夭逝の詩人は、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、わずか26歳の若さで世を去った天才歌人・詩人、石川啄木についてみていきます。

 ~♪ 東海の小島の磯の白砂に  われ泣きぬれて  蟹とたはむる ♪~

  ~♪ 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日  ♪~

  ~♪ はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る ♪~

  「一握の砂」に収められたこれらの歌は、日本人のほとんどが知っています。私たちの知る石川啄木は、どのように誕生したのでしょうか。年譜を概観してみましょう。

★石川啄木は、1886年(明治19年)に、岩手県(現、盛岡市)で、寺の住職の子として生まれます。優秀な少年時代だったようです。
★1902年 明治35年 満16歳
   学校で不正行為(カンニング)があったとして処分を受け、盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく渋民村を出ます。文学的野心に満ちて故郷を出発です。
★1905年 明治38年 満19歳
  文語定型詩で書かれた処女詩集『あこがれ』を発行。これは、現代の私たちには、少々読みづらいです。節子と結婚し、盛岡市に新居を構えます。
  翌年には、 渋民小学校で代用教員として働きます。
★1907年 明治40年 満21歳
 北海道に渡り、函館 、釧路などの地で、代用教員、新聞記者、校正係などとして働きます。
★1908年 明治41年 満22歳
  「文学的運命を極度まで試験する決心」(日記)。ついに文学的野心に燃えて、家族を北海道に残したまま上京します。小説を書き、売り込みを図るも失敗。貧困のどん底へと落ちます。挫折です。
 挫折の中で歌を詠み雑誌に発表し、これが高く評価されることになります。
★1909年 明治42年 満23歳
 朝日新聞社校正係の職も得て、家族を迎え二階二間の間借り生活を始めます。
★ 1910年 明治43年 満24歳
  『一握の砂』を刊行。 長男真一死去。
   大逆事件発生。幸徳秋水等死刑。これに抗議し社会主義的傾向を一層強めます。
★1911年 明治44年 満25歳
   慢性腹膜炎と診断され入院。さらに肺尖カタルにおかされ病魔は進行。
 母カツも病魔におかされます。
★1912年 明治45年 満26歳
  3月、母カツ結核で死去。
 4月、本人も危篤。最後をみとったのは、妻節子、父一禎と友人の若山牧水でした。

  年譜により、石川啄木の作品の全体像を整理すると、次のようになります。
  まず、歌については、次の二集です。
      22歳~23歳:『一握の砂』   24歳~26歳:『悲しき玩具』
  次に、詩人としての石川啄木の作品は、次のように整理できます。
      17歳~18歳:詩集『あこがれ』 19歳~24歳:『あこがれ』以後の作品群。
      24歳~:社会主義的な傾向滲ませた『呼子と口笛』

  結局、私たちが『一握の砂』で知っている石川啄木は、22歳~23歳の頃の啄木ということになります。
  闘病中の心情を知るには、24歳~26歳の『悲しき玩具』を読めばよいということになります。

 啄木は、文学的才能にあふれ、また文学的野心を持ち文学界に挑みますが、その収入で家族を養うことはできず、貧困のどん底で喘ぎます。容赦なく病魔が襲い、ついに26歳の若さで他界したのです。
 彼は、凄まじい生活苦と病魔にどのように向き合ったのでしょう。最後に書かれた日記を見てみましょう。

  <日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。・・・・>

  啄木を見舞った友人、金田一京助は、後に次のように書き記しています。 
    <上ってすぐ隔ての襖をあけると、仰向けに此方を向いて寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容が来て、面がわりしたのに先ず吐胸を突かれたが、同時に、洞穴があいたように、ぱくりと其の口と目と鼻孔が開いて、『たのむ!』と、大きなかすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。私は死霊にでも逢ったよう、膝が泳いで、のめるようにそこへ坐ったばかり、いう所の言葉を知らなかった。
 あの際に、何と言って上げるのが一等よかったろうか、私には今でもよいことばがわからない。・・・>

 金田一京助が、「いう所の言葉を知らない」と言うような貧困生活と闘病生活。その中で詠まれた歌を『悲しき玩具』から拾って鑑賞していきましょう。歌については、何の説明も必要ないと思います。ただ啄木の心中を推察するのみです。

~♪呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音おと!♪~

~♪考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。 煙管をみがく。♪~

~♪真夜中にふと目がさめて、わけもなく泣きたくなりて、蒲団をかぶれる。♪~

~♪目さませば、からだ痛くて動かれず。 泣きたくなりて、夜明くるを待つ。♪~

~♪氷嚢の下より まなこ光らせて、寝られぬ夜は人をにくめる。♪~

~♪人間のその最大のかなしみが これかと ふっと目をばつぶれる。♪~

~♪今日もまた胸に痛みあり。死ぬならば、ふるさとに行ゆきて死なむと思ふ。♪~

~♪あてもなき金などを待つ思ひかな。寝つ起きつして、今日も暮したり。♪~

~♪買ひおきし 薬つきたる朝に来し  友のなさけの為替のかなしさ。♪~

 才能に溢れ、文学を志した少年の眼差しは、いつも空に向かっていました。空を見上げ、心の中で希望を語っていたのだと思います。『一握の砂』では、~♪不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心♪~ と詠いました。しかし、彼は、『悲しき玩具』の中では、
~♪この四五年、空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?♪~
 と嘆きます。貧困と病魔におかされ、空を仰ぎ見ることもなく、夢破れた啄木の死は、わずか26歳での無念の死だったと思います。

  しかし、わずか26歳で彼が到達した高みは、素晴らしいものがあります。
文学面においては、世に出て名声を得ようという野心を遙かに超えて、文学の革新を目ざそうとする立場に到達しています。詩論、『食ふべき詩』をみてみましょう。

 < ・・・餓ゑたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。・・・暇ある時に玩具を弄もてあそぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。・・・
「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要なる自覚が、如何に現在に於て現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつゝあるか。・・・>

  大逆事件で社会主義者が弾圧・処刑される時代の中で、啄木は、社会的不正義や不公平に対し、強い批評と批判をぶつけました。その後の日本の進路を考えるとき、彼が駆け抜け到達した世界と、彼が目ざしたものは、100年後の今でも光を放っています。
では、最後に『呼子と口笛』の詩の一節を引いて、啄木の死を惜しむことにします。
 
 ~♪ はてしなき議論の後
    ・・・・・
   此処にあつまれるものは皆青年なり、
   常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
   われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
   見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
   されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

    ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
   飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
   若き婦人の熱心に変りはなけれど、
   その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
   されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。    ♪~

                 *‘V NAROD!’=「民衆の中へ!」

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2017年3月23日 (木)

八木重吉詩集を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、29歳の若さで夭逝したクリスチャン詩人、八木重吉の場合を考えていきます。

 明治に入り急速に欧米の科学技術や文化を取り入れていった日本。いわゆる欧化政策です。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、志賀直哉など多くの詩人や作家は、キリスト教文化に触れ、大きな影響を受けました。また、自らがクリスチャンとなる詩人や作家も多く出ました。多くの場合、信仰は作品の背後に隠されており、前面に出ることはありません。しかし、八木重吉の場合は、作品の前面に信仰が打ち出されており、神への祈りのような作品が多く残されています。彼にとっては信仰がすべてだったと思われます。その意味で、人々は彼を、「クリスチャン詩人」と呼んでいるのだと思います。

