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2017年5月17日 (水)

平田雅博(著)・英語の帝国 感想

  平田雅博(著)・「英語の帝国」~ある島国の言語の1500年史 ~(講談社選書)~を読みましたので、紹介させていただきます。平田雅博氏は、青山学院大学史学科教授。
 この本は、イングランド島という一島国の言語に過ぎなかった「英語」が、現在のような世界支配を確立していく1500年の歴史を検証しています。そして今、日本で起こっている「英語熱」、小学校での英語教科化や低年齢化などに警鐘を鳴らしています。
 現代日本の英語教育をかんがえる時、この本は必読と言えそうです。

Ujit01 「英語の帝国」は、中世イングランドによる、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの侵略に始まります。これらのブリテン諸島の国々を支配下に置き、イングランド帝国が出来上がりました。
 さらに近代に入りイングランド帝国は、「ブリテン帝国」(大英帝国)として世界的に帝国を建設していきました。これとともに、「英語の帝国」は拡大していきました。
 その拡大は、左の図のようになります。(クリックすると拡大します。)
 まず、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど、「母語としての英語」を話している人々が中核となります。
 さらに、植民地の拡大競争によりインド、アフリカなど、大英帝国やアメリカに植民地化された国々へと英語は広がっていきます。図の「外郭の円」。
 さらに十九世紀以後は、「非公式帝国」としてラテンアメリカ、中東、そして日本を含む極東にまでその支配圏が広がっていきました。図の「膨張する円」。

 「英語の帝国」は勢力を拡大していく過程で、支配拡大のための様々な原理(戦略)を獲得していきます。その一つは、使用言語の違いを利用した分断支配です。
 まず、上からの英語押しつけ政策で、英語話者に経済的・社会的な優位性が与えられる仕組みを作ります。この仕組みが機能を始めれば、経済的ゆとりのある者は英語を学び有利な地位を得ていき、それができないものは不利な立場に追いやられ、格差社会は広がっていきます。社会的・経済的利益を得させようと親たちは、子どもには英語を獲得させようと必死になっていきます。
「上からの強制」と「下からの迎合」により、植民地的言語支配が進んでいくのです。

 例えば、ウェールズは16世紀の「連合法」により、イングランドに併合されます。この連合法の中には言語条項があり、行政的に英語の使用が義務づけられ、英語に習熟していないものは官職に就けなくなったのです。ジェントリ(地主階級)の師弟は、イングランドで英語を学び社会的地位を獲得していきました。一方ウェールズ語は、地方の小作人の言語として緩やかに衰退をたどっていくことになるのです。

 19世紀の「帝国主義」の拡大により、英語は教育システムとして、「帝国支配」の言語として広がっていきました。支配者側(宗主国側)からの「強制」と、被支配者側からの「迎合」という原理は、ここでも活用されました。
 インドでは、公的な使用言語がペルシャ語から英語に置き換わり、インド人が政府ポストに就くときは、英語教育を受けた者の優先が決められました。さらに主要な都市に国立大学が作られ、英語で授業がおこなわれたため、英語教育は進みました。
 ガンジーは、「英語は、教養層と大衆を隔てる深い溝であり、インドの国民語になり得ない。」と、英語反対論をとなえましたが、しかし、子どもの将来を考え就職を有利にしようとする親たちが多数派でした。2003年時点で、英語が自由に話せるインド人は、5000万人に達しています。

 アフリカでは、「アフリカ人は英語を必要としている」として、一方的、暴力的に英語の押しつけが進行しました。スワヒリ語や多数の現地語は「近代的な、抽象的な思考」を表現できないと見なされ、教育機関から追放されていきました。
 1961年にウガンダのマケレレで、「第二言語としての英語教育」についてのブリテン連邦会議が開かれました。この会議をまとめた報告書が、「マケレレ報告」です。この報告の中で注目されるのが、次のような「信条」です。

 ①英語は英語で教えるのがもっともよい。
 ②理想的な英語教師は英語を母語とする話者である。
 ③英語学習の開始は早いにこしたことはない。
 ④英語に接する時間は長いにこしたことはない。
 ⑤英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる。
 
 これらの信条は、第ニ外国語を学習するための教育的理論から生み出されたものではなく、英語を一方的に押しつけるために「英語の帝国」の歴史が生み出した「前理論」であるといいます。これらの信条は、教育的な理論的背景が明確でないまま、当然のことのように言われ、現在の日本でも英語学習の低年齢化の根拠となっています。

  最後は、膨張する円の中にいる日本の英語教育についてです。
  文部科学省は、2014年に有識者会議を設置し、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を作成しました。この計画に基づいて、今年2017年3月、新指導要領が告示されました。
 小学3.4年生で、「聞く・話す」を中心に週一時間の体験的学習、5.6年生には、週二時間の「読み・書き」を加えた教科としての学習が入ります。
 中学校では、英語の授業は英語でおこなうことを「基本」とするとしています。
 これらはまさに、「マケレレ報告」の日本適用版ともいえます。

 著者は、現代の英語帝国主義は、アメリカが主導する帝国主義であると述べています。アメリカが主導する「新自由主義」による「グローバル化」が世界を覆い、これに呼応して日本の財界は「英語教育改革」を唱えて、「グローバル化」=「アメリカ化」に都合のよい日本人=「グローバル人材」の育成を目ざしていると…。
 この「グローバル人材」を育てるための教育改革は、膨大な予算を伴う国家プロジェクトです。限られた授業時間と予算の中で、小学校に英語を導入することが、本当に経済的に意味のあることなのか国民的議論が必要です。現代日本の「英語熱」は異常であり、日本人は、早く目を覚ますべきであると著者は警告しています。
       *********
 小学校への英語導入については、反対の学者も多くいます。愛知県立大の袖川裕美氏は、小学の年間35~70時間程度の英語なら、大人になれば短期間にマスターできると言います。外国語が母語以上になることはあり得ず、国語力が低いままでは、英語も使えなくなります。国語の作文の時間を増やす方が大切であると主張しています。
 国民的議論が必要な問題であることは確かですね。 

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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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2017年5月 1日 (月)

中原中也の詩を読む

  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか、今回は中原中也をみていきます。夭逝の詩人から中原中也を外すことはできませんね。
 中原中也の詩は、中学校や高校の教科書でもよく取り扱われていて、近代詩への入り口となっています。若い人の中にファンも多いですね。詩人や研究者の方の評論もたくさん出されています。今更、一読者である素人が、稚拙な何かを言うのも畏れ多いことですが、それはそれで、素人なりに思ったままをズバリと書いてみます。 我流「中也」論。

