日記・コラム・つぶやき

2018年2月 2日 (金)

雑草はなぜそこに生えているのか・感想

Zassou1  稲垣栄洋著「雑草はなぜそこに生えているのか」(ちくまプリマー新書)を読みましたので紹介させていただきます。
 著者は静岡大学大学院教授、雑草生態学の研究者です。雑草を追究し、雑草についての著書も多いです。最近では、雑草からみた日本文化論なども書いておられます。

 では簡単に、内容の一部を紹介してみます。(項目は私が勝手に設定しました。)

【雑草の定義は?】
 著者によれば、雑草の定義はきわめて曖昧なもののようです。
アメリカの雑草学会の定義は、「人類の活動と幸福・繁栄に対して、これに逆らったりこれを妨害したりするすべての植物」だそうです。一言で言えば、「邪魔になる草」です。 しかし、邪魔になる植物といっても、ヨモギは雑草ですが、草餅になったりして役に立つこともあります。従って、雑草を厳密に定義することはできず、「邪魔になることが多い植物」といった程度の曖昧な定義なのだそうです。
 日本には、およそ7000種の種子植物があり、雑草として扱われるのは、僅か500種、よく目にする主要な雑草は100種にも満たないそうです。
 どんな植物でも雑草に成れるわけではないのです。
 雑草への道のりも、けっこう厳しいのです。

【雑草は強い植物?】
 「雑草」といえば、私たちは「踏まれても踏まれても立ち上がる強い草」と思っています。「雑草魂」という言葉もよく使われます。 
  しかし、著者は、「強い草」というイメージは違っていると断じます。雑草とは、実は弱い草なのだそうです。踏まれても立ち上がらないのです。
 植物の世界は、光と水と土を奪い合う激しい生存競争の世界です。植物にとって豊かな森の中では、雑草は光の奪い合い競争に負けてしまい、生存することはできません。つまり、競争には弱い植物なのです。

 【雑草は攪乱依存型植物】
 環境の整った土地で勝利する植物を、競争型植物(C型)といいます。自由競争に強い植物です。
 しかし、C型植物がいつも勝利するとは限りません。砂漠などの極度にストレスがかかる土地では、サボテンなどが生き残ります。ストレス耐性型植物(S型)です。
 雑草は攪乱依存型植物 (R型)です。人間は土地を耕したり、草刈りをしたり、開発したり、いつも環境を攪乱しています。このような攪乱された、荒れた場所でうまく生き延びているのが雑草たちなのです。人に寄り添う植物とも言えます。

 【雑草の巧みな戦略】
  〈発芽戦略〉
 弱い雑草にとって、いつ芽を出すかは生死を分ける問題です。雑草の発芽は、暖かくなれば一斉に芽を出すというような単純なものではなく、複雑な休眠の仕組みを持っています。一度低温の状態を経験しなければ、暖かくても芽を出さないのです。冬の初めに暖かいからといって芽を出せば、後にやってくる寒さで全滅してしまいます。
 芽を出す準備をしても、条件が悪ければ再び休眠するという二次休眠という仕組みもあるそうです。雑草は寝てチャンスを待つ植物なのです。
 また、雑草の種子は、ある条件になれば一斉に発芽するのではなく、それぞれの種子には個性があり、発芽の時期が微妙にずれるのです。一斉に発芽すれば全滅するかも知れません。だから、さみだれ的に発芽するのです。人が草刈りをしても、雑草は直ぐまた生えてくると思うのはこのためです。