 では、彼の生涯を年譜で概観してみます。
 八木重吉は明治31年、現在の東京都町田市相原町の富裕な農家に生まれました。
 神奈川県師範学校へ進学。19歳で東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学します。ここで文学に目覚め、キリスト教へ入信します。卒業後、兵庫県の御影師範学校に奉職します。この少し前に知り合った島田とみと、遠距離恋愛の末に結婚します。重吉は24歳、とみは18歳、とみの親の反対を押し切っての強引な結婚だったようです。
 二人は、一男一女をもうけ、重吉は詩作に励む生活を送ります。
 大正14年、27歳の時、千葉県立東葛飾中学校に転勤。ここで第一詩集「秋の瞳」を出版します。
 昭和元年、結核第Ⅱ期と診断され、療養生活へと入ります。そのかたわら、第ニ詩集の「貧しき信徒」を自選、編集します。(出版は死後)
 昭和2年10月、熱烈なキリスト教信徒として、29歳の若さで亡くなりました。

 貧困と苦しい闘病生活。彼の精神を支えたのは、神への信仰でした。亡くなる前、わずか3年間に遺された詩や詩稿は、3000篇近いと言われています。その多くは、宗教的心情の吐露や祈りの言葉です。そのいくつかを拾い出してみます。
   ~♪ わからなくなった時は
      耶蘇の名を呼びつづけます
      私はいつもあなたの名を呼んでいたい ♪~

   ~♪ 基督が解決しておいてくれたのです
      ただ彼の中へはいればいい
      彼につれられてゆけばいい   ♪~

  彼の信仰は、一途で純粋なものでした。私のようなクリスチャンでない者から見れば、あまりにも痛々しい感じすらします。
 信仰とは、人間は本来的に罪なる存在であり、欲望に満ちた自分の存在を罪として神の前で悔い改め、神にひざまずき救いを求めることです。彼は、詩を作ることも、たんなる人間的欲望の一つではないかという思いにとらわれるのです。彼は、純粋な神への信仰のためには、他の一切の欲望は断ち切る必要があるのではないかと思い悩むのです。

      ~♪ あるときは
     うたをつくるのさへ悪であるとおもふ
     こんな詩などつくらなければ
     ほんとにわたしのせけん的のよくぼうはなくなる
     そうしたら一挙にわたしのこころは
          きれいになってしまうかもしれぬ     ♪~

      ~♪ わたしが
      詩をすてるとき
            わたしはほんとのひとになれる     ♪~

しかし、彼は詩を捨てることはできません。家族への愛を断ち切ることもできません。信仰と詩、信仰と家庭をどのように統一すればよいか、心は揺れ動きます。

   ~♪  たったひとつの手すさびでありほこりである
      かなしみでありよろこびである
            詩をつくることをすててしまふなら
            あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせかいだもの
            ここにこうして不覚の子は
            歯をくいしばって泣くまいとしてうたをうたふ   ♪~

      ~♪ 裸になってとびだし
      基督のあしもとにひざまずきたい
      しかしわたしには妻と子があります
      すてることができるだけ捨てます
      けれど妻と子をすてることはできない
       ・・・・
      ここに私の詩があります 
      これが私の贖(いけにえ)である
      これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
      これらはわたしの血をあびている
      手をふれることできぬほど淡々しくみえても
      かならずあなたの肺腑へくいさがって涙をながす  ♪~

 詩は、私の贖(いけにえ)であると・・。重吉は、詩と家族、そして神の間で悩み続け、苦しみます。そして、ついに一つの境地に到達するのです。

 ~♪ 詩をつくり詩を発表する
    それもそれが主になったら浅間しいことだ
    私はこれから詩のことは忘れたがいい
    イエスを信じ
    ひとりでに
    イエスの信仰をとおして出たことばを人に伝えたらいい
    それが詩であろう   ・・・・         ♪~

  文学的野心とは無関係、金銭的利益とも関係ない、信仰をとおして心の奥から自然に湧き上がってくる言葉、それこそが詩である・・・。彼は、信仰と詩、家族愛について、ついに真実に到達します。

  ~♪ ほんとうに
     しぜんに詩の生まれる日は
          じぶんみづからがとほとひものになったとおもふ
          いのちがあることがたしかにかんじられる
          みづからが かみのこころの窓となり
          わたしのうたは
          わたしのもつ かみの観念とおなじたかさからながれいづる ♪~

   ~♪ この明るさのなかへ
     ひとつの素朴な琴をおけば
     秋の美しさに耐えかね
     琴はしづかに鳴りいだすだろう   ♪~

 彼は、神の創造物である自然と静かに向き合い、心の中にただ湧き上がる言葉を書き留めました。信仰を通して、心の中に自然に湧き上がる言葉、それこそが詩であるという境地に到達したのです。彼の琴が静かに鳴り始めたのです。自然派詩人八木重吉の誕生です。彼のことを宗教的自然詩人と呼ぶ人もいます。納得の表現です。

  ~♪ 雨がふっている
     いろいろなものをぬらしてゆくらしい
     こうしてうつむいてすわっていると
     雨というものがめのまえにあらわれて
     おまえはそう悪いものではないといってくれそうなきがしてくる ♪~

  ~♪ 雨のおとがきこえる
     雨がふっていたのだ
     あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
     あめがあがるようにしずかに死んでゆこう   ♪~

  神に許された彼が、自然と向き合いながら紡ぎ出す世界は、なんという静謐な世界なのでしょう。
 彼の編んだ詩集、「秋の瞳」、「貧しき信徒」は、宗教的信条とは関係なく、多くの人から愛されることになりました。

  ~♪ 私はくるしい
     私は怖ろしい
     私は自分がたより無い
     私は基督に救ってもらいたい
     それが最後のねがいだ    ♪~

  ~♪ 冨子
     神さまの名を呼ばぬ時は
          お前の名を呼んでいる  ♪~

  昭和2年10月、重吉は、神と家族の名を交互に呼びながら最後の時に向かいます。
 ~危篤が告げられ高熱のなかで十時を切る。キリストの姿を見たしぐさをする・・
 彼の最後の瞬間はこのように伝えられています。
 生活苦の中で29歳の若さで昇天しました。

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2017年3月 3日 (金)

金子 みすゞの死を考える

  夭逝の詩人たちは、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、金子 みすゞの場合を考えてみます。金子 みすゞは、26歳の若さで自死した夭逝の童謡詩人です。

