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2017年5月

2017年5月30日 (火)

フクシマ6年後 消されゆく被害 感想

 Fukushima
  日野行介、尾松亮共著「フクシマ6年後 消されゆく被害」~歪められたチェルノブイリ・データ~ (人文書院)を読みましたので、感想を書かせていただきます。
  著者の日野行介氏は、毎日新聞記者。
  尾松亮氏は、関西学院大学災害復興制度研究所研究員。

 安倍首相がオリンピック招致演説で、「フクシマはアンダーコントロール」と演説しました。多くの国民は、アレッ?と思ったと思います。立ち並ぶタンクのあちこちから汚染水が漏れ、山側から流れ込む地下水は止められず、それが汚染水となって海側に流れ出している状態は今も続いています。日本国民は、オリンピックのために世界に向かって嘘をついたことになります。

 多くの文化人や科学者、評論家が、原発の安全神話を当たり前のように語っていました。原発事故が起こり誰かが責任を取ったでしょうか? 
 第一義的責任を負うべき東京電力は生き残り、20数兆円ともいわれる廃炉費用は、全国民が税金と電気代で支払う仕組みも作られました。

 除染が進み避難指示の解除が行われています。しかし、国民の年間許容被爆線量は1mSvですが、解除地域は20mSvとなっています。この数値は、安心して暮らせる基準として設定されたものではなく、本来、緊急避難をすべき基準として決められたはずのものです。空間線量が20mSvであっても、到るところにホットスポットと呼ばれる高線量の地点もあります。いつのまにか、緊急避難基準が安全・安心基準になっているのです。
 避難解除された地域の住民への支援は打ち切られ、地域へ帰れば、他の国民とは違った、避難基準の場所での生活を強いられます。これに従わない住民は「自主避難者」となるわけです。「自主避難者」は、自らには何の責任が無いにもかかわらず、補償もなく避難を続けるか、不安を抱きながらも生活環境の整わない自宅へ帰るかの選択を迫られているのです。
 先日、今村雅弘復興大臣が、自主避難者の避難行動は「自己責任」であるとの見解を示しました。その背後にある考えは、政府が科学者の知見を取り入れ設定した安全基準を受け入れない「自主避難者」は、放射能に対して科学的に無知であるか、ワガママであるというものです。だから支援の必要はないと…。
 「自主避難者」の子どもがいじめにあう事件も報道されています。
 復興庁の水野靖久参事官は、ツイッター上で原発の問題を追及する市民団体を「 左翼のクソども」と暴言を吐き辞任しました。風評被害は国民の放射能に対する無知からきていて、それを「左翼のクソ」どもが煽り立てているというわけです。
   原発問題については、忘却と再稼働が進む背後で、ドロドロとした混乱状態が続いています。放射性廃棄物の処理についても、トイレのないマンション状態です。

 前置きが長くなりました。この本の内容を部分的ですが紹介してみます。

 第1章、著者の日野氏は、子供を連れて「自主避難」している母親たちを取材し、周囲からの厳しい反応を報告します。「勝手に逃げたのに賠償をもらった」ずるい人、ありもしない不安にさいなまれた「頭のおかしな人」のように見られ、学校では子供がいじめられる事例も発生しています。自主避難を隠して生活している人も多くいると……。
 健康への影響を心配して、母親が子供を連れて避難するのは普通のことなのに、そういう人は守られなくていいのか?。国は、早々と住宅支援の打ち切りを決めています。「もう5年も経ったんでしょ」と、周囲の視線の冷たさは増しているとのことです。

