闘病記

2017年5月22日 (月)

定期診察(131)・2回目の輸血

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日2錠だったロキソニンが3錠に近づいています。つまり1錠で12時間もたないです。
 貧血症状も相変わらずです。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.6でした。
   前回より0.4増加です。しかし、息切れなどの貧血症状は酷くなっています。
      ということで、今回は2回目の輸血決定。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
      やはり再度の骨髄検査が必要という判断に。次回の予定ですが、その前に
   白血病のマーカー検査(?)をしてから判断するとのことです。
   検査の説明がありましたが、記憶が定かでないです。     記憶力低下?
    「T2??・・タンパク質の量を調べる?・・・・検査。・・・?」
      貧血は認知症を引き起こす? あり得るかも?  最近、言葉が出てこない!

    ★血小板数は、いよいよ一桁の9万/μlに減少です。

  ★貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。

 中央処置室という部屋で輸血を受けたのですが、輸血や点滴のためにやって来る患者の声、看護師さんの指示する声、器具の音。何か夢の中にいるようで、騒音を子守歌に少し寝られました。軽くて小さい本を用意していましたが、今回も無駄になりました。
                        では。また。

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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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2017年5月 8日 (月)

定期診察(130)・今のまま様子を

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは今回も電車で向かいました。貧血症状は酷いものの、前回より少しマシでした。輸血効果がまだ残っているようです。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日1錠で済んでいたロキソニンが、最近では2錠に増えました。ロキソニンを財布の中に常備しているという状態です。

 今日の診察は、私にとって少々決意をもって臨みました。前回、医師より入院を勧められ、おまけに、「発熱と骨の痛みについて、白血病への転化や骨髄の癌化の可能性が考えられるので、近く骨髄の検査をもう一度やりましょう。」という発言もありました。検査の日取りが決められ、検査の結果、もし異常があれば、極めて私の命の期限は限られてしまうことになります。何となく気が重くて、決意のいる診察でした。判決を待つ被告の心境ですね。判決を受けたことは無いですが…。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.2でした。
   「これなら、今日予約していた輸血は中止にします。」
   ということで、輸血の予約は次回に延ばすことに。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
       「ロキソニンで痛みを抑えて、このまま様子をみましょう。」でした。

   アレレレ!?  前回とは打って変わったこの緊迫感の無さ!?

   「痛みの間隔も狭くなり、ロキソニンの量も増えているのですが……?
          検査の予定などは?・・・」
   「直近に白血病の検査はしているし、……。しばらくこのまま様子をみる
      ということで、検査は急がなくてもいいと思いますよ。」

 以上のように、このまま様子をみるというのが結論です。
  貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。
 今日の輸血は次回に延期で、輸血に備えて片手で読める、軽くて小さい本を用意していましたが無駄になりました。
 決意をもって診察に臨んだのですが、空振りに終わりましたね。ちょっとホッとしたという気持ちもあります。主治医と患者の間に壁を感じる診察でした。
 痛みと貧血に悩まされる日々は、このまま続きます。
  では。また。

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2017年5月 1日 (月)

中原中也の詩を読む

  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか、今回は中原中也をみていきます。夭逝の詩人から中原中也を外すことはできませんね。
 中原中也の詩は、中学校や高校の教科書でもよく取り扱われていて、近代詩への入り口となっています。若い人の中にファンも多いですね。詩人や研究者の方の評論もたくさん出されています。今更、一読者である素人が、稚拙な何かを言うのも畏れ多いことですが、それはそれで、素人なりに思ったままをズバリと書いてみます。 我流「中也」論。

 まず、年譜により、彼の生涯の概略を確認してみます。
★1907年(明治40年)
 山口で生まれる。父は軍医で、後に中原医院を開く。
★1923年(大正12年):16歳
 文学熱が高じ、怠学により落第。家族で協議の結果、京都の立命館中学に転校。
  京都で長谷川泰子と同棲。詩や小説に没頭する。
★1925年(大正14年):18歳
  長谷川泰子と共に上京。東京での詩作の日々が始まる。
 小林秀雄、高橋新吉、草野心平、河上徹太郎、萩原朔太郎らと交流。
★1933年(昭和8年):26歳
  遠縁の上野孝子と結婚。
  翌年、長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版。詩人としての評価も高まる。
★1936年(昭和11年):29歳
  長男文也、小児結核で死去。
★1937年(昭和12年):30歳
  「在りし日の歌」の原稿完成。結核性脳膜炎で死去。