 では最初に、26歳というあまりにも短い人生だった金子みすゞの略歴をまとめてみます。金子みすゞは、明治36(1903)年、山口県の仙崎という小さな港町に生まれました。本名はテル。父の家業は、金子文永堂という小さな書店。二歳年上に兄・堅助、二歳年下に弟・正祐がいました。みすゞが三歳の時、父親が亡くなり家族は大黒柱を失います。翌年、弟の正祐は、子どもの無かった上山文英堂という遠縁の書店に養子に出されます。堅助とみすずは、母ミチにより、女手一つで育てられます。
 封建的家父長制度のもとで、家長を失うという悲しい出来事により、音もなく運命の歯車は回転してゆきます。
 兄・堅助は、尋常小学校卒業後、上の学校へは進まず家業を継ぎます。みすずは、郡内の大津高等女学校へと進学することになります。ここでのみすゞは、明るく成績も優秀だったようです。
 弟・正祐が養子に出されていた上山文英堂では、主人の妻(正祐の義母)が亡くなります。それにより、上山文英堂の主人は、みすゞの母ミチと再婚することになったのです。つまり、母ミチは、自分の子を養子に出した家に後妻として入ったのです。家というものを維持するために、もっとも良い方策だったようです。
 みすゞも女学校卒業後は、この上山文英堂で店番として働きました。やがて、兄・堅助の結婚により、実家を出て上山文英堂に住み込むことになります。
 好きな本に囲まれ、「みすゞ」というペンネームで投稿をしたのもこの時期でした。ここでの生活が創作活動の活発な時期でした。みすずの詩を借りて言えば、まさに「砂の王国」だったのです。
  ~♪ 「砂の王国」
     私はいま
     砂のお国の王様です。
     お山と、谷と、野原と、川を
     思ふ通りに変えてゆきます。
           ・・・・       
     私はいま
     ほんとにえらい王様です   ♪~
 時代は大正デモクラシー。北原白秋、西條八十、野口雨情などが中心となった大正童謡運動が興っていた時代でした。みすゞは、西條八十から高い評価を受け、創作活動を続けました。

 音もなく回転する運命の歯車。養父となった上山文英堂の主人は、みすゞと宮本という店員の結婚話を進めます。家の主の権力が強かった家父長制度。弟・正祐の涙の猛反対にもかかわらず、みすゞは心ならずも宮本と結婚することになります。
 結婚後まもなく、女児をもうけます。しかし、夫は遊郭通いに明け暮れ、家庭を顧みない悪夫。詩作にも理解が無く、詩作ばかりか仲間との文通も禁ずる始末でした。
 詩作を禁じられたみすゞに残されたのは、成長していく子ども。みすゞは、子どもの片言のお喋りの中に、素直で奔放な詩のようなものを感じとっていたのです。みすゞにより記録された子どもの言葉が残されています。
 離婚話が進み、ついに離婚となりましたが、子どもを引き取りたいというみすずの主張は聞き入れられず、ついに子どもまで奪われることになります。
 みすずは心を決め、三通の遺書をしたため、写真館で自分の遺影を撮り、カルモチンという睡眠薬を飲んで、この世を去ることになります。封建的な家父長制度の中で苦しみながら・・・。  26歳の若さでした。

 自ら死を選んだみすゞは、死をどのようにととらえていたのでしょうか?
 それは、作品に残されたものの中から推測するしかありません。
 みすゞの全詩の中から、数編を選んで考えていきたいと思います。

 まず、師である西條八十が、みすずの死を悼み引いた詩、「繭と墓」です。
 「おそらく絶唱といっていい。この謡の気持ちで彼女はあの暗い墓穴に急いだのであろう」と西條八十は書き残しています。
   
   ~♪ 「繭と墓」
   蚕は繭に
   はいります、
   きうくつさうな
   あの繭に。

   けれど蚕は
   うれしかろ、
   蝶々になって
   飛べるのよ。

   人はお墓へ
   はいります、
   暗いさみしい
   あの墓へ。

   そしていい子は
   はねが生え、
   天使になって
   飛べるのよ。   ♪~

  よい子は死んでも天使になって天上に昇ることができる、そのために暗い墓に人は入るのです。アンデルセンなど、西欧のキリスト教思想の影響を受けた、子どもの魂の救済の世界です。彼女も、天に向かって羽ばたけることを夢みていたに違いありません。
  次に、「雪」という詩をみてみましょう。

   ~♪  「雪」
   誰も知らない野の果てで
   青い小鳥が死にました
     さむいさむいくれ方に

   そのなきがらを埋めよとて
   お空は雪を撒きました
     ふかくふかく音もなく

   人は知らねど人里の
   家もおともにたちました
     しろいしろい被衣(かつぎ)着て

   やがてほのぼのあくる朝
   雪はみごとに晴れました
     あおくあおくうつくしく

   ちいさいきれいなたましひの
   神さまのお国へゆくみちを
     ひろくひろくあけようと    ♪~

 誰も知らない野の果てで死んだ青い小鳥。深く音もなく雪がやさしく包んでいきます。人も家も白い衣を着て見送ります。青く晴れた朝、きれいな魂は、神の国へと旅だってゆきます。野の果てに誰にも知られず死んだ自らの魂も、神の国にゆくことができる、彼女の切なる願望であったと思います。

   ~♪ 「木」
   お花が散って
   実が熟れて、

   その実が落ちて
   葉が落ちて、

   それから芽が出て
   花が咲く。

   さうして何べん
   まわったら、
   この木は御用が
   すむか知ら。    ♪~

 御用が終わらないうちに、この世を去ることになった金子みすずさん。
 無事に天の国に着いたでしょうか? あなたの残した詩は、この格差と競争の社会の中で、しっかりと御用を果たしていますよ。ゆっくりお休み下さい。    

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2017年2月19日 (日)

宮澤賢治詩集を読む②

  昭和3年、農業指導で過労状態だった32歳の賢治に病魔が襲いかかります。肺浸潤、急性肺炎です。この時期二年間の療養生活中に書かれた詩群が、「疾中より」です。黒いクロスの表紙に挟んで、直筆の詩が保存されていたそうです。
 肺病を病んだ賢治は、いよいよ迫ってくる死と向き合います。
 この詩人は、何を思いながら死と向き合ったのでしょう。では、「疾中より」を読んでいきましょう。

  ~♪ 〔その恐ろしい黒雲が〕
   その恐ろしい黒雲が
   またわたくしをとらうと来れば
   わたくしは切なく熱くひとりもだえる
   北上の河谷を覆ふ
   あの雨雲と婚すると云ひ
   森と野原をこもごも載せた
   その洪積の大地を恋ふと
   なかばは戯れに人にも寄せ
   なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
   青い山河をさながらに
   じぶんじしんと考へた
   あゝそのことは私を責める
   病の痛みや汗のなか
   それらのうづまく黒雲や
   紺青の地平線が
   またまのあたり近づけば
   わたくしは切なく熱くもだえる
   あゝ父母よ弟よ
   あらゆる恩顧や好意の後に
   どうしてわたくしは
   その恐ろしい黒雲に
   からだを投げることができよう
   あゝ友たちよはるかな友よ
   きみはかゞやく穹窿や
   透明な風 野原や森の
   この恐るべき他の面を知るか  ♪~

 森と野原を載せた洪積層の大地。青い山河。賢治の愛した自然は、今は黒い雲を沸き立たせ襲いかかってきます。「わたくしは切なく熱くもだえる」。「どうしてわたくしは/その恐ろしい黒雲に/からだを投げることができよう」と独白します。
 病魔は、容赦なく賢治を痛めつけます。苦痛の中で、次のような特異な詩も書いています。

   ~♪ 〔丁丁丁丁丁〕
     丁丁丁丁丁
     丁丁丁丁丁
  叩きつけられてゐる 丁
  叩きつけられてゐる 丁
 藻でまっくらな 丁丁丁
 塩の海  丁丁丁丁丁
   熱  丁丁丁丁丁
   熱 熱   丁丁丁
    (尊々殺々殺
     殺々尊々々
     尊々殺々殺
     殺々尊々尊)
 ゲニイめたうとう本音を出した
 やってみろ   丁丁丁
 きさまなんかにまけるかよ
   何か巨きな鳥の影
   ふう    丁丁丁
 海は青じろく明け   丁
 もうもうあがる蒸気のなかに
 香ばしく息づいて泛ぶ
 巨きな花の蕾がある   ♪~