 第2章では、福島県で行われてきた県民健康調査の甲状腺検査について問題点が指摘されています。
 福島県では、県内に住んでいた18歳までの子ども38万人を対象に、甲状腺の検査が行われています。15年3月時点で112人が甲状腺癌とされました。これは、通常の罹患統計からすると、数十倍の多さであるといいます。しかし、県民調査検討委員会は、「放射線の影響は考えにくい」と報告しています。その論拠として出されるのが、「チェルノブイリ」ではどうだったかという知見です。
 ①チェルノブイリでは、4~5年後に甲状腺ガンが増加した。
  →したがって、今まで福島でみつかった甲状腺ガンは事故との因果関係はない。
 ②チェルノブイリでは、事故時5歳以下の層に甲状腺ガンが多発した。
  →福島では5歳以下の層に増加はないので、チェルノブイリとは違っている。
  ③チェルノブイリに比べ、福島は被爆線量がはるかに少ない。
  →したがって、福島での甲状腺ガンの増加は考えにくい。

 福島原発の事故の影響を否定する人たちがいつも重要な論拠としているのが、「チェルノブイリの知見」なのです。
 ロシア語に堪能な著者の尾松氏は、チェルノブイリ被災国のロシア語原文資料に直接あたります。「ウクライナ政府報告書」だけではなく、まだ翻訳されていない「ロシア政府報告書」にもあたり、福島の検討委員会が提示する説明は正確ではないことを明らかにします。
   ①チェルノブイリでは、4~5年後に甲状腺ガンが増加した。
     →翌年から増加をしている。
   ②チェルノブイリでは、事故時5歳以下の層に甲状腺ガンが多発した。
   →事故時5歳以下の層に甲状腺ガンが多発するのは、10歳後半になってから。
 ③チェルノブイリに比べ、福島は被爆線量がはるかに少ない。  
     →チェルノブイリでは、被爆線量が少ない地域でも甲状腺ガンが増加している。
 このように、チェルノブイリの知見が、都合よくねじ曲げられ、一部が隠されているのです。

 このあと、この本は、第3章 日本版チェルノブイリ法はいかに潰されたか/第4章 闇に葬られた被害報告/ 第5章 チェルノブイリから日本はどう見えるのか/ となっていますが、スペースが無くなりました。
 「民主主義は、国民による意思決定への参加を保障することで成り立つ。その意志決定の前提となる情報が、いびつに歪められた社会では、民主主義はあり得ない。原発事故は民主主義の問題である。」 著者たちの熱い訴えが新鮮です。
 日本にとって原発問題は、逃れられない課題ですね。 お薦めします。

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2017年5月26日 (金)

二十四節気「小満」・風

 5月21日は、二十四節気の「小満」でした。今年も「小満」の頃は、良い天気が続き、空は晴れて心地よい風が吹いていました。木々は緑の若葉を広げ、初夏の風は若葉を揺らしながら吹き抜けていきます。五月はやはり、「風」を感じる季節ですね。
 初夏の風を表した「風の名前」も多いです。風を楽しんだ古の人に乾杯です。
  「青嵐」。 「薫風」。 「新樹風」。 「若葉風」。
  「青東風(あおこち)」。「菖蒲東風(しょうぶこち)」。「落梅風」。
  「麦嵐」(麦秋の頃の風)。「ながし」。(初夏の長雨の頃吹く南よりの風。)

 初夏の風を、実に爽やかに歌った詩を一つ紹介しましょう。

     ~♪ かぜとなりたや はつなつの
     かぜとなりたや かのひとの
          まえにはだかり かのひとの
          うしろよりふく はつなつの
          はつなつの かぜとなりたや      ♪~

 「 かぜとなりたや はつなつの かぜとなりたや…」。爽やかな緑の風になって…。かの人のまわりを吹く、ちょっといたずらな風になって……。ほんとうに初夏の風になって、爽やかに吹き渡っていきたくなりますね。 お気に入りの詩。
 この詩は、詩人で版画家の川上澄生氏の「初夏の風」という木版画に彫られている作品ということです。棟方志功氏は、この作品をみて版画家を志したとか…。

 中原中也さんも風のでてくる詩を書いています。彼がこんな詩を書いていたと思うと、ちょっと安心しますね。ちょっとだけ…。
                                 (未発表詩篇/早大ノート)
  ~♪ 吹く風を心の友と             
     口笛に心まぎらわし
          私がげんげ田を歩いていた十五の春は
     煙のように、野羊(やぎ)のように、パルプのように、