 中也の実家は医者で、裕福な家庭の出身です。その後、彼は一生実家から援助を受け続け、生活のためにあくせく働き、世間に揉まれて生きることもありませんでした。17歳で女と同棲を始めたりして、世間一般からみれば、文学に狂った放蕩息子という感じです。逆に、良く言えば、あくせくせす純粋に詩に没頭した詩人だったといえます。
 中也にとって詩人とは、生活のためにあくせくと雑事に追われる世俗とは一線を画した、精神的特権階級だったと思います。そのため、彼は世間を高みから傍観したり、世間にとけ込めない孤独感を感じていたと思われます。「正午」という詩ををみてみましょう。
  ~♪ 「正午 ~丸ビル風景~」      (在りし日の歌)
   あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
   ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
   あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
   空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
   ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
   なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
    ・・・・
   空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな   ♪~

 この詩は、高みから世間を見下ろす中也の視点や彼の持つ孤立感、漂泊感の溢れた詩です。 次に、「倦怠」という詩をみてみましょう。
  ~♪ 「倦怠」        (生前発表詩篇)
   倦怠の谷間に落つる
   この真ッ白い光は、
   私の心を悲しませ、
   私の心を苦しくする。
    ・・・・
   たちまちにそれは心を石と化し
   人はただ寝ころぶより仕方もないのだ
   同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
   悔いながらにかぞえなければならないのだ。
    ・・・・              ♪~

 世間や外界に対して果たされずに過ぎる義務の数々。世間からの孤立感が、彼にもたらしたものは「倦怠」です。彼の詩の中に流れる主要なテーマの一つが、「倦怠」です。
 彼は、世俗との抵抗しがたい苦闘の中で、どうしようもない倦怠感を抱いていたのです。家計を営む生活者ではない、霞を喰って生きるような詩人の負い目でしょうか。
 実家に金銭的に頼らねばならない負い目、成功できない負い目、彼にとって故郷もまた、閉ざされていました。「帰郷」と「黄昏」という詩をみてみましょう。
   ~♪ 「帰郷」        (山羊の歌)
   ・・・・
  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ     ♪~

  ~♪ 「黄昏」          (山羊の歌)
   ・・・・
  なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
  草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
  畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

  ――つひに私は耕やさうとは思はない!
  ぢいつとぼんやり黄昏の中に立つて、
  なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 何も成し遂げられない自分。父親に対する負い目。彼にとって過去とは、疲れたような懐かしさや後悔の堆積する空間でした。よく知られた「頑是ない歌」でも、~♪思へば遠く来たもんだ/ 十二の冬のあの夕べ/ 港の空に鳴り響いた/ 汽笛の湯気は今いづこ・・・・と、過ぎ去った過去を後悔の念と漂泊感を滲ませながら詠います。
 このように、彼の心は、周囲に対しても過去に対しても閉ざされていました。彼は、この心の閉鎖空間の中で、「悲しみ」を詠いました。彼の詩の中に流れる主要なテーマの二つ目が、「悲しみ」です。よく知られた詩、「汚れつちまつた悲しみに……」を読みましょう。
  ~♪「汚れつちまつた悲しみに……」   (山羊の歌)
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

   汚れつちまつた悲しみは
   たとへば狐の革裘
   汚れつちまつた悲しみは
   小雪のかかつてちぢこまる

   汚れつちまつた悲しみは
   なにのぞむなくねがふなく
   汚れつちまつた悲しみは
   倦怠のうちに死を夢む

   汚れつちまつた悲しみに
   いたいたしくも怖気づき
   汚れつちまつた悲しみに
   なすところもなく日は暮れる……      ♪~

 「倦怠のうちに死を夢む」。いったいこの悲しみは、どんな悲しみなのでしょうか。どんな汚れなのでしょうか。誰が汚したのしょうか。「なすところもなく日は暮れる……」。すべては受身形の悲しみです。彼の悲しみは、閉ざされた心の中を漂うばかりです。
 また、彼の心は、未来に対しても閉ざされていました。「わが半生」をみてみます。
   ~♪ 「わが半生」        (在りし日の歌)
      ・・・・ 
   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。       ~♪

