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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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コメント

20代で亡くなった方が
(たとえ自死であった場合でも)
凛とした空気に包まれているのは
真っ直ぐに生きていたからではないでしょうか?

どこへと聞かれて
はるか遠くまで、と答えるのが若者なら、
今の私はどこにも行く当てなんてないさ、という感じでしょうか。

観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没して死んでいけたら良いのかなとも思います。

若い頃の反動で政治の話は…したくないです。
でも南アルプスの下にリニアモーターカーを通したり原発は、ちょっと嫌だなと思います。

投稿: ニャンキー | 2017年5月13日 (土) 16時43分

墓石さん こんばんは。(*^-^*)

体調は如何でしょうか。温度差が大きく体が着いて
行くのが大変でしょう。

墓石さんの高校生時代  多感な時期、感性豊かに
詩や文学書を読んでられた事でしょう。
私もそういったものに憧れはしましたが、才能なく
平凡極まりないものでした。

立原道造 彼もまた結核だったのですね。多くの方がこの病魔で。。。自然と自分や恋人の心情を結び着け、素晴らしいですね。詩人はどうしてこんな言葉が生まれ、人の心をうつのか、これはやはり才能です。

>彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。

私もそう思います。
また段々右傾向になってますね。歴史は繰り返すといいますが、あの戦争の悲惨さも薄れるのでしょうか。私も映像しか
知らないですが。北朝鮮の事もあり、一挙にその方向に
進むのでしょうか。

投稿: 輝子 | 2017年5月13日 (土) 18時41分

ニャンキーさん、コメントありがとうございます。

若くして世を去らねばならなかった夭逝の詩人たちに、
命の輝きや、心の叫びを求めて、このシリーズに取り組
んでみました。自分なりに勉強になりました。

「私は生きられる・・・私はよい時をえらんだ」
今の世を受け入れ、感謝の気持ちに満たされる、そんな
最後は、私には自身がないです。たぶん、イヤダイヤダと
暴れているに違いないです。人間が未熟ですので…。

ニャンキーさんは、若い頃の反動で政治の話は御法度ですか。
ウーン、ちょっと分かるような気がします。

投稿: 墓石 | 2017年5月13日 (土) 20時52分

輝子さん、こんばんは。

体調が悪くて、引きこもり生活です。
今日は激しく雨が降りましたね。椅子に座って雨を
みていました。暇でしたので…。

立原道造も結核でした。昔は、若くても死が身近だったんですね。
高校生の頃は、ロマンチックな気分で詩を読んでいましたが、
詩人は死とどう向き合ったかというテーマで、詩を読み返してみて、
ちょっと詩の読み方が深まったような気がします。

輝子さんは、宇治田原へ行かれたようですね。
水の張られた田んぼ、いいですね。

投稿: 墓石 | 2017年5月13日 (土) 21時36分

墓石さま。こんにちは。

育ったところが軽井沢なので、
立原道造は、なつかしいです。
(でも、正直ほとんど読んでいません(*´ェ`*))
堀辰夫の方が、なんとなく身近でした。

軽井沢も観光地になってしまい、
今はだいぶ景色は変わりましたが、
四季折々に移りゆく風景と浅間山を眺めながら
私も色々な空想(妄想)に浸ったものでした。
でも、ただのおバカと
立原道造の感性は、同じ景色を見ても
天と地ほどの違いです…

鋭く純粋な感性には、戦争に向かっていく時代は
耐え切れなかったでしょうね。

戦争翼賛の詩歌を作って長生きするよりも
「5月のそよ風」を待ちわびて夭逝した
立原道造は、美しい生涯だったと思います。

墓石さまも、5月のそよ風と光を
いっぱい浴びて、良い1日1日を
過ごされますように。


投稿: ひかる | 2017年5月16日 (火) 17時02分

ひかるさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

ひかるさんは長野出身でしたね。軽井沢育ちでしたか。
いいですね~。私は、軽井沢とかまったくいったこと
はないです。長野へは、スキーで行ったことがあるだ
けです。
立原道造や堀辰夫は、よく読みました。

五月のそよ風をいっぱいに浴びたいですが、どうも
今年は天気がイマイチです。今日も物干し台読書を
しましたが、風が強かったり、まだらに太陽が照った
りで、落ち着かなかったです。

ひかるさんも初夏の日々を楽しんでください。

投稿: 墓石 | 2017年5月16日 (火) 18時10分

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