 まず、年譜により、彼の生涯の概略を確認してみます。
★1907年(明治40年)
 山口で生まれる。父は軍医で、後に中原医院を開く。
★1923年(大正12年):16歳
 文学熱が高じ、怠学により落第。家族で協議の結果、京都の立命館中学に転校。
  京都で長谷川泰子と同棲。詩や小説に没頭する。
★1925年(大正14年):18歳
  長谷川泰子と共に上京。東京での詩作の日々が始まる。
 小林秀雄、高橋新吉、草野心平、河上徹太郎、萩原朔太郎らと交流。
★1933年(昭和8年):26歳
  遠縁の上野孝子と結婚。
  翌年、長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版。詩人としての評価も高まる。
★1936年(昭和11年):29歳
  長男文也、小児結核で死去。
★1937年(昭和12年):30歳
  「在りし日の歌」の原稿完成。結核性脳膜炎で死去。

 中也の実家は医者で、裕福な家庭の出身です。その後、彼は一生実家から援助を受け続け、生活のためにあくせく働き、世間に揉まれて生きることもありませんでした。17歳で女と同棲を始めたりして、世間一般からみれば、文学に狂った放蕩息子という感じです。逆に、良く言えば、あくせくせす純粋に詩に没頭した詩人だったといえます。
 中也にとって詩人とは、生活のためにあくせくと雑事に追われる世俗とは一線を画した、精神的特権階級だったと思います。そのため、彼は世間を高みから傍観したり、世間にとけ込めない孤独感を感じていたと思われます。「正午」という詩ををみてみましょう。
  ~♪ 「正午 ~丸ビル風景~」      (在りし日の歌)
   あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
   ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
   あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
   空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
   ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
   なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
    ・・・・
   空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな   ♪~

 この詩は、高みから世間を見下ろす中也の視点や彼の持つ孤立感、漂泊感の溢れた詩です。 次に、「倦怠」という詩をみてみましょう。
  ~♪ 「倦怠」        (生前発表詩篇)
   倦怠の谷間に落つる
   この真ッ白い光は、
   私の心を悲しませ、
   私の心を苦しくする。
    ・・・・
   たちまちにそれは心を石と化し
   人はただ寝ころぶより仕方もないのだ
   同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
   悔いながらにかぞえなければならないのだ。
    ・・・・              ♪~

 世間や外界に対して果たされずに過ぎる義務の数々。世間からの孤立感が、彼にもたらしたものは「倦怠」です。彼の詩の中に流れる主要なテーマの一つが、「倦怠」です。
 彼は、世俗との抵抗しがたい苦闘の中で、どうしようもない倦怠感を抱いていたのです。家計を営む生活者ではない、霞を喰って生きるような詩人の負い目でしょうか。
 実家に金銭的に頼らねばならない負い目、成功できない負い目、彼にとって故郷もまた、閉ざされていました。「帰郷」と「黄昏」という詩をみてみましょう。
   ~♪ 「帰郷」        (山羊の歌)
   ・・・・
  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ     ♪~

  ~♪ 「黄昏」          (山羊の歌)
   ・・・・
  なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
  草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
  畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

  ――つひに私は耕やさうとは思はない!
  ぢいつとぼんやり黄昏の中に立つて、
  なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 何も成し遂げられない自分。父親に対する負い目。彼にとって過去とは、疲れたような懐かしさや後悔の堆積する空間でした。よく知られた「頑是ない歌」でも、~♪思へば遠く来たもんだ/ 十二の冬のあの夕べ/ 港の空に鳴り響いた/ 汽笛の湯気は今いづこ・・・・と、過ぎ去った過去を後悔の念と漂泊感を滲ませながら詠います。
 このように、彼の心は、周囲に対しても過去に対しても閉ざされていました。彼は、この心の閉鎖空間の中で、「悲しみ」を詠いました。彼の詩の中に流れる主要なテーマの二つ目が、「悲しみ」です。よく知られた詩、「汚れつちまつた悲しみに……」を読みましょう。
  ~♪「汚れつちまつた悲しみに……」   (山羊の歌)
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

   汚れつちまつた悲しみは
   たとへば狐の革裘
   汚れつちまつた悲しみは
   小雪のかかつてちぢこまる

   汚れつちまつた悲しみは
   なにのぞむなくねがふなく
   汚れつちまつた悲しみは
   倦怠のうちに死を夢む

   汚れつちまつた悲しみに
   いたいたしくも怖気づき
   汚れつちまつた悲しみに
   なすところもなく日は暮れる……      ♪~

 「倦怠のうちに死を夢む」。いったいこの悲しみは、どんな悲しみなのでしょうか。どんな汚れなのでしょうか。誰が汚したのしょうか。「なすところもなく日は暮れる……」。すべては受身形の悲しみです。彼の悲しみは、閉ざされた心の中を漂うばかりです。
 また、彼の心は、未来に対しても閉ざされていました。「わが半生」をみてみます。
   ~♪ 「わが半生」        (在りし日の歌)
      ・・・・ 
   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。       ~♪

 出口の無い閉ざされた心の中の「悲しみ」と「倦怠」。過去、未来、周囲、すべての方向に閉ざされた心の世界で、彼は心の中にもう一人の自分であるピエロを住まわせることにより、心のバランスをとり自らの心を慰めていたと思われます。
  ~♪ 「幻影」        (在りし日の歌)
   私の頭の中には、いつの頃からか、
   薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
   それは、紗の服なんかを着込んで、
   そして、月光を浴びてゐるのでした。
         ・・・・    ♪~

   ~♪ 「骨」
   ホラホラ、これが僕の骨だ、
   生きてゐた時の苦労にみちた
   あのけがらはしい肉を破つて、
   しらじらと雨に洗はれ、
   ヌックと出た、骨の尖さき。
        ・・・・
      故郷ふるさとの小川のへりに、
   半ばは枯れた草に立つて、
   見てゐるのは、――僕?
   恰度立札ほどの高さに、
   骨はしらじらととんがつてゐる。    ♪~

 離人症に罹ったかのように心を分離させ、もう一人の自分であるピエロを心の中に住まわせ、故郷に骨となって立ち尽くしている自分自身を見た詩人。閉ざされた心の中で、「悲しみ」と「倦怠」を詠った詩人。中原中也は、昭和12年、わずか30歳の若さでこの世を去りました。

 昭和12年といえば、廬溝橋事件。日本は戦争の時代へと突入していきます。多くの詩人は大政翼賛へと転向していきました。そんな時代の中で、社会に対し心の扉を閉ざし、自己を心の閉鎖空間の中に沈潜させていった若者・中原中也は生きていたのです。
 今また、中也の詩が若者の心をとらえているといいます。就活競争。非正規労働。個がバラバラにされる競争社会。自己責任社会。青春に挫折し、心を病む若者がいる限り、中也の詩は今後も読み継がれていくと思います。
 では、最後に彼の「志」を微かに感じさせる詩で、締めくくりたいと思います。
  ~♪ 「月夜の浜辺」
   月夜の晩に、ボタンが一つ
   波打際に、落ちてゐた。

   それを拾つて、役立てようと
   僕は思つたわけでもないが
   なぜだかそれを捨てるに忍びず
   僕はそれを、袂に入れた。
        ・・・・
   月夜の晩に、拾つたボタンは
   どうしてそれが、捨てられようか?    ♪~