 出口の無い閉ざされた心の中の「悲しみ」と「倦怠」。過去、未来、周囲、すべての方向に閉ざされた心の世界で、彼は心の中にもう一人の自分であるピエロを住まわせることにより、心のバランスをとり自らの心を慰めていたと思われます。
  ~♪ 「幻影」        (在りし日の歌)
   私の頭の中には、いつの頃からか、
   薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
   それは、紗の服なんかを着込んで、
   そして、月光を浴びてゐるのでした。
         ・・・・    ♪~

   ~♪ 「骨」
   ホラホラ、これが僕の骨だ、
   生きてゐた時の苦労にみちた
   あのけがらはしい肉を破つて、
   しらじらと雨に洗はれ、
   ヌックと出た、骨の尖さき。
        ・・・・
      故郷ふるさとの小川のへりに、
   半ばは枯れた草に立つて、
   見てゐるのは、――僕?
   恰度立札ほどの高さに、
   骨はしらじらととんがつてゐる。    ♪~

 離人症に罹ったかのように心を分離させ、もう一人の自分であるピエロを心の中に住まわせ、故郷に骨となって立ち尽くしている自分自身を見た詩人。閉ざされた心の中で、「悲しみ」と「倦怠」を詠った詩人。中原中也は、昭和12年、わずか30歳の若さでこの世を去りました。

 昭和12年といえば、廬溝橋事件。日本は戦争の時代へと突入していきます。多くの詩人は大政翼賛へと転向していきました。そんな時代の中で、社会に対し心の扉を閉ざし、自己を心の閉鎖空間の中に沈潜させていった若者・中原中也は生きていたのです。
 今また、中也の詩が若者の心をとらえているといいます。就活競争。非正規労働。個がバラバラにされる競争社会。自己責任社会。青春に挫折し、心を病む若者がいる限り、中也の詩は今後も読み継がれていくと思います。
 では、最後に彼の「志」を微かに感じさせる詩で、締めくくりたいと思います。
  ~♪ 「月夜の浜辺」
   月夜の晩に、ボタンが一つ
   波打際に、落ちてゐた。

   それを拾つて、役立てようと
   僕は思つたわけでもないが
   なぜだかそれを捨てるに忍びず
   僕はそれを、袂に入れた。
        ・・・・
   月夜の晩に、拾つたボタンは
   どうしてそれが、捨てられようか?    ♪~

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2017年4月28日 (金)

故郷の父母の墓参り

 先日の定期診察は、私にとっては、ちょっと重要な意味がありました。
 まず、初めて輸血をうけました。輸血前がHb=5.6という状態だったため、輸血後は急に貧血症状が良くなったように思われました。
  毎日必ず発熱して体の骨が痛み出し、歩行も困難という症状について、私はものすごく異常性を感じていましたが、そのことについて医師の言葉がありました。
  「白血病への転化又は、骨髄のがん(骨髄腫)の可能性!」
  検査はこれからですが、もしこのことが正しければ、私に残された時間は極めて限られていることは明らかです。まあ、そうでなくても限られているんですけどね…。
 現時点では、輸血で貧血が少し改善し、骨の痛みは痛み止めで抑えることができています。この機会を逃すことはないですね。体が動ける間に父母の墓参りに行かねば・・・・。善は急げです。

  昨日、思い切って車で故郷、丹後半島を目ざしました。故郷の風景や親類、墓の中の父や母に最後のお別れを言うつもりです。

 人には、人それぞれに故郷があります。
 中原中也の「帰郷」では、挫折感と漂泊感を滲ませ次のように歌います。
   ~♪ ・・・・
      これが私の故里だ
      さやかにも風も吹いている
      ・・・・
      ああ おまえはなにをして来たのだと・・・・
      吹き来る風が私に云う       ♪~

 室尾犀星の「小景異情」は有名ですね。
   ~♪ ふるさとは遠きにありて思うもの
      そして悲しくうたうもの
            ・・・・                   ♪~

 井上靖は散文詩「ふるさと」の中で、~♪私の最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。
 ”ふるさと”はまことに”ちちははの国”なのである。
 ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。♪~  と詠っています。