     とんで行って、もう今頃は、
     どこか遠い別の世界で花咲いているであろうか
     耳を澄ますと
     げんげの色のようにはじらいながら遠くに聞こえる
     ・・・・・
     それが何処か?――とにかく僕に其処(そこ)へゆけたらなあ……
     心一杯に懺悔して、
     恕(ゆる)されたという気持の中に、再び生きて、
     僕は努力家になろうと思うんだ――         ♪~

「…僕は努力家になろうと思うんだ…」。15歳の頃の中也さんは、短歌を作ったり、弁論大会に出場したり……。 次の年には、落第、転校……。
 季節に風があるように、人生にもいろいろな風がありますね。

 今の時期、木津川土手の風景の中で、一番風を感じさせる植物といえば、「茅花(つばな)」です。風に吹かれるままに、飄々と揺れる白い穂は、何か漂泊感を感じます。
 では、「小満」の頃の木津川土手へ散歩へ行きましょう。風をいっぱいに感じながら……。ただし、パソコン上でですが……。
  ★2015年の「小満」へのリンク →  こちら
    ボブディランの「風に吹かれて」や種田山頭火の歌も出てきます。
  ★2014年の「小満」へのリンク →  こちら
        夕日に輝く茅花が見られます。
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   今の時期、土手で見逃せないのは「ノビル」です。のんびりしているのか? のびのびしているのか? 何かとらえどころがないところがいいですね。こんなことを言うのは、必死で生きているノビル君に失礼か?
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   ノビルは、万葉の頃にはちょっとしたご馳走だったようですよ。
  ~♪ 醤酢(ひしはす)に 蒜(ヒル)搗き合てて 鯛願う 我にな見えそ 水葱(ナギ)の羹(あつもの) ♪~
   意味:酢味噌(すみそ)和えのノビルと、鯛を食べたいと思っているのに、ナギの汁なんか見せないで下さい!
 「時代が変われば価値も変わるんでしょうね? ノビル君。」 では、また。
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2017年5月22日 (月)

定期診察(131)・2回目の輸血

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日2錠だったロキソニンが3錠に近づいています。つまり1錠で12時間もたないです。
 貧血症状も相変わらずです。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.6でした。
   前回より0.4増加です。しかし、息切れなどの貧血症状は酷くなっています。
      ということで、今回は2回目の輸血決定。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
      やはり再度の骨髄検査が必要という判断に。次回の予定ですが、その前に
   白血病のマーカー検査(?)をしてから判断するとのことです。
   検査の説明がありましたが、記憶が定かでないです。     記憶力低下?
    「T2??・・タンパク質の量を調べる?・・・・検査。・・・?」
      貧血は認知症を引き起こす? あり得るかも?  最近、言葉が出てこない!

    ★血小板数は、いよいよ一桁の9万/μlに減少です。

  ★貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。

 中央処置室という部屋で輸血を受けたのですが、輸血や点滴のためにやって来る患者の声、看護師さんの指示する声、器具の音。何か夢の中にいるようで、騒音を子守歌に少し寝られました。軽くて小さい本を用意していましたが、今回も無駄になりました。
                        では。また。

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2017年5月20日 (土)

二十四節気「小満」2017

 5月21日は、二十四節気の一つ「小満」です。初夏のまぶしい光があふれ、生き物たちの命が輝く季節となりました。ついこの前まで寒い風が吹いていたような気がするのに、もう季節はどんどん進んでいるのですね。

 体調が悪くて散歩に出られない私は、初夏の木津川土手に思いを馳せています。
 土手の榎の巨木も、きっと今頃は、緑の葉をいっぱいに広げ、涼しい影をつくっているだろうなと…。この巨木のことを思うと、いろいろな想いが湧き上がってきます。
 最初にこの巨木に出会ったのはいつのことだったか? 木と空と雲が対話していることを知ったのはいつのことだったか? 何故私は、老いることを嘆き、病を恐れ、あくせくと日々を生きているのか? いろいろ思いは尽きないです。