 〈多様性戦略〉
 農作物は、一斉に芽を出し一斉に実をつけます。農作物は均一性が大切なのです。
1840年代にアイルランドでジャガイモの疫病が発生し、ジャガイモが全滅し100万人の人が餓死するという事態が発生したそうです。
 様々な環境変化に対応するためには、均一性ではなく、多様性が必要なのです。雑草は、多様な性質を保持し、多様な環境に対応して生き延びているのです。
 例えば、スズメノテッポウという雑草は、人間の作り出した環境である畑と水田では、種子の大きさとか数が微妙に違うのです。水田の方は種子が大きく数が少なく、畑の方は種子が小さく数も多いのです。それは、畑の方が環境の攪乱が大きいからです。水田は、環境変化が周期的で安定しています。
 微妙な環境にも対応できる多様性を持っているからこそ、生き残れるわけです。

 〈雑草の生殖と繁殖戦略〉
 雑草の繁殖戦略の基本は、どんな困難状態になっても必ず種子を残すことだそうです。そのために、多様な仕組みを進化させているのです。
 巧みな仕組みで昆虫をおびき寄せ受粉する、もし昆虫がいなくても自動的に自家受粉で繁殖するという、二重に保険を懸けた仕組みをもった雑草もいます。例えば、ハコベやツユクサ、オオイヌノフグリなどは、「自動自家受粉」の仕組みを使っています。ホトケノザなどは、「閉鎖花」といって、つぼみの中で自家受粉してしまう花を、もしもの時の保険として持っています。
 ………と、まあこんな調子で、この本は雑草の面白さ満載の本です。

 著者は述べています。……雑草は、「踏まれても踏まれても立ち上がる」強い植物ではない。時には、チャンスは寝て待ち、どんな困難な状況になっても、「必ず花を咲かせ種子を残す」植物である。「大切なことは見失わない生き方。これこそが本当の雑草魂である」。……
      *******
 自然環境は多様性に富み、様々な攪乱も起こります。この多様性の中で、それぞれの個性うまく適応させて生きているのが、様々な雑草たちなのです。
 人もまた、多様な個性をもった生き物です。多様な個性が様々な分野で発揮できる社会。多様な個性が尊重される社会。そういう社会が今、求められています。
 経済的効率のみで人々が選別され、多様な個性が圧殺される社会。そういう社会は脆弱な社会ではないでしょうか。
 雑草の生き方から、我々人も大いに学ぶべきものがありそうです。
 本書では、著者から若い読者への、雑草から学ぶ生き方のメッセージが満載です。
 お薦めします。    では。また。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年1月26日 (金)

土手に立つ一本の木

 先日の「大寒」の日に、木津川土手に撮影に行きました。その写真を「二十四節気・大寒2018」の記事としてアップしましたが、使わなかった写真がまだありますので、付け足しで掲載します。(別の日の写真も含まれています。)

 先ずは、木津川土手の大榎(六ヶ池の大榎)です。
すべての葉を落とし、冬姿の大榎です。

Ipponnok101Ipponnok102Ipponnok103  

 

 

 

 

  大空に向かって、大きく枝を広げる大榎。
ロングシャッターを切ると、寒風に枝が揺れていることが分かります。
Ipponnok104Ipponnok106Ipponnok105  

 

 

 

  写真を見ながら、現在の心境を大榎の詩にしてみました。

 「一本の木」
土手の上に
一本の木が立っている

木はこの場所で生まれ
この場所で育った
立ちつくしたまま
遙かな時空を旅してきた

冬の日
木はすべての葉を脱ぎ捨て
裸で寒風に晒され
震えるように揺れていた
おそらく木は病んでいるのだ
なぜか 今の私には分かる

いや 風で揺れているのではない
自らを震わせているのだ
大空に向かい腕を一杯に広げ
日の光に
吹きすさぶ風に
過ぎ去る雲に
育んでくれたものすべてに
全身を激しく震わせているのだ

夕日に雲が赤く染まるとき
一本の木が立っている
一つの決意を抱きしめ
こころの中に

 大榎のある長谷川河口付近をウロウロしました。
残り柿のある風景。河口付近の葦原。竹林のノイバラ。
Ipponnok201_01Ipponnok201Ipponnok201_02  

 

 

 