 私の場合は、井上靖氏の「ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。」に大いに共感します。
 私は6人兄弟の末っ子だっために、多くの兄弟にまぎれて親孝行など考えたこともなかったです。初めての給料で親に何かプレゼントしたでしょうか。していません。親の誕生日なども意識したことはないです。母の日も…。親の愛を受け取るだけ受け取って、お返しは無しです。両親は何を思っていたのでしょう。考えると情けない気分です。

 昼頃海岸に到着しました。
 石室古墳がある岬の上では、ハマダイコンが出迎えてくれました。
 眼下に見えるのが「立岩」。海岸に立つ故郷のランドマークです。
 犬ヶ岬。三角形の岩が特徴的。子どものころからの見慣れた目印。
 墓に到着。花と線香を供えてお祈り。目を閉じて、脳裏に浮かぶ父と母に対面。
 この後、実家に寄り食事を頂きました。
Tango01Tango02Tango03  

 

 

 
   

 

 Tango04_2
  出発の時、町はずれの浜に夕日が沈みます。
  懺悔の一日は静かに終わっていきます。
  私は、父と母から許されたのでしょうか? 
  脳裏に浮かんだ父と   母は何故か無言。
  吹き去る風は何も云ってはくれません。

 

   ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの」。なのでしょうか?
ただ、後悔…。懺悔…。

 体の疲労度から言えば、かなり無謀な計画でした。   では。また。

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2017年4月24日 (月)

定期診察(129)・輸血初体験

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは、今回も電車で向かいました。貧血症状が酷いので、駅の階段、病院へ向かう坂道など、ほとんど山登り状態でした。
 前回より、貧血症状はますます進んできました。指先が白くなりピリピリと痛みがあることがよくあります。体をちょっと動かしただけで、口で息をしてしまいます。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンは、Hb=5.6でした。輸血必要ラインをかなり割ってしまいました。問診、触診の後、主治医の発した言葉は予想していませんでした。
   「入院してもらえますか?」
 輸血は覚悟していましたが入院とは!!  驚いて口ごもってしまいました。
 自分が何を話したのかよく自覚しないまま、話しの成り行きとして結論は、入院ではなく、外来で対応することになりました。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについて、さりげない言葉がありました。さりげなく聞いていましたが、後で考えると重要でした。
 「発熱と骨の痛みについて、白血病への転化や骨髄の癌化の可能性が考えられるので、近く骨髄の検査をもう一度やりましょう。」
 主治医が入院と言ったのは、これらの検査を含めて、「入院」という話しの流れであることが、後で冷静になって考えて分かりました。
 予期せぬことを言われると人は動揺しますね。
 積極的に入院に同意すればよかったのかな?
 しかし、他の病気への転化が分かったとしても、治療法は確立していないので、予後は大して変わらないと思いますね。
 いよいよ病気も大詰めという感じですかね。

     ★貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠に減量です。

  【輸血初体験】
   予期していたとおり、輸血をしました。赤血球の成分輸血です。
 ☆主治医より、輸血による副作用の説明がありました。
  B・C型肝炎、エイズ、溶血反応、アレルギー・・など。数万回に1回の確率。
    発熱とじんま疹は、よくある副作用だそうです。などなど。 うわの空?
  同意書に署名しました。
 ☆三ヶ月後に、感染症の検査があるそうです。
 ☆輸血のための採血検査がありました。結果が出るまで待たされました。
 ☆輸血の点滴は、2時間ほどで終了しました。何もすることが無くもの凄く暇。
 ☆体の方は劇的に楽になりました。帰りはスタコラ電車で帰りました。
  駅の階段の息切れ感から推測すると、たぶんHb=7くらいに回復したかな?
  その後体調の変化は無しです。     
                   では。また。

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2017年4月17日 (月)

山村暮鳥の詩を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回の夭逝詩人は、山村暮鳥をとり上げてみます。
 山村暮鳥を知らない日本人は少ないと思います。私と同世代の人は、名前くらいは必ず知っています。小学校の国語の教科書に、次の詩が取り上げられていました。
 ~♪ 「風景」
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ   ⇒☆
いちめんのなのはな