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2017年4月17日 (月)

山村暮鳥の詩を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回の夭逝詩人は、山村暮鳥をとり上げてみます。
 山村暮鳥を知らない日本人は少ないと思います。私と同世代の人は、名前くらいは必ず知っています。小学校の国語の教科書に、次の詩が取り上げられていました。
 ~♪ 「風景」
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ   ⇒☆
いちめんのなのはな

二連目の☆の部分では、「 ひばりのおしやべり」
三連目の☆の部分では、「 やめるはひるのつき」と少し変化するだけ。
 視覚的効果もねらった詩です。広々とした菜の花畑に、かすかな麦笛の音、ひばりの囀り、空には薄白く昼の月。静かな広がりの中にくっきりとした動的添景表現ですね。

  また、彼の最後の詩集『雲』もよく知られています。二つばかり紹介します。
   ~♪ 「雲」
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる       ♪~

 ~♪ 「雲」
おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか  ♪~

 山村暮鳥は、キリスト教の伝道師でした。「いちめんのなのはな」と詩集『雲』のイメージから、暮鳥は、信仰深いクリスチャンで、自然を愛する自然派詩人と思っている人もいると思いますが、それは少し違います。
 では、彼の生涯を年譜で概観しながら、作品を確認していきましょう。

 ★1884年 明治17年
  群馬県生れ。本名は土田八九十(つちだ・はつくじゅう)。複雑で貧しい家庭に生まれ、小作農の働き手をはじめとして、様々な職業を転々とながら底辺生活を送る。
  ★1903年 19歳
 東京府築地の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。 ひそかに詩を作り始める。
  ★1910年 26歳
 自由詩社同人となり、官能謳歌的詩を発表し、上級牧師より警告を受ける。
  ★1913年 30歳
 愛欲的傾向の『三人の処女』発表。萩原朔太郎、室生犀星らと「人魚詩社」設立。
  ★1915年  32歳
 詩集『聖三稜玻璃』を出版。極端な象徴派的な異色の詩。悪評を受ける。
  ★1918年  35歳
 この年、結核のため喀血する。詩風は一変し、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な傾向を強める。 『風は草木にささやいた』を発表。 
 翌年、結核のため伝道師を休職。
  ★1922年 39歳
 神を糾弾する『梢の巣にて』を刊行。
  ★1924年  40歳
 茨城県大洗町で死去。『雲』を編集。(死後一年後に出版)

 山村暮鳥はキリスト教の伝道師でありながら、彼の詩は、信仰とかけ離れた人間的欲望に根ざしたものでした。上級牧師より警告を受けたり、敬虔な信者から反発されたりしてトラブルにもなりました。詩集『聖三稜玻璃』からほんの少し一節を。
 ~♪ 「囈語」           *囈語 ←うわごと
 ・・・・
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。  ♪~

  人間の犯罪とそれから直感される言葉を並べた言葉遊びです。姦淫、殺人、墮胎……、いくら言葉遊びでも、聖職者としてこれはちょっとアウトでしょう。
 その後、暮鳥は作風を一変。今度は、自然と人間への賛歌を歌いあげる人間主義・人道主義というべき作風へと変化します。『風は草木にささやいた』より、一つだけ紹介してみます。大地と人間への賛歌です。
 ~♪ 「此處で人間は大きくなるのだ」
とつとつと脈うつ大地
その上で農夫はなにかかんがへる
此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか
雨あがり
しつとりとしめつた大地の感觸
あまりに大きな此の幸福
どつしりとからだも太れ
見ろ
なんといふ豐富さだ
此の青青とした穀物畑
このふつくりとした畝畝
このひろびろとしたところで人間は大きくなるのだ
おお脈うち脈うつ大地の健康
大槌で打つやうな美である      ♪~

 やがて、結核のため伝道師を休職します。そして、彼は神との訣別、神を糾弾する詩集『梢の巣にて』を発表します。この中の長編詩『荘厳なる苦悩者の頌栄』の一節を書き出してみましょう。
 ~♪ 荘厳なる苦悩者の頌栄
 ・・・・
神様
人間は自主です
もうあなたの奴隷ではありません
此の貴い崇高い力のうへに立つた人間
御覧ください
この人間のかゞやかしさを
光りかゞやく人間を
まるで神様です
 ・・・・
人間はめざめました
あなたはもう消えてなくならなければなりません
けれど神様
真のあなたである神様
理想としての神様
それをわたしはわれわれ人間にみつけました
眼ざめた人間がそれです
あなたに咀はれた此の大地を
ともかくも楽園とした人間です
その人間です
おゝ新しい神様                 ♪~

 神に呪われたこの大地を、ともかくも楽園としたのは人間であると…。もうかなり言いたい放題ですね。
 クリスチャン詩人八木重吉は、神に付き従うことにより、信仰と詩の矛盾を統一し、「宗教的自然派詩人」となりました。
 暮鳥は逆に、神を捨てるることにより、自然賛歌・人道主義へと到達したのです。詩集『雲』の世界は、信仰と人間主義を彼なりに統一した世界と言えます。彼は神から自立し、静かで心安らかな世界に到達したのです。
 人間派・自然派詩人、暮鳥の最後の詩集『雲』より、2つばかり紹介します。
  ~♪ 「ある時」
宗教などといふものは
もとよりないのだ
ひよろりと
天をさした一本の紫苑よ     ♪~

    ~♪ 「ある時」
またひぐらしのなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ           ♪~

 神から自立し、ひょろりと天をさした一本の紫苑。山村暮鳥はカナカナの声を聞きながら、どこかにあるいい国へと旅立ちました。 40歳でした。

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2017年3月31日 (金)

石川啄木詩集・歌集を読む

  夭逝の詩人は、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、わずか26歳の若さで世を去った天才歌人・詩人、石川啄木についてみていきます。

 ~♪ 東海の小島の磯の白砂に  われ泣きぬれて  蟹とたはむる ♪~

  ~♪ 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日  ♪~

  ~♪ はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る ♪~

  「一握の砂」に収められたこれらの歌は、日本人のほとんどが知っています。私たちの知る石川啄木は、どのように誕生したのでしょうか。年譜を概観してみましょう。

★石川啄木は、1886年(明治19年)に、岩手県(現、盛岡市)で、寺の住職の子として生まれます。優秀な少年時代だったようです。
★1902年 明治35年 満16歳
   学校で不正行為(カンニング)があったとして処分を受け、盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく渋民村を出ます。文学的野心に満ちて故郷を出発です。
★1905年 明治38年 満19歳
  文語定型詩で書かれた処女詩集『あこがれ』を発行。これは、現代の私たちには、少々読みづらいです。節子と結婚し、盛岡市に新居を構えます。
  翌年には、 渋民小学校で代用教員として働きます。
★1907年 明治40年 満21歳
 北海道に渡り、函館 、釧路などの地で、代用教員、新聞記者、校正係などとして働きます。
★1908年 明治41年 満22歳
  「文学的運命を極度まで試験する決心」(日記)。ついに文学的野心に燃えて、家族を北海道に残したまま上京します。小説を書き、売り込みを図るも失敗。貧困のどん底へと落ちます。挫折です。
 挫折の中で歌を詠み雑誌に発表し、これが高く評価されることになります。
★1909年 明治42年 満23歳
 朝日新聞社校正係の職も得て、家族を迎え二階二間の間借り生活を始めます。
★ 1910年 明治43年 満24歳
  『一握の砂』を刊行。 長男真一死去。
   大逆事件発生。幸徳秋水等死刑。これに抗議し社会主義的傾向を一層強めます。
★1911年 明治44年 満25歳
   慢性腹膜炎と診断され入院。さらに肺尖カタルにおかされ病魔は進行。
 母カツも病魔におかされます。
★1912年 明治45年 満26歳
  3月、母カツ結核で死去。
 4月、本人も危篤。最後をみとったのは、妻節子、父一禎と友人の若山牧水でした。