  土手の上はいつも、雲見の場所です。
私は、のんびりとした雲が好きなのですが、そうでない人も偶にはいます。
黒田喜夫という詩人がいました。
 ~♪「雲」
大抵のひとは
雲をながめるのが好きだろう

おれも好きだ
昔っから好きだ
 ………
晴れた日のぷかぷかした雲の様もよいが
嵐の前ぶれをみせて青黒く
乱れた雲が何よりだ
 ………  ♪~

黒田さんは、青黒く乱れた雲が好きだったようです。戦後、農民運動に参加し、結核の闘病を続けながら作詩を続け、波乱の人生を送りました。
私には、真似のできない人生です。

雲が雲間から漏れてくる光。いつの間にか青空。
冬の日は、激しく天気が変化します。冬の雲は足が早いですね。

Ipponnok302Ipponnok301Ipponnok301_01  

 

 

 

  土手に沈む夕日です。冬の夕日は、どことなく寒さを感じますね。

Ipponnok401Ipponnok402Ipponnok401_01  

 

 

 

 

  お別れは、雨の日に家の前で撮った南天の実です。
次の節気はもう「立春」です。早いですね。 では。また。
Ipponnok501Ipponnok502


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年1月 5日 (金)

北野天神へ初詣

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
  今年も細々とブログは続けていくつもりです。

 正月三ヶ日は、体調不良のため完全引きこもり生活でした。
 正月の「初夢」と言えば、何か夢のありそうな感じですが、私の場合は「悪夢」ばかりです。寝汗も…。
 ~♪  去年今年(こぞことし) 貫く棒のごときもの ♪~ (虚子)
 すべての変化を貫くような不変の時間の流れ。そして、自然。 病魔も…?

 ようやく気力を取り戻し、昨日は、北野天神に初詣に行ってきました。
 妻の実家が北野天神の直ぐ近くなので、北野天神の初詣は毎年の恒例となっています。特別な信仰心があるわけではないです。一刀彫の干支の置物を買うのも毎年のことです。妻は小学生の頃、天神の境内を遊び場にしていたそうです。

 三が日が終われば参拝客も少ないはず、と予想していましたがなかなかの人出です。 頭を撫でると賢くなれる牛。参道の屋台と参拝の人。開運巨大絵馬。今年は戌年。

Tenjin2018a01Tenjin2018a02Tenjin2018a03  

 

 

 

 

  先ずは本殿へ。賽銭を百円投入。賽銭は、不浄のお金を捨てるという意味があるらしいです。花びら型の鏡がありましたが、意味は?。

Tenjin2018b03Tenjin2018b01Tenjin2018b02  

 

 

 

  参拝後は、境内をブラリと一周。期待していた梅は一輪も無し。今年の冬は、寒さのために、開花はまだまだのようです。3枚目の写真は、書き初め会場。

Tenjin2018c02Tenjin2018c03Tenjin2018c01  

 

 

 

  東の門の前でおみくじを買いました。 中吉♪

Tenjin2018d02Tenjin2018d03Tenjin2018d01  

 

 

 

 

  合格祈願の絵馬を架ける所は、やさしい冬の斜光が差し込んでいました。
受験生と思われる少女。孫のために絵馬を架ける老夫婦。ささやかな願い。
最後の写真は、木津川河川敷の小道。冬の光がやさしい。
名物の長五郎餅を土産に買いました。  では。また。

Tenjin2018e01Tenjin2018e02Tenjin2018f01

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2017年11月29日 (水)

蜜柑の想い出

  Akutagawa0102 立冬も過ぎ、寒さが増して来ました。炬燵に入って蜜柑でも食べたくなる季節になりましたね。そんなわけで、今回は「蜜柑」にまつわる想い出などを書いてみます。