二連目の☆の部分では、「 ひばりのおしやべり」
三連目の☆の部分では、「 やめるはひるのつき」と少し変化するだけ。
 視覚的効果もねらった詩です。広々とした菜の花畑に、かすかな麦笛の音、ひばりの囀り、空には薄白く昼の月。静かな広がりの中にくっきりとした動的添景表現ですね。

  また、彼の最後の詩集『雲』もよく知られています。二つばかり紹介します。
   ~♪ 「雲」
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる       ♪~

 ~♪ 「雲」
おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか  ♪~

 山村暮鳥は、キリスト教の伝道師でした。「いちめんのなのはな」と詩集『雲』のイメージから、暮鳥は、信仰深いクリスチャンで、自然を愛する自然派詩人と思っている人もいると思いますが、それは少し違います。
 では、彼の生涯を年譜で概観しながら、作品を確認していきましょう。

 ★1884年 明治17年
  群馬県生れ。本名は土田八九十(つちだ・はつくじゅう)。複雑で貧しい家庭に生まれ、小作農の働き手をはじめとして、様々な職業を転々とながら底辺生活を送る。
  ★1903年 19歳
 東京府築地の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。 ひそかに詩を作り始める。
  ★1910年 26歳
 自由詩社同人となり、官能謳歌的詩を発表し、上級牧師より警告を受ける。
  ★1913年 30歳
 愛欲的傾向の『三人の処女』発表。萩原朔太郎、室生犀星らと「人魚詩社」設立。
  ★1915年  32歳
 詩集『聖三稜玻璃』を出版。極端な象徴派的な異色の詩。悪評を受ける。
  ★1918年  35歳
 この年、結核のため喀血する。詩風は一変し、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な傾向を強める。 『風は草木にささやいた』を発表。 
 翌年、結核のため伝道師を休職。
  ★1922年 39歳
 神を糾弾する『梢の巣にて』を刊行。
  ★1924年  40歳
 茨城県大洗町で死去。『雲』を編集。(死後一年後に出版)

 山村暮鳥はキリスト教の伝道師でありながら、彼の詩は、信仰とかけ離れた人間的欲望に根ざしたものでした。上級牧師より警告を受けたり、敬虔な信者から反発されたりしてトラブルにもなりました。詩集『聖三稜玻璃』からほんの少し一節を。
 ~♪ 「囈語」           *囈語 ←うわごと
 ・・・・
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。  ♪~

  人間の犯罪とそれから直感される言葉を並べた言葉遊びです。姦淫、殺人、墮胎……、いくら言葉遊びでも、聖職者としてこれはちょっとアウトでしょう。
 その後、暮鳥は作風を一変。今度は、自然と人間への賛歌を歌いあげる人間主義・人道主義というべき作風へと変化します。『風は草木にささやいた』より、一つだけ紹介してみます。大地と人間への賛歌です。
 ~♪ 「此處で人間は大きくなるのだ」
とつとつと脈うつ大地
その上で農夫はなにかかんがへる
此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか
雨あがり
しつとりとしめつた大地の感觸
あまりに大きな此の幸福
どつしりとからだも太れ
見ろ
なんといふ豐富さだ
此の青青とした穀物畑
このふつくりとした畝畝
このひろびろとしたところで人間は大きくなるのだ
おお脈うち脈うつ大地の健康
大槌で打つやうな美である      ♪~

 やがて、結核のため伝道師を休職します。そして、彼は神との訣別、神を糾弾する詩集『梢の巣にて』を発表します。この中の長編詩『荘厳なる苦悩者の頌栄』の一節を書き出してみましょう。
 ~♪ 荘厳なる苦悩者の頌栄
 ・・・・
神様
人間は自主です
もうあなたの奴隷ではありません
此の貴い崇高い力のうへに立つた人間
御覧ください
この人間のかゞやかしさを
光りかゞやく人間を
まるで神様です
 ・・・・
人間はめざめました
あなたはもう消えてなくならなければなりません
けれど神様
真のあなたである神様
理想としての神様
それをわたしはわれわれ人間にみつけました
眼ざめた人間がそれです
あなたに咀はれた此の大地を
ともかくも楽園とした人間です
その人間です
おゝ新しい神様                 ♪~