  詩人の長田弘さんは、巨木のでてくる詩をいくつか書いておられます。
 ~♪ ひときわ枝々をゆたかにひろげて、やわらかな影を落としてきた一本の大きな欅の木。……うつくしい樹冠をもつ、孤高の木。……
 たった一本、これほどにも高い欅の木がそこに在るという、ただそれだけの爽快な事実。ただ在るというだけのことが、その木のように潔く存在することであると知ることは、日々のなぐさめだ。……  ♪~   (独り立つ木)

 ~♪ ……生きるとは時間をかけて生きることだ。人はどうして、森の外で、いつも時間がないというふうにばかり生きようとするのか。古い森の奥の大きな樟の木の老人は何も言わず、ただ黙って、そこにじっと立っていた。♪~   (森の奥の楠の木)

 では、初夏の木津川土手の大榎に会いに行きましょう。そして、無言で語り合いましょう。巨木と空と雲と……。   ただし、パソコン上でですが……。
   2016年の「小満」後半へのリンクは → こちら 
      2015年の「小満」続きへのリンクは → こちら 
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  今の時期の土手は、植物たちがあふれています。ネズミムギの穂が初夏の風に揺れ、あふれる光を乱反射してキラキラと輝いています。実りを終えたカラスムギの白い穂が揺れています。間もなく麦秋と呼ばれる時期です。
 アカツメグサ、ミヤコグサ、ニワゼキショウ、ヒメコバンソウ。土手の斜面は、野の草が花盛りです。
 土手下の茶畑では、茶摘みが真っ盛りです。茶摘みの人が土手をゆきます。
 ああ、ほんとに良い季節になりました。
 そんな木津川土手に出かけましょう。 ただし、パソコン上ですが……。
      2016年の「小満」へのリンクは → こちら
      2013年の「小満」へのリンクは → こちら 
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2017年5月17日 (水)

平田雅博(著)・英語の帝国 感想

  平田雅博(著)・「英語の帝国」~ある島国の言語の1500年史 ~(講談社選書)~を読みましたので、紹介させていただきます。平田雅博氏は、青山学院大学史学科教授。
 この本は、イングランド島という一島国の言語に過ぎなかった「英語」が、現在のような世界支配を確立していく1500年の歴史を検証しています。そして今、日本で起こっている「英語熱」、小学校での英語教科化や低年齢化などに警鐘を鳴らしています。
 現代日本の英語教育をかんがえる時、この本は必読と言えそうです。

Ujit01 「英語の帝国」は、中世イングランドによる、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの侵略に始まります。これらのブリテン諸島の国々を支配下に置き、イングランド帝国が出来上がりました。
 さらに近代に入りイングランド帝国は、「ブリテン帝国」(大英帝国)として世界的に帝国を建設していきました。これとともに、「英語の帝国」は拡大していきました。
 その拡大は、左の図のようになります。(クリックすると拡大します。)
 まず、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど、「母語としての英語」を話している人々が中核となります。
 さらに、植民地の拡大競争によりインド、アフリカなど、大英帝国やアメリカに植民地化された国々へと英語は広がっていきます。図の「外郭の円」。
 さらに十九世紀以後は、「非公式帝国」としてラテンアメリカ、中東、そして日本を含む極東にまでその支配圏が広がっていきました。図の「膨張する円」。

 「英語の帝国」は勢力を拡大していく過程で、支配拡大のための様々な原理(戦略)を獲得していきます。その一つは、使用言語の違いを利用した分断支配です。
 まず、上からの英語押しつけ政策で、英語話者に経済的・社会的な優位性が与えられる仕組みを作ります。この仕組みが機能を始めれば、経済的ゆとりのある者は英語を学び有利な地位を得ていき、それができないものは不利な立場に追いやられ、格差社会は広がっていきます。社会的・経済的利益を得させようと親たちは、子どもには英語を獲得させようと必死になっていきます。
「上からの強制」と「下からの迎合」により、植民地的言語支配が進んでいくのです。