「丁」という文字は、本文とは違う筆記用具で、黒々と書き込まれていたそうです。悪魔ゲニイと闘う斧の音でしょうか。病気の身体的苦痛は、当然のことながら、相当なものだったとうかがえます。

   ~♪ 夜
  これで二時間
  咽喉からの血はとまらない
  おもてはもう人もあるかず
  樹などしづかに息してめぐむ春の夜
    ・・・・
  こんやもうこゝで誰にも見られず
  ひとり死んでもいゝのだと
  いくたびさうも考をきめ
  自分で自分に教へながら
  またなまぬるく
  あたらしい血が湧くたび
  なほほのじろくわたくしはおびえる ♪~

 まもなくやって来る死。賢治はそれを覚悟しながら、ほのじろくおびえるのです。

  ~♪  眼にて云ふ
  だめでせう
  とまりませんな
  がぶがぶ湧いてゐるですからな
  ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
  そこらは青くしんしんとして
  どうも間もなく死にさうです
  けれどもなんといゝ風でせう
  もう清明が近いので
  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
  きれいな風が来るですな
  もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
  秋草のやうな波をたて
  焼痕のある藺草のむしろも青いです
  あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
  黒いフロックコートを召して
  こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
  これで死んでもまづは文句もありません
  血がでてゐるにかゝはらず
  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  たゞどうも血のために
  それを云へないがひどいです
  あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青ぞらと
  すきとほった風ばかりです。    ♪~

  この詩からは、自然科学を学んだ賢治ならではの冷静な自己分析や、青空と透きとおった風の中で悠然と生きようとする賢治の姿勢を感じとることができます。迫り来る死を前に、青空や風を感じるとは、私からすれば、何とも壮絶という感じすらします。

  ~♪ 〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕
   そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう
  わたくしといふのはいったい何だ
  何べん考へなおし読みあさり
  さうともきゝかうも教へられても
  結局まだはっきりしてゐない
  わたくしといふのは             ♪~

  トシの後を追い、トシと共に理想世界を求め続けた賢治ですが、最後の時までその答えを見つけることなく、自問し苦悶しながら世を去ります。
 「疾中より」が書かれた後、一時病状は回復しますが、二年後の昭和8年、37歳の若さで永眠しました。
               ******
  宮沢賢治は、仏教的悟りを得て、安らかな死に至る道を進もうとしたのではありません。彼は、病魔と戦い、苦悶し、壮絶な最後に到りました。
 激しい身体的苦痛の中で、彼を最後まで支えたのは何だったのでしょうか。
 それは、青い空や透きとおった風、流れる雲、賢治の自然への愛であり、また、愛する妹トシへの思いであり、二人が目ざした理想世界だったのではないかと思います。
  今でも賢治は、妹トシと二人で、銀河鉄道に乗って天上への旅を続けていることと思います。
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2017年2月17日 (金)

宮澤賢治詩集を読む①

 今回は、宮澤賢治の「春と修羅」、「疾中より」などを読んでいきます。
 宮澤賢治は人気詩人でファンの方も多いと思います。キリスト教や仏教など、様々な角度からの評論も行われています。
 私は一読者として、「一人の人間として、賢治は死とどのように向き合ったか」という単純なテーマを立てて読んでいきたいと思います。
 「詩人はいかに死と向き合ったか」、これが今年一年の私のテーマですので・・・。 ちょっと荷が重いかな?

  宮澤賢治は生涯で二度、大きな死と向き合いました。一回目は、妹トシの死です。二回目は、もちろん自分自身の死です。今回は、第①回として「トシの死」について考えていきます。
                        *****
  賢治にとって妹トシの死は、最愛の妹を亡くすということにとどまらず、彼の人生に大きな意味を持っていました。それは、その後の彼の人生は、トシの目ざしたものを追い、トシと共に生きた人生だということです。
 では、有名な「永訣の朝」を読みましょう。多くの説明は不要ですね。
 ~♪ 永訣の朝
  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
   ・・・・
  おまへがたべるあめゆきをとらうとして
  わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
  このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
      ・・・・
  ああとし子
  死ぬといふいまごろになつて
  わたくしをいつしやうあかるくするために
  こんなさつぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
  わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
  はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
  おまへはわたくしにたのんだのだ
     ・・・・
  ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
  あああのとざされた病室の
  くらいびやうぶやかやのなかに
  やさしくあをじろく燃えてゐる
  わたくしのけなげないもうとよ
  この雪はどこをえらばうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  あんなおそろしいみだれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    ・・・・
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが天上のアイスクリームになつて
  おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ   ♪~

 「あめゆじゆとてちてけんじや」。賢治は霙の降る中へ飛び出していきます。
  恐ろしい乱れた空からやって来る美しい雪。それは天からの贈り物。

  ~♪ああとし子
    死ぬといふいまごろになつて
    わたくしをいつしやうあかるくするために
    こんなさつぱりした雪のひとわんを
    おまへはわたくしにたのんだのだ♪~

 雪を手にした賢治は、まっすぐに進んでいくことを決意するのです。
    ~♪ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
    わたくしもまつすぐにすすんでいくから♪~
 まっすぐに進むとは、どこへ向かって進むというのでしょうか。
 そのことを、次の「無声慟哭」という詩を読んで確認しましょう。
 
  ~♪  無声慟哭
   こんなにみんなにみまもられながら
   おまへはまだここでくるしまなければならないか
   ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
   また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
   わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
   おまへはじぶんにさだめられたみちを
   ひとりさびしく往かうとするか
   信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
   あかるくつめたい精進しやうじんのみちからかなしくつかれてゐて
   毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
   おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
   ・・・・  ♪~

  ~♪信仰を一つにするたったひとりのみちずれのわたし~♪ つまり、トシと賢治は信仰で深く結ばれ、同じ道を歩もうとしていたみちずれだったのです。
  トシは日本女子大学に学び、ここで帰一教会と出会います。帰一教会とは、仏教、キリスト教、神道などの宗教者同士の相互理解と協力を推進し、新しい指導理念を確立しようとしたものです。賢治は法華経信者として活動していましたが、トシの影響を受け、法華経を乗り越えたより高い精神的理想を目ざそうとしていたと思われます。
 名作「銀河鉄道の夜」にも、賢治の目ざした理想をみることができます。銀河鉄道の夜の最終場面、ジョバンニとカンパネルラの二人の別れの場面で、ジョバンニはカンパネルラに呼びかけます。「…きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
 しかし、この後カンパネルラはいつの間にか姿を消し、ジョバンニは天上への切符を手に夢から覚めるのです。「みんなのほんとうのしあわせ」。これこそが二人が求めた最上の理想なのです。一つの宗教に限定されない宇宙的視野の理想世界です。
 トシを亡くした賢治は、樺太旅行へと出かけますが、それは、トシの影を追う鎮魂の旅でした。この旅の中で書かれた詩の中にも、トシの後を追う賢治の姿勢や二人の求めた理想を読み取ることができます。
 
   ~♪ 青森挽歌
    ・・・・
   あいつはこんなさびしい停車場を
   たつたひとりで通つていつたらうか
   どこへ行くともわからないその方向を
   どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
   たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
        ・・・・
    《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
   ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
   あいつがなくなつてからあとのよるひる
   わたくしはただの一どたりと
   あいつだけがいいとこに行けばいいと
   さういのりはしなかつたとおもひます
        ・・・・                  ~♪ 