 神に呪われたこの大地を、ともかくも楽園としたのは人間であると…。もうかなり言いたい放題ですね。
 クリスチャン詩人八木重吉は、神に付き従うことにより、信仰と詩の矛盾を統一し、「宗教的自然派詩人」となりました。
 暮鳥は逆に、神を捨てるることにより、自然賛歌・人道主義へと到達したのです。詩集『雲』の世界は、信仰と人間主義を彼なりに統一した世界と言えます。彼は神から自立し、静かで心安らかな世界に到達したのです。
 人間派・自然派詩人、暮鳥の最後の詩集『雲』より、2つばかり紹介します。
  ~♪ 「ある時」
宗教などといふものは
もとよりないのだ
ひよろりと
天をさした一本の紫苑よ     ♪~

    ~♪ 「ある時」
またひぐらしのなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ           ♪~

 神から自立し、ひょろりと天をさした一本の紫苑。山村暮鳥はカナカナの声を聞きながら、どこかにあるいい国へと旅立ちました。 40歳でした。

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2017年4月10日 (月)

定期診察(128)・病気の最終状態は?

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは、今回も電車で向かいました。貧血症状が酷いので本当に大変。泣きたくなるくらいです。タクシーにするのは、宇治、伏見方面の交通渋滞がひどく、時間が読めないです。血液検査に遅刻しそうです。可能な限り電車使用です。2週間ごとの修行ですね。しかし、もうかなり限界です。
 電車の中では、真新しい制服の高校生が目につきました。いいですね~♪

 さて、最近の症状は、前回と比べて貧血症状がすすみました。自宅の二階へ上がるのも、息切れ、足のだるさ、軽い頭痛です。

 診察結果です。
 ★ヘモグロビンは、Hb=6.2でした。前回より0.4も減少です。当然に輸血の話しが出ましたが、6.0を切るまでは先送りをするという結論になりました。医学的にみて、できることなら輸血は避ける方がよい、という見解に賛同しました。しかし、つらい。

 ★血小板は11万/μlのまま横ばいでした。CRPとLDHも横ばい。ジャカビは、効いているのかな? ウーン。
 ★貧血がひどいので、ジャカビは、現状のまま一日3錠です。

  【病気の最終状態は?】
 今回もまた、病気の最終状態について質問してみました。
 私の症状として、毎日のように夕方になると発熱が始まり、足の骨、背中や胸の骨が痛み出します。発熱は38℃~39℃。ほとんど歩行不能状態になります。ロキソニンで何とか治まりますが、もしこの状態が終日におよべば、これはもう地獄(ちょっと大げさか?)ですね。最終的には、緩和ケアのある病院に移る必要があるのか心配になります。
  そこで質問を切り出してみました。
 「この痛みがどんどん酷くなって、モルヒネとか必要になってきますか? この病気の最後は、痛みとの闘いになりますか?」
  「それはないです。この病気の最後は『ショウ??』です。」
 医師の言葉を聞き漏らしました。たぶん『ショウモウ』と言ったような気がしました。思わず、「エッ!!」という声が出てしまいました。
 「体がだるくなって、どうしようもなくなる状態です。・・・白血病に移行する人もいるし、肺炎を起こす人もいるし、人によってそれぞれ様々ですが・・・。」
  と言うことです。どうやら、この痛みがどんどん強くなって最後を迎えるということは無さそうです。私は痛みは苦手なのでちょっと安心かも・・・。しかし、この得体の知れない『消耗』とやらで死ぬのもどんなものなんでしょうね。
 『消耗(?)』という言い方があるのには、ちょっと驚きました。
 考えると、ちょっと消耗する質問でしたね。

  帰りも電車で帰りました。時間は十分あるので、トボトボ歩きです。
 しかし、ゆっくりと歩いていると、今まで気付かなかったものに気付きます。
  白い綿毛をつけたオニタビラコやハルノノゲシ。道端のコンクリートの割れ目に、たくましく精一杯咲いていました。   では。 また。

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2017年3月31日 (金)

石川啄木詩集・歌集を読む

  夭逝の詩人は、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、わずか26歳の若さで世を去った天才歌人・詩人、石川啄木についてみていきます。

