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2017年9月 1日 (金)

原民喜詩集を読む

 Haratamiki_01
  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、原爆詩人として知られている原民喜です。彼は、自らの自画像を描く言葉として、「死と愛と孤独」という言葉を残しています。この詩人はどのように生き、そして、なぜ自死したのでしょうか? その生涯を追ってみます。

明治38年(1905年)、広島市幟町で12人きょうだいの五男として生まれます。
12歳の時、父を亡くし、この頃より極端に無口で内向的な少年となっていきます。

13歳の時、聖書の世界を教えてくれた姉を亡くします。
 形見として譲り受けた青い表紙の聖書を、彼は生涯愛読していたそうです。姉の死に向き合い、彼はさらに寡黙な人へとなっていきます。
 証言によれば中学時代、彼の声を聞いたことがない級友もいたとか。

19歳で慶応大学予科に入学。熱心な文学活動。日本赤色救援会などの活動に参加。
 しかし、寡黙で人付き合いは出来にくかったようです。

27歳で、大学英文科を卒業。就職難の時代でダンス教習所の受付として働きます。
 女性と同棲したり、自殺を図ったり、荒れた生活だったようです。

28歳。まわりの勧めにより貞恵と結婚。
 この貞恵は、気さくで明るく、利発な女性だったようです。民樹の文学を信頼し、無口で人付き合いの出来にくい民樹を支え、励まし続けました。
 後に彼は、「人と逢ふ時には大概、妻が傍から彼のかはりに喋っていた」(遙かな旅)と回想しています。また、「死と愛と孤独」という作品の中で、
 ~♪嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。♪~
と書き残しています。
 貞恵は、彼の耳となり、口となり、よき読者として彼を支えたのです。
 しかし、このような関係はいつまでも続くわけではありません。

 ~♪「そら」 (小さな庭)
おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかったのだ。うごけないからだゆえ朝の訪れが待ちどおしかったのだ。♪~

 ~♪「病室」 (小さな庭)
おまえの声はもう細っていたのに、咳ばかりは思ひきり大きかった。どこにそんな力が潜んでいるのか、咳は真夜中を選んで現れた。それはかたはらにいても堪えがたいのに、まるでおまへを揉みくちゃにするような発作であった。嵐がすぎて夜の静寂が立ちもどっても、病室の嘆きはうつろはなかった。嘆きはあった、……そして、じっと祈っているおまえのけはひも。 ♪~

39歳。肺結核に罹り病床にあった妻を、彼はついに亡くしてしまいます。
 ~♪もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……♪~(遙かな旅)
  妻に死に別れた彼は、毎夜、妻の幻と対話し、妻へ宛た手記を書きながら、悲しい美しい一冊の詩集を残すために生きていきます。

40歳。家業を手伝うため広島の兄の家に疎開。すべて運命のいたずらか、ここで原子爆弾に被爆。彼は、頑丈な厠にいたため奇跡的に生き残ります。
 
 ~♪「コレガ人間ナノデス」
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス   ♪~ (原爆小景)

~♪「水ヲ下サイ」
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー
………   ♪~  (原爆小景)

 彼は、原爆の惨状を目の当たりにして、「死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよう」と決意します。
 ~♪自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に操返し操返し云いきかせた。それは僕の息づかいや涙と同じようになっていた。
………
 僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
………  ♪~ (鎮魂歌)

 彼は心の苦しみに耐えながらも必死に、「原爆小景」などの詩や被爆の体験を綴った三部作、「壊滅の序曲」、「夏の花」、「廃墟から」などを書き上げます。
 彼の作品は、自分の主義主張を表明したり、原爆の悲惨さを強調し、反戦・平和を訴えるといった作品ではありません。父や肉親の死、愛する妻の死、そして原爆による多くの人の死、その死の意味を自らに問いかけ、すべての死者の魂を鎮魂する歌、というべき作品を書き残したのでした。
 「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう」と思いつつも、被爆の体験を書き残すために、5年間も生き延びた彼の精神に、危機が迫っていきます。

~♪…私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。……
 まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。♪~(死と愛と孤独)。
  
~♪「悲歌」
………
すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに ♪~   (魔のひととき)

45歳。1915年(昭和26年)。朝鮮戦争が戦われ、原爆の使用が噂される時代、彼はついに電車の線路に横たわります。 「死と愛と孤独」の詩人の最後でした。
   ******
 広島の平和記念公園の爆心地近くに、彼の碑が建てられています。そこには、死の数ヶ月前に書かれたと言われている、彼の詩が刻まれています。
 ~♪「碑銘」
遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻   ♪~

 彼の作品は、「戦後民主主義」といったものからは無縁だと思います。彼の中にあるのは、自らも含めた、すべての死者に対する鎮魂の祈りです。次々と死んでいった肉親。花を愛し自分を支えてくれた妻。多くの被爆者。死を見つめ続けた詩人は、その生涯の最後の時、「崩れ墜つ天地のまなか」に、自らの魂を鎮魂するかのごとくに咲く「一輪の花の幻」を見たのです。

 最後に、彼の祈りのような詩を一つ鑑賞して終わりにします。
 ~♪「永遠のみどり」
ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ      ♪~

  *原民喜の作品の多くは、青空文庫で読むことが出来ます。お薦めします。

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