 例えば、ウェールズは16世紀の「連合法」により、イングランドに併合されます。この連合法の中には言語条項があり、行政的に英語の使用が義務づけられ、英語に習熟していないものは官職に就けなくなったのです。ジェントリ(地主階級)の師弟は、イングランドで英語を学び社会的地位を獲得していきました。一方ウェールズ語は、地方の小作人の言語として緩やかに衰退をたどっていくことになるのです。

 19世紀の「帝国主義」の拡大により、英語は教育システムとして、「帝国支配」の言語として広がっていきました。支配者側(宗主国側)からの「強制」と、被支配者側からの「迎合」という原理は、ここでも活用されました。
 インドでは、公的な使用言語がペルシャ語から英語に置き換わり、インド人が政府ポストに就くときは、英語教育を受けた者の優先が決められました。さらに主要な都市に国立大学が作られ、英語で授業がおこなわれたため、英語教育は進みました。
 ガンジーは、「英語は、教養層と大衆を隔てる深い溝であり、インドの国民語になり得ない。」と、英語反対論をとなえましたが、しかし、子どもの将来を考え就職を有利にしようとする親たちが多数派でした。2003年時点で、英語が自由に話せるインド人は、5000万人に達しています。

 アフリカでは、「アフリカ人は英語を必要としている」として、一方的、暴力的に英語の押しつけが進行しました。スワヒリ語や多数の現地語は「近代的な、抽象的な思考」を表現できないと見なされ、教育機関から追放されていきました。
 1961年にウガンダのマケレレで、「第二言語としての英語教育」についてのブリテン連邦会議が開かれました。この会議をまとめた報告書が、「マケレレ報告」です。この報告の中で注目されるのが、次のような「信条」です。

 ①英語は英語で教えるのがもっともよい。
 ②理想的な英語教師は英語を母語とする話者である。
 ③英語学習の開始は早いにこしたことはない。
 ④英語に接する時間は長いにこしたことはない。
 ⑤英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる。
 
 これらの信条は、第ニ外国語を学習するための教育的理論から生み出されたものではなく、英語を一方的に押しつけるために「英語の帝国」の歴史が生み出した「前理論」であるといいます。これらの信条は、教育的な理論的背景が明確でないまま、当然のことのように言われ、現在の日本でも英語学習の低年齢化の根拠となっています。

  最後は、膨張する円の中にいる日本の英語教育についてです。
  文部科学省は、2014年に有識者会議を設置し、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を作成しました。この計画に基づいて、今年2017年3月、新指導要領が告示されました。
 小学3.4年生で、「聞く・話す」を中心に週一時間の体験的学習、5.6年生には、週二時間の「読み・書き」を加えた教科としての学習が入ります。
 中学校では、英語の授業は英語でおこなうことを「基本」とするとしています。
 これらはまさに、「マケレレ報告」の日本適用版ともいえます。

 著者は、現代の英語帝国主義は、アメリカが主導する帝国主義であると述べています。アメリカが主導する「新自由主義」による「グローバル化」が世界を覆い、これに呼応して日本の財界は「英語教育改革」を唱えて、「グローバル化」=「アメリカ化」に都合のよい日本人=「グローバル人材」の育成を目ざしていると…。
 この「グローバル人材」を育てるための教育改革は、膨大な予算を伴う国家プロジェクトです。限られた授業時間と予算の中で、小学校に英語を導入することが、本当に経済的に意味のあることなのか国民的議論が必要です。現代日本の「英語熱」は異常であり、日本人は、早く目を覚ますべきであると著者は警告しています。
       *********
 小学校への英語導入については、反対の学者も多くいます。愛知県立大の袖川裕美氏は、小学の年間35~70時間程度の英語なら、大人になれば短期間にマスターできると言います。外国語が母語以上になることはあり得ず、国語力が低いままでは、英語も使えなくなります。国語の作文の時間を増やす方が大切であると主張しています。
 国民的議論が必要な問題であることは確かですね。 