 ~♪ 東海の小島の磯の白砂に  われ泣きぬれて  蟹とたはむる ♪~

  ~♪ 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日  ♪~

  ~♪ はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る ♪~

  「一握の砂」に収められたこれらの歌は、日本人のほとんどが知っています。私たちの知る石川啄木は、どのように誕生したのでしょうか。年譜を概観してみましょう。

★石川啄木は、1886年(明治19年)に、岩手県(現、盛岡市)で、寺の住職の子として生まれます。優秀な少年時代だったようです。
★1902年 明治35年 満16歳
   学校で不正行為(カンニング)があったとして処分を受け、盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく渋民村を出ます。文学的野心に満ちて故郷を出発です。
★1905年 明治38年 満19歳
  文語定型詩で書かれた処女詩集『あこがれ』を発行。これは、現代の私たちには、少々読みづらいです。節子と結婚し、盛岡市に新居を構えます。
  翌年には、 渋民小学校で代用教員として働きます。
★1907年 明治40年 満21歳
 北海道に渡り、函館 、釧路などの地で、代用教員、新聞記者、校正係などとして働きます。
★1908年 明治41年 満22歳
  「文学的運命を極度まで試験する決心」(日記)。ついに文学的野心に燃えて、家族を北海道に残したまま上京します。小説を書き、売り込みを図るも失敗。貧困のどん底へと落ちます。挫折です。
 挫折の中で歌を詠み雑誌に発表し、これが高く評価されることになります。
★1909年 明治42年 満23歳
 朝日新聞社校正係の職も得て、家族を迎え二階二間の間借り生活を始めます。
★ 1910年 明治43年 満24歳
  『一握の砂』を刊行。 長男真一死去。
   大逆事件発生。幸徳秋水等死刑。これに抗議し社会主義的傾向を一層強めます。
★1911年 明治44年 満25歳
   慢性腹膜炎と診断され入院。さらに肺尖カタルにおかされ病魔は進行。
 母カツも病魔におかされます。
★1912年 明治45年 満26歳
  3月、母カツ結核で死去。
 4月、本人も危篤。最後をみとったのは、妻節子、父一禎と友人の若山牧水でした。

  年譜により、石川啄木の作品の全体像を整理すると、次のようになります。
  まず、歌については、次の二集です。
      22歳~23歳:『一握の砂』   24歳~26歳:『悲しき玩具』
  次に、詩人としての石川啄木の作品は、次のように整理できます。
      17歳~18歳:詩集『あこがれ』 19歳~24歳:『あこがれ』以後の作品群。
      24歳~:社会主義的な傾向滲ませた『呼子と口笛』

  結局、私たちが『一握の砂』で知っている石川啄木は、22歳~23歳の頃の啄木ということになります。
  闘病中の心情を知るには、24歳~26歳の『悲しき玩具』を読めばよいということになります。

 啄木は、文学的才能にあふれ、また文学的野心を持ち文学界に挑みますが、その収入で家族を養うことはできず、貧困のどん底で喘ぎます。容赦なく病魔が襲い、ついに26歳の若さで他界したのです。
 彼は、凄まじい生活苦と病魔にどのように向き合ったのでしょう。最後に書かれた日記を見てみましょう。

  <日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。・・・・>

  啄木を見舞った友人、金田一京助は、後に次のように書き記しています。 
    <上ってすぐ隔ての襖をあけると、仰向けに此方を向いて寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容が来て、面がわりしたのに先ず吐胸を突かれたが、同時に、洞穴があいたように、ぱくりと其の口と目と鼻孔が開いて、『たのむ!』と、大きなかすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。私は死霊にでも逢ったよう、膝が泳いで、のめるようにそこへ坐ったばかり、いう所の言葉を知らなかった。
 あの際に、何と言って上げるのが一等よかったろうか、私には今でもよいことばがわからない。・・・>

 金田一京助が、「いう所の言葉を知らない」と言うような貧困生活と闘病生活。その中で詠まれた歌を『悲しき玩具』から拾って鑑賞していきましょう。歌については、何の説明も必要ないと思います。ただ啄木の心中を推察するのみです。