 芥川龍之介の作品に、「蜜柑」という短編があります。先ずは、この作品を紹介してみます。

 冬の日暮れ方、主人公の「私」は、横須賀発上りの汽車に乗ります。
「私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりとした影をとしていた。」
  発車間際に、小娘が慌ただしく駆け込んできて、「私」の前の席に座ります。
「油気のない髪を銀杏返しに結って、…皹(ひび)だらけの両頬を気持ちの悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった」
 垢じみた萌黄色の襟巻き。大きな風呂敷包みを抱いた霜焼けの手。「私」は、この小娘に対して「不快感」や「腹立たしさ」のようなものを感じるのです。
 列車がトンネルを抜け、町はずれの踏切に差しかかった時、「私」は意外な光景を目にします。
「頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。……一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分からない歓声を一生懸命に迸(ほとばし)らせた。」
  この時、この小娘は窓から身を乗り出し、蜜柑を五つ六つ、男の子たちに向かってほうり投げたのです。
 「私」は思わず息を呑み、この瞬間にすべてを理解するのです。
これから奉公先に赴こうとする娘。わざわざ踏切まで見送りに来た弟たち。
「小鳥のように声を挙げた三人の子どもたちと、その上に乱落する鮮やかな蜜柑」。
「暖かな日の色に染まっている蜜柑」。娘から弟たちへの惜別の贈り物。
「私」の心の上に、切ないほどはっきりと、この光景が焼き付けられたのです。
  ………

 まだ多くの人が貧しかった日本。娘たちは女中奉公に、男たちは丁稚奉公や工場労働者として故郷を離れていった時代。そんな時代の夕暮れの空に投げ上げられた蜜柑。鮮やかな放物線を描き落下していきました。
 およそ百年前に、芥川龍之介に目撃された蜜柑。今の時代でも、誰かがどこかで投げ上げているのでしょうか。暖かな日の色に染まった蜜柑を……。
  私の心の奥には、この蜜柑の映像が、見たわけでもないのにはっきりと記憶されています。冬のきれいな夕焼けを見ると、空に蜜柑が飛んでいるような気がします。
 芥川龍之介「蜜柑」、名作です。お薦めします。

 実は私にも、蜜柑にまつわる想い出があります。次にそれを…。僭越ながら…。

  半世紀も前のことです。年の瀬の夕刻、私は京都駅より山陰線午後18時発の列車に乗りました。学校が冬休みになり、丹後半島にある故郷に帰省するためです。汽車を降りてから、まだバスを乗り継がねばならず、この汽車が故郷に向かう実質最終列車です。私と同じ出身地の人にはよく知られた、京都駅発18時の最終列車です。
 私の目の前の席には、私と同じ年頃のちょっと可愛い女性です。私は、可愛い女性を見れば、下心を持って話しかけるなどということは、決してしないタイプの人間です。
 黙って本を読んでいた私に、その女性が、「どうぞ。食べませんか。」と、蜜柑を一つ手渡してくれたのです。その時の生温かい蜜柑の感触は今も忘れられないです。
 たどたどしく続く会話から、この女性は、私の隣町の出身で、大阪に就職し一年目の正月を故郷で過ごすために帰省するところでした。
 たどたどしく、おずおずと会話は続きました。
 この女性を楽しませようとあれこれ話題を探していましたが、数学の問題を解くようにはいかず、なかなか難しい問題でした。
  私が、「大阪へ出て一番嫌なことは何ですか?」と質問したとき、衝撃の言葉が返ってきました。何かを訴えるような、いや、悲しそうにも聞こえる声で…。

 「都会の空は、星が見えないんです。それが一番寂しくて……。」

 この言葉を聞いた瞬間、頭の中を言葉にならない考えが、激しく駆け巡りました。「私は、最近星を見たことがない」。「私は、何か大切なもの忘れていたのでないか」。言葉が見つからず、窓の外に目をやると、暗闇のむこうに漁り火のように、村々の灯りが見えていました。  ………