  年譜により、石川啄木の作品の全体像を整理すると、次のようになります。
  まず、歌については、次の二集です。
      22歳~23歳:『一握の砂』   24歳~26歳:『悲しき玩具』
  次に、詩人としての石川啄木の作品は、次のように整理できます。
      17歳~18歳:詩集『あこがれ』 19歳~24歳:『あこがれ』以後の作品群。
      24歳~:社会主義的な傾向滲ませた『呼子と口笛』

  結局、私たちが『一握の砂』で知っている石川啄木は、22歳~23歳の頃の啄木ということになります。
  闘病中の心情を知るには、24歳~26歳の『悲しき玩具』を読めばよいということになります。

 啄木は、文学的才能にあふれ、また文学的野心を持ち文学界に挑みますが、その収入で家族を養うことはできず、貧困のどん底で喘ぎます。容赦なく病魔が襲い、ついに26歳の若さで他界したのです。
 彼は、凄まじい生活苦と病魔にどのように向き合ったのでしょう。最後に書かれた日記を見てみましょう。

  <日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。・・・・>

  啄木を見舞った友人、金田一京助は、後に次のように書き記しています。 
    <上ってすぐ隔ての襖をあけると、仰向けに此方を向いて寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容が来て、面がわりしたのに先ず吐胸を突かれたが、同時に、洞穴があいたように、ぱくりと其の口と目と鼻孔が開いて、『たのむ!』と、大きなかすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。私は死霊にでも逢ったよう、膝が泳いで、のめるようにそこへ坐ったばかり、いう所の言葉を知らなかった。
 あの際に、何と言って上げるのが一等よかったろうか、私には今でもよいことばがわからない。・・・>

 金田一京助が、「いう所の言葉を知らない」と言うような貧困生活と闘病生活。その中で詠まれた歌を『悲しき玩具』から拾って鑑賞していきましょう。歌については、何の説明も必要ないと思います。ただ啄木の心中を推察するのみです。

~♪呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音おと!♪~

~♪考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。 煙管をみがく。♪~

~♪真夜中にふと目がさめて、わけもなく泣きたくなりて、蒲団をかぶれる。♪~

~♪目さませば、からだ痛くて動かれず。 泣きたくなりて、夜明くるを待つ。♪~

~♪氷嚢の下より まなこ光らせて、寝られぬ夜は人をにくめる。♪~

~♪人間のその最大のかなしみが これかと ふっと目をばつぶれる。♪~

~♪今日もまた胸に痛みあり。死ぬならば、ふるさとに行ゆきて死なむと思ふ。♪~

~♪あてもなき金などを待つ思ひかな。寝つ起きつして、今日も暮したり。♪~

~♪買ひおきし 薬つきたる朝に来し  友のなさけの為替のかなしさ。♪~

 才能に溢れ、文学を志した少年の眼差しは、いつも空に向かっていました。空を見上げ、心の中で希望を語っていたのだと思います。『一握の砂』では、~♪不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心♪~ と詠いました。しかし、彼は、『悲しき玩具』の中では、
~♪この四五年、空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?♪~
 と嘆きます。貧困と病魔におかされ、空を仰ぎ見ることもなく、夢破れた啄木の死は、わずか26歳での無念の死だったと思います。

  しかし、わずか26歳で彼が到達した高みは、素晴らしいものがあります。
文学面においては、世に出て名声を得ようという野心を遙かに超えて、文学の革新を目ざそうとする立場に到達しています。詩論、『食ふべき詩』をみてみましょう。

 < ・・・餓ゑたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。・・・暇ある時に玩具を弄もてあそぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。・・・
「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要なる自覚が、如何に現在に於て現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつゝあるか。・・・>

  大逆事件で社会主義者が弾圧・処刑される時代の中で、啄木は、社会的不正義や不公平に対し、強い批評と批判をぶつけました。その後の日本の進路を考えるとき、彼が駆け抜け到達した世界と、彼が目ざしたものは、100年後の今でも光を放っています。
では、最後に『呼子と口笛』の詩の一節を引いて、啄木の死を惜しむことにします。
 
 ~♪ はてしなき議論の後
    ・・・・・
   此処にあつまれるものは皆青年なり、
   常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
   われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
   見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
   されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

    ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
   飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
   若き婦人の熱心に変りはなけれど、
   その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
   されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。    ♪~

                 *‘V NAROD!’=「民衆の中へ!」

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2017年3月23日 (木)

八木重吉詩集を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、29歳の若さで夭逝したクリスチャン詩人、八木重吉の場合を考えていきます。

 明治に入り急速に欧米の科学技術や文化を取り入れていった日本。いわゆる欧化政策です。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、志賀直哉など多くの詩人や作家は、キリスト教文化に触れ、大きな影響を受けました。また、自らがクリスチャンとなる詩人や作家も多く出ました。多くの場合、信仰は作品の背後に隠されており、前面に出ることはありません。しかし、八木重吉の場合は、作品の前面に信仰が打ち出されており、神への祈りのような作品が多く残されています。彼にとっては信仰がすべてだったと思われます。その意味で、人々は彼を、「クリスチャン詩人」と呼んでいるのだと思います。

 では、彼の生涯を年譜で概観してみます。
 八木重吉は明治31年、現在の東京都町田市相原町の富裕な農家に生まれました。
 神奈川県師範学校へ進学。19歳で東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学します。ここで文学に目覚め、キリスト教へ入信します。卒業後、兵庫県の御影師範学校に奉職します。この少し前に知り合った島田とみと、遠距離恋愛の末に結婚します。重吉は24歳、とみは18歳、とみの親の反対を押し切っての強引な結婚だったようです。
 二人は、一男一女をもうけ、重吉は詩作に励む生活を送ります。
 大正14年、27歳の時、千葉県立東葛飾中学校に転勤。ここで第一詩集「秋の瞳」を出版します。
 昭和元年、結核第Ⅱ期と診断され、療養生活へと入ります。そのかたわら、第ニ詩集の「貧しき信徒」を自選、編集します。(出版は死後)
 昭和2年10月、熱烈なキリスト教信徒として、29歳の若さで亡くなりました。