~♪呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音おと!♪~

~♪考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。 煙管をみがく。♪~

~♪真夜中にふと目がさめて、わけもなく泣きたくなりて、蒲団をかぶれる。♪~

~♪目さませば、からだ痛くて動かれず。 泣きたくなりて、夜明くるを待つ。♪~

~♪氷嚢の下より まなこ光らせて、寝られぬ夜は人をにくめる。♪~

~♪人間のその最大のかなしみが これかと ふっと目をばつぶれる。♪~

~♪今日もまた胸に痛みあり。死ぬならば、ふるさとに行ゆきて死なむと思ふ。♪~

~♪あてもなき金などを待つ思ひかな。寝つ起きつして、今日も暮したり。♪~

~♪買ひおきし 薬つきたる朝に来し  友のなさけの為替のかなしさ。♪~

 才能に溢れ、文学を志した少年の眼差しは、いつも空に向かっていました。空を見上げ、心の中で希望を語っていたのだと思います。『一握の砂』では、~♪不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心♪~ と詠いました。しかし、彼は、『悲しき玩具』の中では、
~♪この四五年、空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?♪~
 と嘆きます。貧困と病魔におかされ、空を仰ぎ見ることもなく、夢破れた啄木の死は、わずか26歳での無念の死だったと思います。

  しかし、わずか26歳で彼が到達した高みは、素晴らしいものがあります。
文学面においては、世に出て名声を得ようという野心を遙かに超えて、文学の革新を目ざそうとする立場に到達しています。詩論、『食ふべき詩』をみてみましょう。

 < ・・・餓ゑたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。・・・暇ある時に玩具を弄もてあそぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。・・・
「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要なる自覚が、如何に現在に於て現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつゝあるか。・・・>

  大逆事件で社会主義者が弾圧・処刑される時代の中で、啄木は、社会的不正義や不公平に対し、強い批評と批判をぶつけました。その後の日本の進路を考えるとき、彼が駆け抜け到達した世界と、彼が目ざしたものは、100年後の今でも光を放っています。
では、最後に『呼子と口笛』の詩の一節を引いて、啄木の死を惜しむことにします。
 
 ~♪ はてしなき議論の後
    ・・・・・
   此処にあつまれるものは皆青年なり、
   常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
   われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
   見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
   されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

    ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
   飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
   若き婦人の熱心に変りはなけれど、
   その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
   されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。    ♪~

                 *‘V NAROD!’=「民衆の中へ!」

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2017年3月27日 (月)

定期診察(127)・症状横ばい

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは、今回も電車で向かいました。家から駅に向かう道は、貧血症状が酷くかなりの苦労でした。休み休みです。おまけに雨が・・・。駅の階段も途中で立ち止まりました。駅を降りて病院までは上り坂のため、途中で休憩です。なんとか病院にたどり着きました。

 最近の症状は、前回と比べても改善は無しです。
 朝食後は、姿勢が維持できず横になります。その後、1時間くらい活動ができます。昼食後も横になります。その後起きて、2時間くらい活動します。夕方からは徐々に、足、背中、胸の骨が痛み出し、発熱も始まります。夕食後、直ぐにロキソニンを飲みますが、痛みと熱は直ぐには治まらず、2時間は続きます。この時間帯が、一日の最大の難所です。熱は、たいてい38℃を超えます。 寝るときは酷い寝汗。これもなかなかです。
 気がつくといつも鼻血。これは何とも不気味感がありますね。 
 
 さて、診察結果です。
 ★ヘモグロビンは、Hb=6.6でした。前回より0.1ですが増えました。下げ止まったかも知れないということで、輸血は先送りで、このまま様子をみることになりました。

 ★血小板は11万/μlに減少しました。間もなく一桁台突入?

  ★なぜ毎日のように、周期的に骨が痛くなるのか、他の病気が隠れているのではないかと、質問してみました。
 主治医の答えは、「骨の腫瘍は考えにくい。もしそうだと、血液像に現れるはず。」、「血液を分解したり、造血したりすることと関係のある反応ではないか?」ということでした。何となく曖昧な答えでしたが、任せるより方法はないですね。もともと、治療法の確立していない病気なので・・・。

 ★前回減少したCRPとLDHは、今回は横ばい。
  それで、ジャカビを一日1錠増やすことになりました。一日3錠。

 今日は薬局で支払った代金は0円。高額療養費の限度額を超えているからです。
 請求書の額は、驚愕の16万円! 医療保険制度様様ですね。
               では。 また。

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