 東京オリンピックや高度経済成長に湧く日本。空の星が見えなくなっていった日本。私が生きてきた、団塊の時代と呼ばれるその後の時代は、何か大切なものを忘れていく時代だったのでしょうか。
  蜜柑をくれた女性。生温かった蜜柑の感触。寒い冬の空を見上げると、いつも懐かしく思い出します。
 この女性は、今でも、どこかで、星を見上げているのでしょうか。
  蜜柑の想い出でした。  では。また。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2017年7月20日 (木)

カテゴリー追加しました

 カテゴリー「詩集を読む」を追加しました。
「詩集を読む」という記事が増えてきましたので、
新カテゴリーにまとめました。
 現在までに登場した詩人は、次の方々です。

 高見順 宮沢賢治 金子みすず
 八木重吉 石川啄木 山村暮鳥
 中原中也 立原道造 山之口貘
 新美南吉

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2017年6月 2日 (金)

40数年ぶりの再会

 Kyotoeki
  先日、40数年前の職場の同僚2人と再会することができました。
 京都駅中央改札の前で約束していましたが、直ぐ近くに立っていたにも拘わらずお互いが認識できず、携帯電話で話しながら確認しあうという状態でした。
 しかし、お互いを確認した後は、僅か数年間という付き合いだったにも拘わらず、その後の40年という時間の壁を遙かに超えて、何の違和感もなく、隔たりもなく、あの頃そのままに会話をすることができました。この後、3人で昼食を共にしながら、なつかしい時間を過ごしました。

 40数年前、私は、今回再会したM.Y子先生と共に、新採用教員としてY中学校に赴任しました。次の年に、U.K郎先生がやってきました。その後、M.Y子先生とは3年、U.K郎先生とは2年間の付き合いでした。3人が共有した時間は、人生全体から見れば僅かな時間でしかありません。半世紀近い前、3人の若者が偶然出会い、僅かな時間を共にし、そして別れていった、ただそれだけのことにすぎないのですが……。
 「民主教育」という言葉が、まだ輝きを持っていた時代。正しい教育のあり方を真剣に求めていた時代。自らの人間形成に大きな影響を受けた時代。そんな時代を必死に生きていたからこそ、心に深く想い出が刻まれているのだと思います。

 二人のことをほんの少しだけ紹介してみましょう。
  まず、M.Y子先生は、世界遺産の五箇山地方の出身です。少女時代は、学校へ行く前に軽く草刈りの一仕事。学校から帰ってからは、子守や夕食の支度などが日々の日課だったそうです。米作りと養蚕もやっていたため、桑の葉の取り入れから、田んぼの草とりから、農作業の手伝いは膨大だったそうです。
 「それでよくK大に合格できましたね。」と言うと、
 「世の中のすべての人が、そういう生活をしているものと、長い間思っていました。」でした。彼女にとっては、ごく普通の生活だったようです。
 大学時代の彼女は演劇部で活躍。その後、愛する先輩の後を追って京都府に就職。
 遠距離恋愛を実らせて結婚。ご主人は、高校の先生だったそうですが、定年退職後、請われて市会議員に。現在2期目に入っているそうです。家事に、合唱団に、諸活動に、持ち前の体力と精神力で忙しくしているようです。

  U.K郎先生は九州男児。九州のK大卒業。私などは、レールの上をただ平凡に走りたがる人間ですが、彼の場合は少し波乱に富んでいるようです。
 その後、しばらくして教師を退職。上を目ざして大学院へと進学。卒業後、まだネットビジネスが世間で広がる前に、ネットのプラットホーム作りを手がけたり、不動産に係わったり、いろいろやったそうです。数千万円の損を被ったこともあるとか。ネットビジネスに成功していれば、億万長者になったかも…。その後は、大阪の某有名進学校の英語教師として勤務。昨年退職を迎えたそうです。いつも前向きな彼は、まだまだこれから、人生を冒険していきそうです。