 トシの影を追いながら、理想世界を目ざした賢治。次回は、賢治がどのように死に向き合ったかについて考えます。 (つづく)

         宮澤賢治詩集を読む②へ → こちら

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2017年2月 4日 (土)

高見順著「死の淵より」を読む③

  退院後に書かれた詩や入院中のメモを整理して書かれたⅢ部を読んでいきます。

 高見さんは、自分の心の中にいるもう一人の自分に激しく問いかけます。もう一人の自分は、果たして敵なのか味方なのか・・・。
  「過去の空間」という詩では、自らの人生で繰り広げられた過去の宴は、いったい何だったのか、もう一人の自分を激しく問いつめます。死によって「過去の空間」は、すべて失われ、否定されていくものなのか、それとも残り続けるのか・・・。

  ~♪ 「過去の空間」
    ・・・・
  その楽しさはすでに過去のものだ
  しかし時間が人とともに消え去っても
  過去が今なお空間として存在している
  私という存在のほかに私の人生が存在するように

  楽しそうでほんとは惨憺たる過去の景色を
  君は私の味方として私に見せまいとするのか
  それとも私の敵として過去の楽しさすら拒みたいのか
  君は私の過去とは別に存在する私の作品なのか 
                     ・・・♪~
  
  しかし、いくら問いかけても結論はありません。時間だけが過ぎてゆきます。
 迫ってくる最後の時間。時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる・・・。
  ~♪ 手ですくった砂が
    痩せ細った指のすきまから洩れるように
    時間がざらざらと私からこぼれる
    残りすくない大事な時間が
            ・・・・
        景色は次第に夕闇に包まれて行く
    砂上に書かれた文字が崩れるように
    すべての盃も姿を消して行き
    時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる  ♪~

  心の中のもう一人の自分と、激しく対立する高見さん。その対立も、「おれの食道に」で、ようやく終息し、和解へと進んでいきます。「おれの食道に」という詩の全文を一気にみてみましょう。

 ~♪     「おれの食道に」
  おれの食道に
  ガンをうえつけたやつは誰だ
  おれをこの世にうえつけたやつ
  父なる男とおれは会ったことがない
  死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった
  そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らないのも当然か
  きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない
  最大の敵だ その敵は誰だ

  おれは一生の間おれ自身をおれの敵としてきた
  おれはおれにとってもっとも憎むべき敵であり
  もっとも戦うに値する敵であり
  常に攻撃しつづけていたい敵であり
  いくらやっつけてもやっつけきれない敵であった
  倒しても倒しても刃向ってくる敵でもあった
  その最大の敵がおれに最後の復讐をこころみるべく
  おれにガンをうえつけたのか

  おれがおれを敵として攻撃しつづけたのは
  敵としてのおれがおれにとって一番攻撃しやすい敵だったからだ
  どんな敵よりも攻撃するのに便利な敵だった
  おれにはもっともいじめやすい敵であった
  手ごたえがありしかも弱い敵だった
  弱いくせに決して降参しない敵だった
  どんなに打ちのめしても立ち直ってくるのはおれの敵がおれ自身だったからだ
  チェーホフにとって彼の血が彼の敵だったように

  アントン・チェーホフの内部に流れている祖先の農奴の血を彼は呪った
  鞭でいくらぶちのめされても反抗することをしない
  反抗を知らない卑屈な農奴の血から
  チェーホフは一生をかけてのがれたいと書いた
  おれもおれの血からのがれたかった
  おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった
  おれはおれ自身からのがれたかった
  おれがおれを敵としたのはそのためだった

  おれは今ガンに倒れ無念やる方ない
  しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない
  おれはもう充分戦ってきた
  内部の敵たるおれ自身と戦うとともに
  外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた
  だから今おれはもう戦い疲れたというのではない
  おれはこの人生を精一杯生きてきた
  おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

  兇暴だったにせよ だから愚かだったにもせよ
  一所懸命に生きてきたおれを
  今はそのまま静かに認めてやりたいのだ
  あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ
  あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う
  それにもっと早く気づくべきだったが
  気づくにはやはり今日までの時間が
  あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

  敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと
  あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと
  こで悔いるのでない
  おれ自身を絶えず敵としてきたための
  おれの人生のこの充実だったとも思う
  充実感が今おれに自己肯定を与える
  おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ
  すなわちこのおれはおれとして死ぬほかはない

  庭の樹木を見よ 松は松
  桜は桜であるようにおれはおれなのだ
  おれはおれ以外の者として生きられはしなかったのだ
  おれなりに生きてきたおれは
  樹木に自己嫌悪はないように
  おれとしておれなりに死んで行くことに満足する
  おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
  安らかにおまえは眼をつぶるがいい           ~♪

 祖先の農奴の血を呪ったアントン・チェーホフのように、私生児という自らの出自と闘ってきた高見さん。
 ~♪おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった/おれはおれ自身からのがれたかった/おれがおれを敵としたのはそのためだった ♪~

  死という絶体絶命の立場に追い込まれた高見さん。自己の中の激しい対立は、やがて和解へと向かいます。
  ~♪ 敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと/あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと・・・♪~
 ~♪ おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
    安らかにおまえは眼をつぶるがいい ♪~

 ついに、高見さんは心の中の葛藤を乗り越え、ありのままの自分を取り戻し、「おれとしておれなりに死んで行くこと」を決意するのです。
 Ⅲ部の最後に掲げられた詩を読みましょう。自宅の庭を見ながら作られた詩です。天が静かに手の届きそうな近くに降りてきています。
 この詩を読みながらこの本を閉じたいと思います。

 ~♪    「 庭を見ながら」
  草の一
天が今日は実に近い 手のとどきそうな近さだ 草もそれを知っている だから謙虚に葉末を垂らしている
  草の二
 光よ
  山へのぼって探しに行けぬ
  光よ
  草の葉の間にいてはくれぬか
    草の三
 私はいま前後左右すべて生命にかこまれている 庭はなみなみと生命にみちあふれている 鳥の水あびのように私はいま草上で生命のゆあみをする
                   *****
 高見さんは、安らかな死とは「自分との和解」の上に成り立つものであると、教えてくれたように思います。たとえ矛盾や挫折をかかえた自分であるとしても、あるがままの自分を受け入れ、自らを優しく肯定する、つまり自分との和解です。人は、時には喜び、時には重荷を背負い、苦しみ、悩み、不十分にしか生きられません。その不十分さを許し、あるがままの自分を受け入れ和解する、それが安らかな死なのです。
 高見さん、ありがとうございました。

           「死の淵より」を読む①へ → こちら
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2017年2月 3日 (金)

高見順著「死の淵より」を読む②

  高見順著「死の淵より」を読むの第二回です。ここでは、「死の淵より」のⅠ部を読んでいきます。Ⅰは手術後に書かれた詩です。
  ~♪ 「突堤の流血」
  突堤の
  しぶきの白くあがる尖端の
  灰色のコンクリートにこびりついた
  アミーバ状の血

  寄せてはくだける波も
  それがいくら努力しても
  そこを洗うことはできない
  そこに流された血は
  そこでなまぐさく乾かされる
  波にかこまれながら
  ゆっくりと乾かされねばならぬ       ♪~