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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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2017年5月 8日 (月)

定期診察(130)・今のまま様子を

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは今回も電車で向かいました。貧血症状は酷いものの、前回より少しマシでした。輸血効果がまだ残っているようです。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日1錠で済んでいたロキソニンが、最近では2錠に増えました。ロキソニンを財布の中に常備しているという状態です。

 今日の診察は、私にとって少々決意をもって臨みました。前回、医師より入院を勧められ、おまけに、「発熱と骨の痛みについて、白血病への転化や骨髄の癌化の可能性が考えられるので、近く骨髄の検査をもう一度やりましょう。」という発言もありました。検査の日取りが決められ、検査の結果、もし異常があれば、極めて私の命の期限は限られてしまうことになります。何となく気が重くて、決意のいる診察でした。判決を待つ被告の心境ですね。判決を受けたことは無いですが…。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.2でした。
   「これなら、今日予約していた輸血は中止にします。」
   ということで、輸血の予約は次回に延ばすことに。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
       「ロキソニンで痛みを抑えて、このまま様子をみましょう。」でした。

   アレレレ!?  前回とは打って変わったこの緊迫感の無さ!?

   「痛みの間隔も狭くなり、ロキソニンの量も増えているのですが……?
          検査の予定などは?・・・」
   「直近に白血病の検査はしているし、……。しばらくこのまま様子をみる
      ということで、検査は急がなくてもいいと思いますよ。」

 以上のように、このまま様子をみるというのが結論です。
  貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。
 今日の輸血は次回に延期で、輸血に備えて片手で読める、軽くて小さい本を用意していましたが無駄になりました。
 決意をもって診察に臨んだのですが、空振りに終わりましたね。ちょっとホッとしたという気持ちもあります。主治医と患者の間に壁を感じる診察でした。
 痛みと貧血に悩まされる日々は、このまま続きます。
  では。また。

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2017年5月 5日 (金)

二十四節気「立夏」2017

 5月5日は、二十四節気の一つ「立夏」です。いよいよ夏の始まりの日です。
新緑。さわやかな五月の風。空を泳ぐ鯉のぼり。白い雲。いい季節になりましたね。

 5月2日は、体調が少し良かったこともあり、良い天気に誘われて宇治田原方面を車で走ってみました。5月2日は八十八夜でしたね。
 この時期には、茶畑に行きたかったのですがちょっと体力的に無理そうです。ここは、我慢して過去の茶畑の写真をリンクしておきます。
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   ★2012年の「宇治田原・和束茶畑」へのリンクは → こちら

 宇治田原方面では、田植えも盛んでした。水の張られた田んぼ。木々の新緑。柿の若葉が眩しいです。今回2枚だけ撮りました。(最初の2枚)
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   ★2013年の「新緑の宇治田原散歩」へのリンクは → こちら

  田原川のボタン桜は終わりかけでした。残念。カラシナは満開でした。
 最初の2枚が、今年の写真です。
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   ★2012年の「田原川の八重桜」へのリンクは → こちら

 この時期、藤の花が咲いていますが、写真にできるような藤には出会えませんでしたので、過去のリンクで見て下さい。
 ★2013年の「藤の花」へのリンクは → こちら
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   今回は、木津川土手へは行けていません。
 五月の風の中で、木津川土手の草花と遊びたい方は、次のリンクへどうぞ。
 ★2016年「立夏」へのリンクは → こちら
 ★2016年「立夏」追加へのリンクは → こちら 
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  ★2015年「立夏」へのリンクは → こちら 
  ★2014年「立夏」へのリンクは → こちら 
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2017年5月 1日 (月)