  「それじゃあ、また。」・・・二人とは、京都駅の雑踏の中で別れました。
  別れた後、言い知れぬ寂しさが湧いてきて、あの頃の想い出をたどりながら、雑踏の中を歩きました。
 半世紀近い時間を超えて、三人が心の中に共有していたものは何なのでしょうか。
 ひたむきな希望のようなもの。情熱のようなもの。時代の風のようなもの。それは、決して言葉では語ることのできない何かです。
  ・・・さよなら。また、いつかどこかで・・・・。
           ******
  「私はもう長くは生きられない。なつかしい人に再会し、お別れの言葉を言おう。」これが、今の私の目標です。
 人は記憶を失えば、自分が何者であるかさえ解らなくなってしまいます。つまり、自分の人生とは、自分自身の想い出の連鎖なのです。なつかしい想い出の人に再会するということは、その頃の自分の人生に再会するということです。
人生の節目で出会った人と再会し、想い出を語り合い、過ぎ去った自分自身の人生を再確認し、そして二度と帰らぬ日々に別れを告げていこうというわけです。
 話をしたい人はたくさんいるのですが、少々体調が思うようにいかないです。
                  では。 また。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年4月28日 (金)

故郷の父母の墓参り

 先日の定期診察は、私にとっては、ちょっと重要な意味がありました。
 まず、初めて輸血をうけました。輸血前がHb=5.6という状態だったため、輸血後は急に貧血症状が良くなったように思われました。
  毎日必ず発熱して体の骨が痛み出し、歩行も困難という症状について、私はものすごく異常性を感じていましたが、そのことについて医師の言葉がありました。
  「白血病への転化又は、骨髄のがん(骨髄腫)の可能性!」
  検査はこれからですが、もしこのことが正しければ、私に残された時間は極めて限られていることは明らかです。まあ、そうでなくても限られているんですけどね…。
 現時点では、輸血で貧血が少し改善し、骨の痛みは痛み止めで抑えることができています。この機会を逃すことはないですね。体が動ける間に父母の墓参りに行かねば・・・・。善は急げです。

  昨日、思い切って車で故郷、丹後半島を目ざしました。故郷の風景や親類、墓の中の父や母に最後のお別れを言うつもりです。

 人には、人それぞれに故郷があります。
 中原中也の「帰郷」では、挫折感と漂泊感を滲ませ次のように歌います。
   ~♪ ・・・・
      これが私の故里だ
      さやかにも風も吹いている
      ・・・・
      ああ おまえはなにをして来たのだと・・・・
      吹き来る風が私に云う       ♪~

 室尾犀星の「小景異情」は有名ですね。
   ~♪ ふるさとは遠きにありて思うもの
      そして悲しくうたうもの
            ・・・・                   ♪~

 井上靖は散文詩「ふるさと」の中で、~♪私の最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。
 ”ふるさと”はまことに”ちちははの国”なのである。
 ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。♪~  と詠っています。

 私の場合は、井上靖氏の「ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。」に大いに共感します。
 私は6人兄弟の末っ子だっために、多くの兄弟にまぎれて親孝行など考えたこともなかったです。初めての給料で親に何かプレゼントしたでしょうか。していません。親の誕生日なども意識したことはないです。母の日も…。親の愛を受け取るだけ受け取って、お返しは無しです。両親は何を思っていたのでしょう。考えると情けない気分です。

 昼頃海岸に到着しました。
 石室古墳がある岬の上では、ハマダイコンが出迎えてくれました。
 眼下に見えるのが「立岩」。海岸に立つ故郷のランドマークです。
 犬ヶ岬。三角形の岩が特徴的。子どものころからの見慣れた目印。
 墓に到着。花と線香を供えてお祈り。目を閉じて、脳裏に浮かぶ父と母に対面。
 この後、実家に寄り食事を頂きました。
Tango01Tango02Tango03  

 

 

 
   

 