 貧困と苦しい闘病生活。彼の精神を支えたのは、神への信仰でした。亡くなる前、わずか3年間に遺された詩や詩稿は、3000篇近いと言われています。その多くは、宗教的心情の吐露や祈りの言葉です。そのいくつかを拾い出してみます。
   ~♪ わからなくなった時は
      耶蘇の名を呼びつづけます
      私はいつもあなたの名を呼んでいたい ♪~

   ~♪ 基督が解決しておいてくれたのです
      ただ彼の中へはいればいい
      彼につれられてゆけばいい   ♪~

  彼の信仰は、一途で純粋なものでした。私のようなクリスチャンでない者から見れば、あまりにも痛々しい感じすらします。
 信仰とは、人間は本来的に罪なる存在であり、欲望に満ちた自分の存在を罪として神の前で悔い改め、神にひざまずき救いを求めることです。彼は、詩を作ることも、たんなる人間的欲望の一つではないかという思いにとらわれるのです。彼は、純粋な神への信仰のためには、他の一切の欲望は断ち切る必要があるのではないかと思い悩むのです。

      ~♪ あるときは
     うたをつくるのさへ悪であるとおもふ
     こんな詩などつくらなければ
     ほんとにわたしのせけん的のよくぼうはなくなる
     そうしたら一挙にわたしのこころは
          きれいになってしまうかもしれぬ     ♪~

      ~♪ わたしが
      詩をすてるとき
            わたしはほんとのひとになれる     ♪~

しかし、彼は詩を捨てることはできません。家族への愛を断ち切ることもできません。信仰と詩、信仰と家庭をどのように統一すればよいか、心は揺れ動きます。

   ~♪  たったひとつの手すさびでありほこりである
      かなしみでありよろこびである
            詩をつくることをすててしまふなら
            あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせかいだもの
            ここにこうして不覚の子は
            歯をくいしばって泣くまいとしてうたをうたふ   ♪~

      ~♪ 裸になってとびだし
      基督のあしもとにひざまずきたい
      しかしわたしには妻と子があります
      すてることができるだけ捨てます
      けれど妻と子をすてることはできない
       ・・・・
      ここに私の詩があります 
      これが私の贖(いけにえ)である
      これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
      これらはわたしの血をあびている
      手をふれることできぬほど淡々しくみえても
      かならずあなたの肺腑へくいさがって涙をながす  ♪~

 詩は、私の贖(いけにえ)であると・・。重吉は、詩と家族、そして神の間で悩み続け、苦しみます。そして、ついに一つの境地に到達するのです。

 ~♪ 詩をつくり詩を発表する
    それもそれが主になったら浅間しいことだ
    私はこれから詩のことは忘れたがいい
    イエスを信じ
    ひとりでに
    イエスの信仰をとおして出たことばを人に伝えたらいい
    それが詩であろう   ・・・・         ♪~

  文学的野心とは無関係、金銭的利益とも関係ない、信仰をとおして心の奥から自然に湧き上がってくる言葉、それこそが詩である・・・。彼は、信仰と詩、家族愛について、ついに真実に到達します。

  ~♪ ほんとうに
     しぜんに詩の生まれる日は
          じぶんみづからがとほとひものになったとおもふ
          いのちがあることがたしかにかんじられる
          みづからが かみのこころの窓となり
          わたしのうたは
          わたしのもつ かみの観念とおなじたかさからながれいづる ♪~

   ~♪ この明るさのなかへ
     ひとつの素朴な琴をおけば
     秋の美しさに耐えかね
     琴はしづかに鳴りいだすだろう   ♪~

 彼は、神の創造物である自然と静かに向き合い、心の中にただ湧き上がる言葉を書き留めました。信仰を通して、心の中に自然に湧き上がる言葉、それこそが詩であるという境地に到達したのです。彼の琴が静かに鳴り始めたのです。自然派詩人八木重吉の誕生です。彼のことを宗教的自然詩人と呼ぶ人もいます。納得の表現です。

  ~♪ 雨がふっている
     いろいろなものをぬらしてゆくらしい
     こうしてうつむいてすわっていると
     雨というものがめのまえにあらわれて
     おまえはそう悪いものではないといってくれそうなきがしてくる ♪~

  ~♪ 雨のおとがきこえる
     雨がふっていたのだ
     あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
     あめがあがるようにしずかに死んでゆこう   ♪~

  神に許された彼が、自然と向き合いながら紡ぎ出す世界は、なんという静謐な世界なのでしょう。
 彼の編んだ詩集、「秋の瞳」、「貧しき信徒」は、宗教的信条とは関係なく、多くの人から愛されることになりました。

  ~♪ 私はくるしい
     私は怖ろしい
     私は自分がたより無い
     私は基督に救ってもらいたい
     それが最後のねがいだ    ♪~

  ~♪ 冨子
     神さまの名を呼ばぬ時は
          お前の名を呼んでいる  ♪~

  昭和2年10月、重吉は、神と家族の名を交互に呼びながら最後の時に向かいます。
 ~危篤が告げられ高熱のなかで十字を切る。キリストの姿を見たしぐさをする・・
 彼の最後の瞬間はこのように伝えられています。
 生活苦の中で29歳の若さで昇天しました。

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2017年3月 3日 (金)

金子 みすゞの死を考える

  夭逝の詩人たちは、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、金子 みすゞの場合を考えてみます。金子 みすゞは、26歳の若さで自死した夭逝の童謡詩人です。

 では最初に、26歳というあまりにも短い人生だった金子みすゞの略歴をまとめてみます。金子みすゞは、明治36(1903)年、山口県の仙崎という小さな港町に生まれました。本名はテル。父の家業は、金子文永堂という小さな書店。二歳年上に兄・堅助、二歳年下に弟・正祐がいました。みすゞが三歳の時、父親が亡くなり家族は大黒柱を失います。翌年、弟の正祐は、子どもの無かった上山文英堂という遠縁の書店に養子に出されます。堅助とみすずは、母ミチにより、女手一つで育てられます。
 封建的家父長制度のもとで、家長を失うという悲しい出来事により、音もなく運命の歯車は回転してゆきます。
 兄・堅助は、尋常小学校卒業後、上の学校へは進まず家業を継ぎます。みすずは、郡内の大津高等女学校へと進学することになります。ここでのみすゞは、明るく成績も優秀だったようです。
 弟・正祐が養子に出されていた上山文英堂では、主人の妻(正祐の義母)が亡くなります。それにより、上山文英堂の主人は、みすゞの母ミチと再婚することになったのです。つまり、母ミチは、自分の子を養子に出した家に後妻として入ったのです。家というものを維持するために、もっとも良い方策だったようです。
 みすゞも女学校卒業後は、この上山文英堂で店番として働きました。やがて、兄・堅助の結婚により、実家を出て上山文英堂に住み込むことになります。
 好きな本に囲まれ、「みすゞ」というペンネームで投稿をしたのもこの時期でした。ここでの生活が創作活動の活発な時期でした。みすずの詩を借りて言えば、まさに「砂の王国」だったのです。
  ~♪ 「砂の王国」
     私はいま
     砂のお国の王様です。
     お山と、谷と、野原と、川を
     思ふ通りに変えてゆきます。
           ・・・・       
     私はいま
     ほんとにえらい王様です   ♪~
 時代は大正デモクラシー。北原白秋、西條八十、野口雨情などが中心となった大正童謡運動が興っていた時代でした。みすゞは、西條八十から高い評価を受け、創作活動を続けました。