中原中也の詩を読む

  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか、今回は中原中也をみていきます。夭逝の詩人から中原中也を外すことはできませんね。
 中原中也の詩は、中学校や高校の教科書でもよく取り扱われていて、近代詩への入り口となっています。若い人の中にファンも多いですね。詩人や研究者の方の評論もたくさん出されています。今更、一読者である素人が、稚拙な何かを言うのも畏れ多いことですが、それはそれで、素人なりに思ったままをズバリと書いてみます。 我流「中也」論。

 まず、年譜により、彼の生涯の概略を確認してみます。
★1907年(明治40年)
 山口で生まれる。父は軍医で、後に中原医院を開く。
★1923年(大正12年):16歳
 文学熱が高じ、怠学により落第。家族で協議の結果、京都の立命館中学に転校。
  京都で長谷川泰子と同棲。詩や小説に没頭する。
★1925年(大正14年):18歳
  長谷川泰子と共に上京。東京での詩作の日々が始まる。
 小林秀雄、高橋新吉、草野心平、河上徹太郎、萩原朔太郎らと交流。
★1933年(昭和8年):26歳
  遠縁の上野孝子と結婚。
  翌年、長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版。詩人としての評価も高まる。
★1936年(昭和11年):29歳
  長男文也、小児結核で死去。
★1937年(昭和12年):30歳
  「在りし日の歌」の原稿完成。結核性脳膜炎で死去。

 中也の実家は医者で、裕福な家庭の出身です。その後、彼は一生実家から援助を受け続け、生活のためにあくせく働き、世間に揉まれて生きることもありませんでした。17歳で女と同棲を始めたりして、世間一般からみれば、文学に狂った放蕩息子という感じです。逆に、良く言えば、あくせくせす純粋に詩に没頭した詩人だったといえます。
 中也にとって詩人とは、生活のためにあくせくと雑事に追われる世俗とは一線を画した、精神的特権階級だったと思います。そのため、彼は世間を高みから傍観したり、世間にとけ込めない孤独感を感じていたと思われます。「正午」という詩ををみてみましょう。
  ~♪ 「正午 ~丸ビル風景~」      (在りし日の歌)
   あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
   ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
   あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
   空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
   ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
   なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
    ・・・・
   空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな   ♪~

 この詩は、高みから世間を見下ろす中也の視点や彼の持つ孤立感、漂泊感の溢れた詩です。 次に、「倦怠」という詩をみてみましょう。
  ~♪ 「倦怠」        (生前発表詩篇)
   倦怠の谷間に落つる
   この真ッ白い光は、
   私の心を悲しませ、
   私の心を苦しくする。
    ・・・・
   たちまちにそれは心を石と化し
   人はただ寝ころぶより仕方もないのだ
   同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
   悔いながらにかぞえなければならないのだ。
    ・・・・              ♪~

 世間や外界に対して果たされずに過ぎる義務の数々。世間からの孤立感が、彼にもたらしたものは「倦怠」です。彼の詩の中に流れる主要なテーマの一つが、「倦怠」です。
 彼は、世俗との抵抗しがたい苦闘の中で、どうしようもない倦怠感を抱いていたのです。家計を営む生活者ではない、霞を喰って生きるような詩人の負い目でしょうか。
 実家に金銭的に頼らねばならない負い目、成功できない負い目、彼にとって故郷もまた、閉ざされていました。「帰郷」と「黄昏」という詩をみてみましょう。
   ~♪ 「帰郷」        (山羊の歌)
   ・・・・
  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ     ♪~

  ~♪ 「黄昏」          (山羊の歌)
   ・・・・
  なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
  草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
  畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