   ~♪ 「赤い実」
  不眠の
  樹木の充血
  患者の苦しみの
  はじまる暁
  赤いザクロの実が割れる            ♪~

 手術後の入院生活のなかで、死は現実のものとして高見さんに重く真っ直ぐに迫ってきます。赤い血のイメージをともなって・・・。
 努力しても洗うことはできない血。アミーバ状の血。不眠。充血。苦しみ。赤く割れるザクロの実・・・。

  ~♪ 「汽車は二度と来ない」
  わずかばかりの黙りこくった客を
  ぬぐい去るように全部乗せて
  暗い汽車は出て行った
  すでに売店は片づけられ
  ツバメの巣さえからっぽの
  がらんとした夜のプラットホーム
  電灯が消え
  駅員ものこらず姿を消した
  なぜか私ひとりがそこにいる
  乾いた風が吹いてきて
  まっくらなホームのほこりが舞いあがる
  汽車はもう二度と来ないのだ
  いくら待ってもむだなのだ
  永久に来ないのだ
  それを私は知っている
  知っていて立ち去れない
  死を知っておく必要があるのだ
  死よりもいやな空虚のなかに私は立っている
  レールが刃物のように光っている
  しかし汽車はもはや来ないのであるから
  レールに身を投げて死ぬことはできない      ♪~

 独り取り残された暗いプラットホーム。孤独。空虚。鋭く不気味にひかるレール。死を願望しても死ねない暗黒の空間。高見さんは、死よりもいやな空虚のなかに立たされたのです。
 次の「不思議なサーカス」という詩では、自殺の楽しみを考えたりします。迫り来る死に直面することにより、かってのような青春の賛美や精神の高みを目ざした心のゆとりは失われ、ますます自己の心の中へと内向していくのです。
 ~♪ 「不思議なサーカス」
     ・・・・
  私に人殺しはできぬ
  しかし自分を殺すことはできそうだ
  ほとんどあらゆることをしてきた私も
  自殺だけはまだしていない
  自殺の楽しみがまだ残されている
  どういうふうに自殺したらいいか
  あれこれ考える楽しみ
  不思議な楽しみに私はいま熱中している
  当り前でない楽しみだが
  私にとっては不思議でない楽しみだ        ♪~

  では、Ⅰ部の最後の詩です。
 ~♪ 「魂よ」
  魂よ
  この際だからほんとのことを言うが
  おまえより食道のほうが
  私にとってはずっと貴重だったのだ
  食道が失われた今それがはっきり分った
  今だったらどっちかを選べと言われたら
  おまえ 魂を売り渡していたろう
  第一 魂のほうがこの世間では高く売れる
  食道はこっちから金をつけて人手に渡した
  魂よ
  わが食道はおまえのように私を苦しめはしなかった
  私の言うことに黙ってしたがってきた
  おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった
  卑怯とも違うがおまえは言うこととすることとが違うのだ
  それを指摘するとおまえは肉体と違って魂は
  言うことがすなわち行為なのであって
  矛盾は元来ないのだとうまいことを言う
  そう言うおまえは食道がガンになっても
  ガンからも元来まぬかれている
  魂とは全く結構な身分だ
  食道は私を忠実に養ってくれたが
  おまえは口さきで生命を云々するだけだった
  魂よ
  おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
  口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
  行為だけの世界に連れて来たい
  そして魂をガンにして苦しめてやりたい
  そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう

 高見さんは、迫り来る死に対して魂があまりに無力であることを思い知ります。
 魂と肉体は分離を始め、「魂よ おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ 」と、激しく魂を攻撃します。自らの命を支えていたのは肉体なのだと・・・。
 死を前にして、自分と心の中にいるもう一人の自分との対立は、ますます深刻さを深めていきます。死よりもいやな空虚のなかで苦悶が続きます。
  死よりもいやな空虚のなかに立たされた高見さんは、この後、どこに向かっていくのでしょうか。    それは次回に。

         「死の淵より」を読む①へ → こちら

       「死の淵より」を読む③へ → こちら

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2017年2月 1日 (水)

高見順著「死の淵より」を読む①

 私は、血液癌の一種「骨髄線維症」という治療法の確立していない難病に罹りました。私に残された時間は、多くはないと思います。
 過去に亡くなった詩人たちは、死とどのように向き合い、何を思ったのでしょうか。安らかな死とは何でしょうか。これを追究することが今年一年、私の課題です。
 今回は、食道癌で亡くなった作家の高見順さんの詩集「死の淵より」を読んでいきます。私は、理系の出身で、文学的素養もありません。読み間違うかも知れませんが、著者へ失礼にならないよう、衿を正して読ませていただきます。

 高見さんは明治40年、福井県の三国という小さな港町に私生児として生まれました。母親は、高見さんが1歳の時上京し、父親からの援助と針仕事をしながら息子を育て上げます。高見さんは、生涯父親を知らずに育ちました。
 やがて、高見さんは東大英文科を卒業。左翼活動へと入ります。治安維持法で逮捕、投獄後転向し、作家として世に出ました。「わが胸の底のここには」は、自らの出生の秘密や多感な少年時代を描く自伝風の作品です。小説家として華々しく活躍をしますが、昭和38年食道癌で入院。2年後の昭和40年、58歳で亡くなります。
 「死の淵より」は、その闘病生活を綴った詩集で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの三部構成になっています。Ⅰは入院中に作られた詩、Ⅱは手術前の詩、Ⅲは退院後整理された詩です。
  したがって、時系列に、Ⅱ→Ⅰ→Ⅲの順に読み進んでいきます。
 「死の淵より」は、青空文庫で読むことができます。

                    *****
  高見さんの第一詩集は、「樹木派」です。高見さんは昭和23年頃、結核に罹り鎌倉額田サナトリウムで療養生活を経験します。この頃の詩をまとめたのが詩集「樹木派」です。この中に、死について書かれた詩があります。
 ~♪ 「死」
  こっそりとのばした誘惑の手を
  僕に気づかれ
  死は
  慌てて何か忘れものをした
  たしかに何か僕のなかに置き忘れて行った  ~♪

 この頃は、死と向き合いながらも、死に対する深刻さはなく、どこか遠い心の中の問題として捉えられているようです。結核も次第に死を意味する病気でなくなってきた、という背景もありました。
  「樹木派」のなかの他の詩も一つ見てみましょう。
 ~♪ 「天」
  どの辺からが天であるか
  鳶の飛んでゐるところは天であるか

  人の眼から隠れて
  こゝに
  静かに熟れてゆく果実がある
  おゝ その果実の周囲は既に天に属してゐる    ♪~

 高い空を悠然と飛ぶ鳶。そこは、天であるかと著者は問います。天とは、自然の摂理や神の支配する世界です。これに対して、人の目からから隠れて静かに熟れていく果実。手の届く範囲にある果実。この周囲も、もはや「天」であるというのです。
 この頃の高見さんは、樹木や草花たちの生命力から影響を受け、植物たちの命を賛美していました。人目から隠れ、静かに熟れていく果実に、自分自身を重ね合わせ、より高い精神の高みを目ざしていたのです。