 音もなく回転する運命の歯車。養父となった上山文英堂の主人は、みすゞと宮本という店員の結婚話を進めます。家の主の権力が強かった家父長制度。弟・正祐の涙の猛反対にもかかわらず、みすゞは心ならずも宮本と結婚することになります。
 結婚後まもなく、女児をもうけます。しかし、夫は遊郭通いに明け暮れ、家庭を顧みない悪夫。詩作にも理解が無く、詩作ばかりか仲間との文通も禁ずる始末でした。
 詩作を禁じられたみすゞに残されたのは、成長していく子ども。みすゞは、子どもの片言のお喋りの中に、素直で奔放な詩のようなものを感じとっていたのです。みすゞにより記録された子どもの言葉が残されています。
 離婚話が進み、ついに離婚となりましたが、子どもを引き取りたいというみすずの主張は聞き入れられず、ついに子どもまで奪われることになります。
 みすずは心を決め、三通の遺書をしたため、写真館で自分の遺影を撮り、カルモチンという睡眠薬を飲んで、この世を去ることになります。封建的な家父長制度の中で苦しみながら・・・。  26歳の若さでした。

 自ら死を選んだみすゞは、死をどのようにととらえていたのでしょうか?
 それは、作品に残されたものの中から推測するしかありません。
 みすゞの全詩の中から、数編を選んで考えていきたいと思います。

 まず、師である西條八十が、みすずの死を悼み引いた詩、「繭と墓」です。
 「おそらく絶唱といっていい。この謡の気持ちで彼女はあの暗い墓穴に急いだのであろう」と西條八十は書き残しています。
   
   ~♪ 「繭と墓」
   蚕は繭に
   はいります、
   きうくつさうな
   あの繭に。

   けれど蚕は
   うれしかろ、
   蝶々になって
   飛べるのよ。

   人はお墓へ
   はいります、
   暗いさみしい
   あの墓へ。

   そしていい子は
   はねが生え、
   天使になって
   飛べるのよ。   ♪~

  よい子は死んでも天使になって天上に昇ることができる、そのために暗い墓に人は入るのです。アンデルセンなど、西欧のキリスト教思想の影響を受けた、子どもの魂の救済の世界です。彼女も、天に向かって羽ばたけることを夢みていたに違いありません。
  次に、「雪」という詩をみてみましょう。

   ~♪  「雪」
   誰も知らない野の果てで
   青い小鳥が死にました
     さむいさむいくれ方に

   そのなきがらを埋めよとて
   お空は雪を撒きました
     ふかくふかく音もなく

   人は知らねど人里の
   家もおともにたちました
     しろいしろい被衣(かつぎ)着て

   やがてほのぼのあくる朝
   雪はみごとに晴れました
     あおくあおくうつくしく

   ちいさいきれいなたましひの
   神さまのお国へゆくみちを
     ひろくひろくあけようと    ♪~

 誰も知らない野の果てで死んだ青い小鳥。深く音もなく雪がやさしく包んでいきます。人も家も白い衣を着て見送ります。青く晴れた朝、きれいな魂は、神の国へと旅だってゆきます。野の果てに誰にも知られず死んだ自らの魂も、神の国にゆくことができる、彼女の切なる願望であったと思います。

   ~♪ 「木」
   お花が散って
   実が熟れて、

   その実が落ちて
   葉が落ちて、

   それから芽が出て
   花が咲く。

   さうして何べん
   まわったら、
   この木は御用が
   すむか知ら。    ♪~

 御用が終わらないうちに、この世を去ることになった金子みすずさん。
 無事に天の国に着いたでしょうか? あなたの残した詩は、この格差と競争の社会の中で、しっかりと御用を果たしていますよ。ゆっくりお休み下さい。    

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2017年2月19日 (日)

宮澤賢治詩集を読む②

  昭和3年、農業指導で過労状態だった32歳の賢治に病魔が襲いかかります。肺浸潤、急性肺炎です。この時期二年間の療養生活中に書かれた詩群が、「疾中より」です。黒いクロスの表紙に挟んで、直筆の詩が保存されていたそうです。
 肺病を病んだ賢治は、いよいよ迫ってくる死と向き合います。
 この詩人は、何を思いながら死と向き合ったのでしょう。では、「疾中より」を読んでいきましょう。

  ~♪ 〔その恐ろしい黒雲が〕
   その恐ろしい黒雲が
   またわたくしをとらうと来れば
   わたくしは切なく熱くひとりもだえる
   北上の河谷を覆ふ
   あの雨雲と婚すると云ひ
   森と野原をこもごも載せた
   その洪積の大地を恋ふと
   なかばは戯れに人にも寄せ
   なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
   青い山河をさながらに
   じぶんじしんと考へた
   あゝそのことは私を責める
   病の痛みや汗のなか
   それらのうづまく黒雲や
   紺青の地平線が
   またまのあたり近づけば
   わたくしは切なく熱くもだえる
   あゝ父母よ弟よ
   あらゆる恩顧や好意の後に
   どうしてわたくしは
   その恐ろしい黒雲に
   からだを投げることができよう
   あゝ友たちよはるかな友よ
   きみはかゞやく穹窿や
   透明な風 野原や森の
   この恐るべき他の面を知るか  ♪~

 森と野原を載せた洪積層の大地。青い山河。賢治の愛した自然は、今は黒い雲を沸き立たせ襲いかかってきます。「わたくしは切なく熱くもだえる」。「どうしてわたくしは/その恐ろしい黒雲に/からだを投げることができよう」と独白します。
 病魔は、容赦なく賢治を痛めつけます。苦痛の中で、次のような特異な詩も書いています。

   ~♪ 〔丁丁丁丁丁〕
     丁丁丁丁丁
     丁丁丁丁丁
  叩きつけられてゐる 丁
  叩きつけられてゐる 丁
 藻でまっくらな 丁丁丁
 塩の海  丁丁丁丁丁
   熱  丁丁丁丁丁
   熱 熱   丁丁丁
    (尊々殺々殺
     殺々尊々々
     尊々殺々殺
     殺々尊々尊)
 ゲニイめたうとう本音を出した
 やってみろ   丁丁丁
 きさまなんかにまけるかよ
   何か巨きな鳥の影
   ふう    丁丁丁
 海は青じろく明け   丁
 もうもうあがる蒸気のなかに
 香ばしく息づいて泛ぶ
 巨きな花の蕾がある   ♪~