 Tango04_2
  出発の時、町はずれの浜に夕日が沈みます。
  懺悔の一日は静かに終わっていきます。
  私は、父と母から許されたのでしょうか? 
  脳裏に浮かんだ父と   母は何故か無言。
  吹き去る風は何も云ってはくれません。

 

   ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの」。なのでしょうか?
ただ、後悔…。懺悔…。

 体の疲労度から言えば、かなり無謀な計画でした。   では。また。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2017年1月 1日 (日)

謹賀新年 2017

 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 みなさんにとって、良いお年であることをお祈りします。

 さて、新年早々縁起の良くないことを言うようですが、私の場合、貧血症状、発熱、脇腹から背中にかけての圧迫感、悪夢、寝汗、足の痺れなど体調不良に苦しんでいます。年末から38℃台の発熱で、引きこもり生活の新年となりました。
 今年一年は、なんとか生き延びたいと希望していますが、さてどうなるか予想はできません。今年一年、残り少ない日々を一日一日を大切にして、淡々と生きていくしかありません。
 
 「一日一日を大切に生きる」とは、どんな生き方でしょうね。
 今年一年、これが私のテーマです。おそらく結論はないですけどね。
 いろいろな詩人の死生観や人生観を追っていけたらいいなと思います。
 難しそうですね。
 
 それからお詫びです。昨年は喪中のため年賀状は遠慮させていただきました。今年は、私の気力が無かったため、年賀状は作れませんでした。申し訳ないです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016年7月 8日 (金)

突然の広島見学

 突然ですが、先日、日帰りで広島へ行ってきました。夏空の広がる暑い日でした。
 
 私の人生も終りが近づいています。何とか動ける間に、行っておきたい場所がいくつかありますが、広島はそのうちの一つです。
 広島へは、過去に何度も行ったことがあります。修学旅行の引率、原水禁の世界大会、教育研究会などです。しかし今、平和資料館がどんなだったか、原爆ドームがどんな姿だったか、遙か遠いかすかな記憶しか残っていないのです。
 私たちの世代は、憲法と原爆、反戦と平和の声の中で少年時代を過ごしてきたという思いがあります。それこそが、私自身の人生の原点だと思っています。
 鮮やかな記憶といえば、修学旅行で資料館の近くに生徒を整列させた時、コンクリートの隙間にコケが生えていたことだけです。なぜそんな記憶しか残っていないのか、いったい、今まで自分は何をしてきたのか、どう生きてきたのか、自分の原点を考える広島行きです。

 路面電車に乗り、原爆ドーム前へ。 保存工事中。
Hiroshima101Hiroshima102Hiroshima103  

 

 

 

   原爆ドームの撮影は、アングルが限られます。巨大な商業ビルが建設され、ドームを青い夏空に抜くことができないからです。景観とは、空の表情も含めたものだと思います。広い空があって初めて風景が成立するように思うのですが・・・、景観論争は無かったのでしょうか、今や原爆ドームも単なる観光資源なのでしょうかか、気になります。
Hiroshima201Hiroshima202Hiroshima203  

 

 

 

    原爆死没者慰霊碑へ。
 外国人観光客は大変多いです。世界的に広がっているようです。良いことですね。
 慰霊碑のドームの向こうに、丁度、原爆ドームが見える仕掛けになってぃます。だったら、この景観は保全したかったですね。ビルがちょっと邪魔です。経済優先の世の中だから仕方がないのかも・・・。
Hiroshima301Hiroshima302Hiroshima303  

 

 

 

   「原爆の子の像」へ。
 白血病にかかり病床で折り鶴を折り続けた佐々木禎子さん。湯川秀樹博士の筆による「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸型の鐘。祈りの折り鶴。修学旅行生と思われる生徒たちの黙祷。
 「義務教育の平和学習の総仕上げとして広島・長崎への修学旅行を・・・」、そんなことが教育界の常識のように語られていた時代は終わり、私の住む地域では、教育現場から「平和教育」という言葉すら消えようとしています。修学旅行に広島・長崎を選択する学校は、一校も無くなったと聞きます。
Hiroshima402Hiroshima403Hiroshima401  