 では、「死の淵より」のⅡ部の詩へ進みましょう。Ⅱ部は、手術前に書かれた詩を集めたものです。このなかの代表的な詩は、「青春の健在」です。
 ~♪ 「青春の健在」
  電車が川崎駅にとまる
  さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
    電車からどっと客が降りる
    ・・・・
    むんむんと活気にあふれている
    私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
  ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
    昔ながらのかばんを肩からかけている
    私の中学時代を見るおもいだ
    私はこの川崎のコロムビア工場に
    学校を出たてに一時つとめたことがある
    私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
    ホームを行く眠そうな青年たちよ
    君らはかつての私だ
    私の青春そのままの若者たちよ
    私の青春がいまホームにあふれているのだ
    私は君らに手をさしのべて握手したくなった
    なつかしさだけではない
    遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
    若い労働者たちよ
    さようなら
    君たちともう二度と会えないだろう
    私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
    こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
    見知らぬ君たちだが
    君たちが元気なのがとてもうれしい
    青春はいつも健在なのだ
    さようなら
    もう発車だ 死へともう出発だ
    さようなら
    青春よ
    青春はいつも元気だ
    さようなら
    私の青春よ                    ♪~

 癌の手術を受けるため千葉大学病院へ向かう高見さん。朝の光の降り注ぐ川崎駅。むんむんと活気あふれる中学生や若い労働者。自らの青春そのままの若者たち。高見さんは、青春を高らかに賛美します。そして、死へと出発だ、さよなら私の青春よと、自らの青春に別れを告げるのです。
  しかし、詩はどこか感傷的で、観念的にしか死に向き合えていないことが覗えます。高見さん自身も、「……死の恐怖が心に迫ってきたのはあとからのことである。」と述べています。この時点では、まだ精神的に余裕があったと思われます。
  続く「電車の窓の外は」という詩でも、~♪足ばやに行く出勤の人たちよ/ おはよう諸君/ みんな元気で働いている/ 安心だ 君たちがいれば大丈夫だ/ さようなら/ あとを頼むぜ/ じゃ元気で…♪~と、ここでもまた、生命や活気のあふれる人々に別れを告げ、病院へと向かいます。

  高見さんは手術をうけ、病院での闘病生活が始まります。
 いったい高見さんは、この後、どのように死と向き合うことになるのででしょうか。
 次回は、「死の淵より」Ⅰ部の詩を紹介します。

             高見順著「死の淵より」を読む②へ → こちらから

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2017年1月20日 (金)

「一日一日を大切に生きる」を考える

 ~長田弘作、「最初の質問」という詩について~

 難病に罹った私に、残された時間は少なくなってきました。日々を大切に生きねばなりません。しかし、「一日一日を大切に生きる」とはどんな生き方なのでしょうか?
 目標を持ち、目標の実現に向けて一日一日努力する、これもありそうですね。
 人のためになることを見つけて、コツコツとやっていく。一日一善。これもありますね。 「病気で身動きできなくなり、たとえ介護されるだけの身になっても、祈ることはできる」。これは、聖路加病院の日野原氏の言葉です。
 人はそれぞれに大切にしたいものがあり、生き方も違います。「一日一日を大切に生きる」に、唯一の正解というようなものはありませんね。いろいろな考え方があって当然のことだと思います。

 長田弘さんの詩に、「最初の質問」という詩があります。今回は、この詩を手がかりに、この詩が示す、人にとって大切なものとは何か、「一日一日を大切に生きる」とは何かについて考えてみます。著作権の侵害にならないよう、切れ切れの引用になりますが。

~♪ 「最初の質問」   (長田弘)
  今日、あなたは空を見上げましたか。
  空は遠かったですか、近かったですか。
  雲はどんな形をしていましたか。
  風はどんな匂いがしましたか。

  あなたにとって、
  いい一日とはどんな一日ですか。
  「ありがとう」という言葉を、
  今日、口にしましたか。 ♪~

  Taisetu201_02_2 私は現役で働いていた頃、日々の忙しさにまぎれて、青い空や流れていく雲に挨拶することもありませんでした。日々吹いている風の匂いを感じとることもありませんでした。
 自然との語らいやありがとうという感謝の言葉のない一日が、いい一日であるはずがありませんね。

 

~♪ 窓の向こう、道の向こうに、
   何が見えますか。
   雨の雫をいっぱい溜めたクモの巣を
   見たことがありますか。

   樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、
   立ち止まったことがありますか。
   街路樹の木の名を知っていますか。
   樹木を友人だと考えたことがありますか。 ♪~

 Shubun24seki_013_2
 雨の雫をためたクモの巣。自然の中にあるさりげなく美しいもの。
 街の中に、人のように立ち尽くす一本の欅。
 私たちは本来、草木を友とし、季節のうつろいや草木の生命力に心を動かされ生きてきました。しかし、日々の忙しさの中で、いつの間にかそのことを忘れてしまっているのではないでしょうか。  

 

  Risshun901_02_3長田さんは、「独り立つ木」という詩の中で、次のようにも述べています。
   「・・・ひときわ枝々をゆたかにひろげて、やわらかな影を落としてきた一本の大きな欅の木。雨の日には雨の影を、晴れた日には日の色を、夜には夜の薄闇を、巡る季節のなかにじっと畳んできた、静かな木だ。
 その木を独り立つ木にしたのは、みずから森を失いつづけてきた、人間の長いあいだの営みの結果にはちがいない。
  たった一本、これほどにも高い欅の木がそこに在るという、ただそれだけの爽快な事実。ただ在るというだけのことが、その木のように潔く存在することであると知ることは、日々のなぐさめだ。・・・」と。

~♪ このまえ、川を見つめたのはいつでしたか。
   砂の上に座ったのは、
   草の上に座ったのはいつでしたか。
   「うつくしい」と、
   あなたがためらわず言えるものは何ですか。
   好きな花を七つ、あげられますか。
   あなたにとって「わたしたち」というのは、だれですか。  ♪~

 Shunbun201_01_2
  遙かに流れていく川の流れ。砂の感触。草の匂い。
 私たちは、素直に美しいと感じるものを、日々暮らしの中で持てているでしょうか。
 携帯やスマホを欲しがる子どもたちは、「みんな」も持っていると親を説得しようとします。私たち大人は、社会や自然を含めた、広く豊かな「みんな」や「わたしたち」という考え方を持てているでしょうか。

~♪ 夜明け前に鳴き交わす
   鳥の声を聴いたことがありますか。
   ゆっくりと暮れていく
   西の空に祈ったことがありますか。

   何歳の時の自分が好きですか。
   上手に年を取ることができると思いますか。
   世界という言葉で、
   まず思い描く風景はどんな風景ですか。 ♪~

  A0011yuhi228_01 静かな夜明け前の鳥の声。生き物たちの活動の始まり。明けていく朝の風景。
 祈りのように赤く染まり暮れていく西の空。静かな一日の終わり。
 生き生きとしていた頃の想い出。
 これらは、すべて良い一日の材料ですね。
 人は誰でも、ゆっくりと死へ向かって歩んでいます。焦りや不安、恐れではなく、おおらかに、ゆっくりと死を受け入れていく、そんな気持ちを持てることが、良い一日の条件ですね。
 世界はどうしようもなく戦争をくり返してきました。不正義と混乱に満ちた世界ではなく、人びとが営々と築き上げてきた歴史や文化や芸術、それらの豊かな世界を心の中に描くことができるのは、良い一日のためには必要ですね。

~♪ 今あなたがいる場所で、
   耳を澄ますと、何が聴こえますか。
   じっと目をつぶる。
   すると何が見えてきますか。

   問いと答えと、
   いまあなたにとって必要なのはどっちですか。
   これだけはしないと、
   心に決めていることがありますか。  ♪~

0418kouno326_01 人はいつの頃から、騒々しくしか生きられなくなったのでしょう。静かに沈黙に向き合い、沈黙の声を聞く、目を閉じて過ぎ去った過去や未来と対話する、そんな時間が一日には必要ですね。
 何かを成し遂げることも意味があることですが、何かをしないことにも、同じように価値があることに気付くことがあります。 