「丁」という文字は、本文とは違う筆記用具で、黒々と書き込まれていたそうです。悪魔ゲニイと闘う斧の音でしょうか。病気の身体的苦痛は、当然のことながら、相当なものだったとうかがえます。

   ~♪ 夜
  これで二時間
  咽喉からの血はとまらない
  おもてはもう人もあるかず
  樹などしづかに息してめぐむ春の夜
    ・・・・
  こんやもうこゝで誰にも見られず
  ひとり死んでもいゝのだと
  いくたびさうも考をきめ
  自分で自分に教へながら
  またなまぬるく
  あたらしい血が湧くたび
  なほほのじろくわたくしはおびえる ♪~

 まもなくやって来る死。賢治はそれを覚悟しながら、ほのじろくおびえるのです。

  ~♪  眼にて云ふ
  だめでせう
  とまりませんな
  がぶがぶ湧いてゐるですからな
  ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
  そこらは青くしんしんとして
  どうも間もなく死にさうです
  けれどもなんといゝ風でせう
  もう清明が近いので
  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
  きれいな風が来るですな
  もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
  秋草のやうな波をたて
  焼痕のある藺草のむしろも青いです
  あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
  黒いフロックコートを召して
  こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
  これで死んでもまづは文句もありません
  血がでてゐるにかゝはらず
  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  たゞどうも血のために
  それを云へないがひどいです
  あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青ぞらと
  すきとほった風ばかりです。    ♪~

  この詩からは、自然科学を学んだ賢治ならではの冷静な自己分析や、青空と透きとおった風の中で悠然と生きようとする賢治の姿勢を感じとることができます。迫り来る死を前に、青空や風を感じるとは、私からすれば、何とも壮絶という感じすらします。

  ~♪ 〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕
   そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう
  わたくしといふのはいったい何だ
  何べん考へなおし読みあさり
  さうともきゝかうも教へられても
  結局まだはっきりしてゐない
  わたくしといふのは             ♪~

  トシの後を追い、トシと共に理想世界を求め続けた賢治ですが、最後の時までその答えを見つけることなく、自問し苦悶しながら世を去ります。
 「疾中より」が書かれた後、一時病状は回復しますが、二年後の昭和8年、37歳の若さで永眠しました。
               ******
  宮沢賢治は、仏教的悟りを得て、安らかな死に至る道を進もうとしたのではありません。彼は、病魔と戦い、苦悶し、壮絶な最後に到りました。
 激しい身体的苦痛の中で、彼を最後まで支えたのは何だったのでしょうか。
 それは、青い空や透きとおった風、流れる雲、賢治の自然への愛であり、また、愛する妹トシへの思いであり、二人が目ざした理想世界だったのではないかと思います。
  今でも賢治は、妹トシと二人で、銀河鉄道に乗って天上への旅を続けていることと思います。
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2017年2月17日 (金)

宮澤賢治詩集を読む①

 今回は、宮澤賢治の「春と修羅」、「疾中より」などを読んでいきます。
 宮澤賢治は人気詩人でファンの方も多いと思います。キリスト教や仏教など、様々な角度からの評論も行われています。
 私は一読者として、「一人の人間として、賢治は死とどのように向き合ったか」という単純なテーマを立てて読んでいきたいと思います。
 「詩人はいかに死と向き合ったか」、これが今年一年の私のテーマですので・・・。 ちょっと荷が重いかな?

  宮澤賢治は生涯で二度、大きな死と向き合いました。一回目は、妹トシの死です。二回目は、もちろん自分自身の死です。今回は、第①回として「トシの死」について考えていきます。
                        *****
  賢治にとって妹トシの死は、最愛の妹を亡くすということにとどまらず、彼の人生に大きな意味を持っていました。それは、その後の彼の人生は、トシの目ざしたものを追い、トシと共に生きた人生だということです。
 では、有名な「永訣の朝」を読みましょう。多くの説明は不要ですね。
 ~♪ 永訣の朝
  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
   ・・・・
  おまへがたべるあめゆきをとらうとして
  わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
  このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
      ・・・・
  ああとし子
  死ぬといふいまごろになつて
  わたくしをいつしやうあかるくするために
  こんなさつぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
  わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
  はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
  おまへはわたくしにたのんだのだ
     ・・・・
  ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
  あああのとざされた病室の
  くらいびやうぶやかやのなかに
  やさしくあをじろく燃えてゐる
  わたくしのけなげないもうとよ
  この雪はどこをえらばうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  あんなおそろしいみだれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    ・・・・
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが天上のアイスクリームになつて
  おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ   ♪~

 「あめゆじゆとてちてけんじや」。賢治は霙の降る中へ飛び出していきます。
  恐ろしい乱れた空からやって来る美しい雪。それは天からの贈り物。

  ~♪ああとし子
    死ぬといふいまごろになつて
    わたくしをいつしやうあかるくするために
    こんなさつぱりした雪のひとわんを
    おまへはわたくしにたのんだのだ♪~

 雪を手にした賢治は、まっすぐに進んでいくことを決意するのです。
    ~♪ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
    わたくしもまつすぐにすすんでいくから♪~
 まっすぐに進むとは、どこへ向かって進むというのでしょうか。
 そのことを、次の「無声慟哭」という詩を読んで確認しましょう。
 
  ~♪  無声慟哭
   こんなにみんなにみまもられながら
   おまへはまだここでくるしまなければならないか
   ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
   また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
   わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
   おまへはじぶんにさだめられたみちを
   ひとりさびしく往かうとするか
   信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
   あかるくつめたい精進しやうじんのみちからかなしくつかれてゐて
   毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
   おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
   ・・・・  ♪~

  ~♪信仰を一つにするたったひとりのみちずれのわたし~♪ つまり、トシと賢治は信仰で深く結ばれ、同じ道を歩もうとしていたみちずれだったのです。
  トシは日本女子大学に学び、ここで帰一教会と出会います。帰一教会とは、仏教、キリスト教、神道などの宗教者同士の相互理解と協力を推進し、新しい指導理念を確立しようとしたものです。賢治は法華経信者として活動していましたが、トシの影響を受け、法華経を乗り越えたより高い精神的理想を目ざそうとしていたと思われます。
 名作「銀河鉄道の夜」にも、賢治の目ざした理想をみることができます。銀河鉄道の夜の最終場面、ジョバンニとカンパネルラの二人の別れの場面で、ジョバンニはカンパネルラに呼びかけます。「…きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
 しかし、この後カンパネルラはいつの間にか姿を消し、ジョバンニは天上への切符を手に夢から覚めるのです。「みんなのほんとうのしあわせ」。これこそが二人が求めた最上の理想なのです。一つの宗教に限定されない宇宙的視野の理想世界です。
 トシを亡くした賢治は、樺太旅行へと出かけますが、それは、トシの影を追う鎮魂の旅でした。この旅の中で書かれた詩の中にも、トシの後を追う賢治の姿勢や二人の求めた理想を読み取ることができます。
 