 

 

 

 

    ~ 原爆詩集   序     (峠三吉)
         ちちをかえせ ははをかえせ
    としよりをかえせ
     こどもをかえせ
    わたしをかえせ わたしにつながる
         にんげんをかえせ
         ・・・・    ~

 平和資料館へ。資料館前の噴水。
 展示室の入り口正面の写真。 助け合う人々の様子。
Hiroshima501Hiroshima501_01Hiroshima501_02  

 

 

 

   戦後70年。70年前に間違いなくあった事実に向き合います。
    ~ 八月六日  (峠三吉)
    あの閃光が忘れえようか
    瞬時に街頭の三万は消え
    圧しつぶされた暗闇の底で
    五万の悲鳴は絶え
        ・・・・      ~
Hiroshima602Hiroshima603Hiroshima601  

 

 

 

   影を残して逝った人も、焼けた三輪車の子供も。 弁当を食べるることなく熱戦に焼かれた人も、何処へ行ってしまったのでしょうか? 問いかけても展示物は無言です。

   ~にんげんの にんげんのよのあるかぎり
   くずれぬへいわを
   へいわをかえせ   ~
Hiroshima701_01Hiroshima701_02Hiroshima702  

 

 

 

   戦争の責任は曖昧にされ、その後の原発事故でも、誰も責任を問われることなく、憲法が公然と無視され始めた今の時代、反戦・平和の原点に帰ることが必要だと思うのは、私だけではないはずです。

   ~   その日はいつか  (峠三吉)  
     ・・・・
     原爆の光りが放たれ
     国民二十数万の命を瞬時に奪った事実に対し
     底深くめざめゆく憤怒を誰が圧さええよう
    この図のまえに自分の歩みを誓わせ
     この歴史のまえに未来を悔あらしめぬよう     ~

 お別れの写真は、黒い雨の痕。祈りを捧げる浄土宗青年部の皆さん。 では。また。
Hiroshima801Hiroshima802  Hiroshima803

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016年4月23日 (土)

独身生活中

 妻が介護のため実家に帰りましたので、しばらくの間、独身生活を始めます。散歩写真は控えめにして、家事と読書を中心にした生活を送る予定です。

 家事で大変なのは、三度の食事とその後片付け。
 それに加え様々な雑事。
  風呂の準備と片付け。時々、掃除、洗濯、トイレの掃除。
  ゴミ出し(本市は毎日違う種類のゴミを出すシステムです)。時々ゴミ当番。
  薬の管理も妻任せにしていたので、飲み忘れそうな予感が・・・。

  0001blob_01 軽いながらも糖尿病患者なもので、食事の目標は一日1800~1600kcal。低炭水化物。一日350g以上の野菜摂取です。
 買い物は三日に一度くらい、近くのスーパーへ。
  食器棚にメモを貼り付けて、三日単位で食糧計画を立てます。写真の右側の小さい用紙は、食材の購入リスト。気がつきしだい書き出しておきます。買った食材をすべて使い切るメニューの組み合わせが大変そうですね。そのうち、あまった食材でトンデモ創作料理が登場しそうです。

  昔、独身だった職場の同僚が、「常設鍋」と呼ぶべきような方法で食事を作っていたのを思い出します。部屋の真ん中にコンロと鍋が設置されていて、これに野菜や肉など何でも適当に投げ込んで、何日間も食べ続けるわけです。何日かすると、肉や魚の出汁が出て、何とも言えない濃厚スープ状態になっていきます。部屋に行くと、手づかみで白菜などを投げ込んで歓迎してくれたものです。懐かしいです。
 なかなか合理的な方法であることは確かですが、今はちょっと・・・。
 
心配事は?・・・、風呂で倒れたら助けてくれる人がいない。 これは、諦めるしかないということで、たいした問題ではないですね。   では。また。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