 

~♪  いちばんしたいことは何ですか。
    人生の材料は何だと思いますか。

    あなたにとって、
    あるいはあなたの知らない人びとにとって、
    幸福って何だと思いますか。     ♪~

 人はやりたいことを追求し、幸福な自分の人生を形作ろうとしてきました。
  長田さんは言います。
 「大切な日常を崩壊させた戦争や災害の後、人は失われた日常に気づきます。平和とは日常を取り戻すことです。」、「敵を打ち倒すべき戦争によって危うくされてきたのは、敵ではなくて、Home(ホーム)だったのだ。」と・・・。
 幸福とは、どこか遠くにある特別なものではなく、いつもと変わらない、今ここにある日常生活のことなのです。

~♪  時代は言葉をないがしろにしている。
    あなたは言葉を信じていますか。       ♪~

 いよいよ、詩人の最後の質問です。「あなたは言葉を信じていますか?」
  長田さんは、別の詩で書いています。        (「魂は」より)
 「・・・ ひとが誤まるのは、いつでも言葉を過信してだ。
  きれいな言葉は嘘をつく。この世を醜くするのは、不実な言葉だ。・・・ 」
 今の時代、政治家の使う言葉ほど不実な言葉はありません。「美しい日本を作る」、「一億総活躍社会」。「女性の輝く社会」。「働き方改革」。「地方の時代」・・・・。 こんなに言葉が意味を失っている時代はありません。
 ほんとうの言葉を探すこと無しに、「いい一日」はありませんね。「いい一日」とは、嘘ではない本当の言葉に出会える日々のことなのでしょうね。
  長田さん、ありがとうございました。

  今回は、長田弘さんの「最初の質問」という詩の質問に答えるという形で、「一日一日を大切に生きる」ということについて考えてみました。
 この詩は、中学校の教科書に採用されたり、いせ ひでこさんが絵本として出しています。

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2016年11月21日 (月)

子供の貧困が日本を滅ぼす

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   日本財団 子供の貧困対策チーム著「子供の貧困が日本を滅ぼす」(文春新書)を読みましたので、紹介と感想を書かせていただきます。

 多くの日本人は、長らく日本は格差の少ない社会であると信じてきました。「一億総中流」という言葉もありました。しかし、1990年代に入り、日本でも格差社会が広がっているのではないかと言われるようになりました。そして、ついに2006年7月、経済開発機構(OECD)が、「対日経済審査報告書」を発表し、日本の相対的貧困率がOECD諸国の中でアメリカに次いで第2位であると報告され、大きな衝撃が広がりました。
 大人の社会で「格差」が広がっているのであれば、大人の所得に依存している子どもたちの間にも、当然「格差」「貧困」が広がっていきます。貧困家庭に暮らす子どもたちの問題、それが「子供の貧困 」問題です。

 日本の子供の貧困率は年々上昇しており、2012年の時点で16.3%です。つまり、日本の子供は、6人に1人が貧困家庭で育っているわけです。実は、日本はOECD諸国の中でみると、「子どもの貧困」大国なのです。
 多くの私たち日本人は、「子どもの貧困」と言われても、ほとんど実感がありません。6人に1人が貧困と言われても、着る服が無くて学校に行けないとか、靴が買えず裸足で登校している子どもをみることはありません。私たちが「貧困」という言葉から感じるイメージは、食うや食わずで、やっと生きているという絶対的貧困のイメージです。
 このような感覚で、「子どもの貧困」を考えると大きく間違ってしまいます。

 OECDの発表している「子供の貧困率」によれば、日本は、OECDの平均を大きく上回り、ワースト10に入っています。ちなみに隣の韓国は、OECD平均をかなり下回っています。特にひどいのは、「ひとり親家庭」を取り出した貧困率です。2014年に内閣府が発表した資料によると、日本は50.8%で世界第一位の貧困率なのです。日本のひとり親家庭での親の就業率は、母子家庭で81%、父子家庭では91%となっており、イギリスの56%と比べても大変高くなっています。つまり、日本のひとり親家庭(特に母子家庭)は、働いているにもかかわらず貧困状態なのです。女性の賃金が、海外に比べ、いかに低い水準にあるのかが分かります。

 では、なぜ「子どもの貧困」が特に問題なのでしょうか?
 それは、貧困が世代を超えて「連鎖」していくことにあります。「生まれた家庭の経済格差が教育格差をもたらし、将来の経済格差を再生産する」ということです。
 全世帯の平均大学進学率は、73.3%ですが、ひとり親家庭では41.6%、生活保護家庭では32.9%と大きな差があります。
 学歴の差は収入の差となって現れます。大学卒と高校卒では平均すると、1.5倍の賃金格差を生じています。賃金カーブにも大きな差が現れています。

 本書では、子どもの貧困を放置した場合、日本社会はどれだけの経済的損失を受けるのかを推計しています。(第2章)
 まず、推計に使うため、貧困の子どもの数を定義します。
 現在、15歳の人口120万人のうち、生活保護所世帯2万2000人、児童養護施設の2000人、一人親世帯の15万5000人、合計18万人を便宜的に貧困状態にある子どもと定義します。比率では15%になります。
 次に、状況が現在の進学率のまま放置された「現状放置シナリオ」と、進学率などが、平均的数値近くまで改善された「改善シナリオ」とを比較し、どれくらいの社会的損失が発生するかを推計しています。
 社会的損失とは、個人の生涯所得の減少、それによる税収や保険料収入の減少、無業者の増加による社会保障給付の増加などを合計したものです。
 その推計結果によると、現状を放置した場合、0歳から15歳までの世代を合計すると、所得の減少分の合計は42兆9000億円、税収や社会保障支出による財政収入の減少は、15兆9000億円になると推計しています。収入に関係する一生涯を、19歳から64歳までの45年間とするると、一年あたりの所得減少は約1兆円、財政収入の減少は3500億円となります。 これは、大変な経済的損失です。

第3章「当事者が語る貧困の現場」では、貧困の具体的イメージを取材しています。
第4章「貧困から抜け出すために」では、社会的相続という考え方が紹介されます。
第5章「貧困対策で子どもはどう変わるか」では、海外での貧困対策の効果についての実証的研究が紹介されています。
第6章「子どもの貧困問題の解決に向けて」では、国や自治体、NPOでの取り組みの必要性と現在の取り組み内容が紹介されています。

 新自由主義的な経済政策が進むにつれ、格差社会が拡大し、社会の到るところにひずみが生じています。その中でも、「子どもの貧困」は、経済格差が教育格差に繋がり、それがさらに将来の所得格差を生み出し、格差の拡大再生産につながつていくという日本の将来に係わる大きな問題です。私たち自身の問題として真剣に考えるべき問題です。
  「子どもの貧困」はこれまで、学力の問題、虐待の増加の問題、身体発達の問題、心の健全な発達の問題、進学問題など多方面から論じられてきましたが、この本は、国の経済的損失という点に焦点が当たっています。その点が、この本の面白いところです。
 「子どもの貧困」が放置された場合の影響は、経済的側面だけには留まりません。「子どもの貧困」の教育的側面を知りたい人には、少し不満が残るかも知れませんが、この本は、お薦めです。

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