   ~♪ 青森挽歌
    ・・・・
   あいつはこんなさびしい停車場を
   たつたひとりで通つていつたらうか
   どこへ行くともわからないその方向を
   どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
   たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
        ・・・・
    《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
   ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
   あいつがなくなつてからあとのよるひる
   わたくしはただの一どたりと
   あいつだけがいいとこに行けばいいと
   さういのりはしなかつたとおもひます
        ・・・・                  ~♪ 

 トシの影を追いながら、理想世界を目ざした賢治。次回は、賢治がどのように死に向き合ったかについて考えます。 (つづく)

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2017年2月 4日 (土)

高見順著「死の淵より」を読む③

  退院後に書かれた詩や入院中のメモを整理して書かれたⅢ部を読んでいきます。

 高見さんは、自分の心の中にいるもう一人の自分に激しく問いかけます。もう一人の自分は、果たして敵なのか味方なのか・・・。
  「過去の空間」という詩では、自らの人生で繰り広げられた過去の宴は、いったい何だったのか、もう一人の自分を激しく問いつめます。死によって「過去の空間」は、すべて失われ、否定されていくものなのか、それとも残り続けるのか・・・。

  ~♪ 「過去の空間」
    ・・・・
  その楽しさはすでに過去のものだ
  しかし時間が人とともに消え去っても
  過去が今なお空間として存在している
  私という存在のほかに私の人生が存在するように

  楽しそうでほんとは惨憺たる過去の景色を
  君は私の味方として私に見せまいとするのか
  それとも私の敵として過去の楽しさすら拒みたいのか
  君は私の過去とは別に存在する私の作品なのか 
                     ・・・♪~
  
  しかし、いくら問いかけても結論はありません。時間だけが過ぎてゆきます。
 迫ってくる最後の時間。時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる・・・。
  ~♪ 手ですくった砂が
    痩せ細った指のすきまから洩れるように
    時間がざらざらと私からこぼれる
    残りすくない大事な時間が
            ・・・・
        景色は次第に夕闇に包まれて行く
    砂上に書かれた文字が崩れるように
    すべての盃も姿を消して行き
    時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる  ♪~

  心の中のもう一人の自分と、激しく対立する高見さん。その対立も、「おれの食道に」で、ようやく終息し、和解へと進んでいきます。「おれの食道に」という詩の全文を一気にみてみましょう。

 ~♪     「おれの食道に」
  おれの食道に
  ガンをうえつけたやつは誰だ
  おれをこの世にうえつけたやつ
  父なる男とおれは会ったことがない
  死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった
  そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らないのも当然か
  きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない
  最大の敵だ その敵は誰だ

  おれは一生の間おれ自身をおれの敵としてきた
  おれはおれにとってもっとも憎むべき敵であり
  もっとも戦うに値する敵であり
  常に攻撃しつづけていたい敵であり
  いくらやっつけてもやっつけきれない敵であった
  倒しても倒しても刃向ってくる敵でもあった
  その最大の敵がおれに最後の復讐をこころみるべく
  おれにガンをうえつけたのか

  おれがおれを敵として攻撃しつづけたのは
  敵としてのおれがおれにとって一番攻撃しやすい敵だったからだ
  どんな敵よりも攻撃するのに便利な敵だった
  おれにはもっともいじめやすい敵であった
  手ごたえがありしかも弱い敵だった
  弱いくせに決して降参しない敵だった
  どんなに打ちのめしても立ち直ってくるのはおれの敵がおれ自身だったからだ
  チェーホフにとって彼の血が彼の敵だったように

  アントン・チェーホフの内部に流れている祖先の農奴の血を彼は呪った
  鞭でいくらぶちのめされても反抗することをしない
  反抗を知らない卑屈な農奴の血から
  チェーホフは一生をかけてのがれたいと書いた
  おれもおれの血からのがれたかった
  おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった
  おれはおれ自身からのがれたかった
  おれがおれを敵としたのはそのためだった

  おれは今ガンに倒れ無念やる方ない
  しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない
  おれはもう充分戦ってきた
  内部の敵たるおれ自身と戦うとともに
  外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた
  だから今おれはもう戦い疲れたというのではない
  おれはこの人生を精一杯生きてきた
  おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

  兇暴だったにせよ だから愚かだったにもせよ
  一所懸命に生きてきたおれを
  今はそのまま静かに認めてやりたいのだ
  あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ
  あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う
  それにもっと早く気づくべきだったが
  気づくにはやはり今日までの時間が
  あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

  敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと
  あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと
  こで悔いるのでない
  おれ自身を絶えず敵としてきたための
  おれの人生のこの充実だったとも思う
  充実感が今おれに自己肯定を与える
  おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ
  すなわちこのおれはおれとして死ぬほかはない

  庭の樹木を見よ 松は松
  桜は桜であるようにおれはおれなのだ
  おれはおれ以外の者として生きられはしなかったのだ
  おれなりに生きてきたおれは
  樹木に自己嫌悪はないように
  おれとしておれなりに死んで行くことに満足する
  おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
  安らかにおまえは眼をつぶるがいい           ~♪

 祖先の農奴の血を呪ったアントン・チェーホフのように、私生児という自らの出自と闘ってきた高見さん。
 ~♪おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった/おれはおれ自身からのがれたかった/おれがおれを敵としたのはそのためだった ♪~

  死という絶体絶命の立場に追い込まれた高見さん。自己の中の激しい対立は、やがて和解へと向かいます。
  ~♪ 敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと/あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと・・・♪~
 ~♪ おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
    安らかにおまえは眼をつぶるがいい ♪~

 ついに、高見さんは心の中の葛藤を乗り越え、ありのままの自分を取り戻し、「おれとしておれなりに死んで行くこと」を決意するのです。
 Ⅲ部の最後に掲げられた詩を読みましょう。自宅の庭を見ながら作られた詩です。天が静かに手の届きそうな近くに降りてきています。
 この詩を読みながらこの本を閉じたいと思います。

 ~♪    「 庭を見ながら」
  草の一
天が今日は実に近い 手のとどきそうな近さだ 草もそれを知っている だから謙虚に葉末を垂らしている
  草の二
 光よ
  山へのぼって探しに行けぬ
  光よ
  草の葉の間にいてはくれぬか
    草の三
 私はいま前後左右すべて生命にかこまれている 庭はなみなみと生命にみちあふれている 鳥の水あびのように私はいま草上で生命のゆあみをする
                   *****
 高見さんは、安らかな死とは「自分との和解」の上に成り立つものであると、教えてくれたように思います。たとえ矛盾や挫折をかかえた自分であるとしても、あるがままの自分を受け入れ、自らを優しく肯定する、つまり自分との和解です。人は、時には喜び、時には重荷を背負い、苦しみ、悩み、不十分にしか生きられません。その不十分さを許し、あるがままの自分を受け入れ和解する、それが安らかな死なのです。
 高見さん、ありがとうございました。

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