  ――つひに私は耕やさうとは思はない!
  ぢいつとぼんやり黄昏の中に立つて、
  なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 何も成し遂げられない自分。父親に対する負い目。彼にとって過去とは、疲れたような懐かしさや後悔の堆積する空間でした。よく知られた「頑是ない歌」でも、~♪思へば遠く来たもんだ/ 十二の冬のあの夕べ/ 港の空に鳴り響いた/ 汽笛の湯気は今いづこ・・・・と、過ぎ去った過去を後悔の念と漂泊感を滲ませながら詠います。
 このように、彼の心は、周囲に対しても過去に対しても閉ざされていました。彼は、この心の閉鎖空間の中で、「悲しみ」を詠いました。彼の詩の中に流れる主要なテーマの二つ目が、「悲しみ」です。よく知られた詩、「汚れつちまつた悲しみに……」を読みましょう。
  ~♪「汚れつちまつた悲しみに……」   (山羊の歌)
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

   汚れつちまつた悲しみは
   たとへば狐の革裘
   汚れつちまつた悲しみは
   小雪のかかつてちぢこまる

   汚れつちまつた悲しみは
   なにのぞむなくねがふなく
   汚れつちまつた悲しみは
   倦怠のうちに死を夢む

   汚れつちまつた悲しみに
   いたいたしくも怖気づき
   汚れつちまつた悲しみに
   なすところもなく日は暮れる……      ♪~

 「倦怠のうちに死を夢む」。いったいこの悲しみは、どんな悲しみなのでしょうか。どんな汚れなのでしょうか。誰が汚したのしょうか。「なすところもなく日は暮れる……」。すべては受身形の悲しみです。彼の悲しみは、閉ざされた心の中を漂うばかりです。
 また、彼の心は、未来に対しても閉ざされていました。「わが半生」をみてみます。
   ~♪ 「わが半生」        (在りし日の歌)
      ・・・・ 
   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。       ~♪

 出口の無い閉ざされた心の中の「悲しみ」と「倦怠」。過去、未来、周囲、すべての方向に閉ざされた心の世界で、彼は心の中にもう一人の自分であるピエロを住まわせることにより、心のバランスをとり自らの心を慰めていたと思われます。
  ~♪ 「幻影」        (在りし日の歌)
   私の頭の中には、いつの頃からか、
   薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
   それは、紗の服なんかを着込んで、
   そして、月光を浴びてゐるのでした。
         ・・・・    ♪~

   ~♪ 「骨」
   ホラホラ、これが僕の骨だ、
   生きてゐた時の苦労にみちた
   あのけがらはしい肉を破つて、
   しらじらと雨に洗はれ、
   ヌックと出た、骨の尖さき。
        ・・・・
      故郷ふるさとの小川のへりに、
   半ばは枯れた草に立つて、
   見てゐるのは、――僕?
   恰度立札ほどの高さに、
   骨はしらじらととんがつてゐる。    ♪~

 離人症に罹ったかのように心を分離させ、もう一人の自分であるピエロを心の中に住まわせ、故郷に骨となって立ち尽くしている自分自身を見た詩人。閉ざされた心の中で、「悲しみ」と「倦怠」を詠った詩人。中原中也は、昭和12年、わずか30歳の若さでこの世を去りました。

 昭和12年といえば、廬溝橋事件。日本は戦争の時代へと突入していきます。多くの詩人は大政翼賛へと転向していきました。そんな時代の中で、社会に対し心の扉を閉ざし、自己を心の閉鎖空間の中に沈潜させていった若者・中原中也は生きていたのです。
 今また、中也の詩が若者の心をとらえているといいます。就活競争。非正規労働。個がバラバラにされる競争社会。自己責任社会。青春に挫折し、心を病む若者がいる限り、中也の詩は今後も読み継がれていくと思います。
 では、最後に彼の「志」を微かに感じさせる詩で、締めくくりたいと思います。
  ~♪ 「月夜の浜辺」
   月夜の晩に、ボタンが一つ
   波打際に、落ちてゐた。

   それを拾つて、役立てようと
   僕は思つたわけでもないが
   なぜだかそれを捨てるに忍びず
   僕はそれを、袂に入れた。
        ・・・・
   月夜の晩に、拾つたボタンは
   どうしてそれが、捨てられようか?    ♪~

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