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2017年3月

2017年3月31日 (金)

石川啄木詩集・歌集を読む

  夭逝の詩人は、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、わずか26歳の若さで世を去った天才歌人・詩人、石川啄木についてみていきます。

 ~♪ 東海の小島の磯の白砂に  われ泣きぬれて  蟹とたはむる ♪~

  ~♪ 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日  ♪~

  ~♪ はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る ♪~

  「一握の砂」に収められたこれらの歌は、日本人のほとんどが知っています。私たちの知る石川啄木は、どのように誕生したのでしょうか。年譜を概観してみましょう。

★石川啄木は、1886年(明治19年)に、岩手県(現、盛岡市)で、寺の住職の子として生まれます。優秀な少年時代だったようです。
★1902年 明治35年 満16歳
   学校で不正行為(カンニング)があったとして処分を受け、盛岡中学校を退学し、文学で身を立てるべく渋民村を出ます。文学的野心に満ちて故郷を出発です。
★1905年 明治38年 満19歳
  文語定型詩で書かれた処女詩集『あこがれ』を発行。これは、現代の私たちには、少々読みづらいです。節子と結婚し、盛岡市に新居を構えます。
  翌年には、 渋民小学校で代用教員として働きます。
★1907年 明治40年 満21歳
 北海道に渡り、函館 、釧路などの地で、代用教員、新聞記者、校正係などとして働きます。
★1908年 明治41年 満22歳
  「文学的運命を極度まで試験する決心」(日記)。ついに文学的野心に燃えて、家族を北海道に残したまま上京します。小説を書き、売り込みを図るも失敗。貧困のどん底へと落ちます。挫折です。
 挫折の中で歌を詠み雑誌に発表し、これが高く評価されることになります。
★1909年 明治42年 満23歳
 朝日新聞社校正係の職も得て、家族を迎え二階二間の間借り生活を始めます。
★ 1910年 明治43年 満24歳
  『一握の砂』を刊行。 長男真一死去。
   大逆事件発生。幸徳秋水等死刑。これに抗議し社会主義的傾向を一層強めます。
★1911年 明治44年 満25歳
   慢性腹膜炎と診断され入院。さらに肺尖カタルにおかされ病魔は進行。
 母カツも病魔におかされます。
★1912年 明治45年 満26歳
  3月、母カツ結核で死去。
 4月、本人も危篤。最後をみとったのは、妻節子、父一禎と友人の若山牧水でした。

  年譜により、石川啄木の作品の全体像を整理すると、次のようになります。
  まず、歌については、次の二集です。
      22歳~23歳:『一握の砂』   24歳~26歳:『悲しき玩具』
  次に、詩人としての石川啄木の作品は、次のように整理できます。
      17歳~18歳:詩集『あこがれ』 19歳~24歳:『あこがれ』以後の作品群。
      24歳~:社会主義的な傾向滲ませた『呼子と口笛』

  結局、私たちが『一握の砂』で知っている石川啄木は、22歳~23歳の頃の啄木ということになります。
  闘病中の心情を知るには、24歳~26歳の『悲しき玩具』を読めばよいということになります。

 啄木は、文学的才能にあふれ、また文学的野心を持ち文学界に挑みますが、その収入で家族を養うことはできず、貧困のどん底で喘ぎます。容赦なく病魔が襲い、ついに26歳の若さで他界したのです。
 彼は、凄まじい生活苦と病魔にどのように向き合ったのでしょう。最後に書かれた日記を見てみましょう。

  <日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。・・・・>

  啄木を見舞った友人、金田一京助は、後に次のように書き記しています。 
    <上ってすぐ隔ての襖をあけると、仰向けに此方を向いて寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容が来て、面がわりしたのに先ず吐胸を突かれたが、同時に、洞穴があいたように、ぱくりと其の口と目と鼻孔が開いて、『たのむ!』と、大きなかすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。私は死霊にでも逢ったよう、膝が泳いで、のめるようにそこへ坐ったばかり、いう所の言葉を知らなかった。
 あの際に、何と言って上げるのが一等よかったろうか、私には今でもよいことばがわからない。・・・>

 金田一京助が、「いう所の言葉を知らない」と言うような貧困生活と闘病生活。その中で詠まれた歌を『悲しき玩具』から拾って鑑賞していきましょう。歌については、何の説明も必要ないと思います。ただ啄木の心中を推察するのみです。

~♪呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音おと!♪~

~♪考へれば、ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。 煙管をみがく。♪~

~♪真夜中にふと目がさめて、わけもなく泣きたくなりて、蒲団をかぶれる。♪~

~♪目さませば、からだ痛くて動かれず。 泣きたくなりて、夜明くるを待つ。♪~

~♪氷嚢の下より まなこ光らせて、寝られぬ夜は人をにくめる。♪~

~♪人間のその最大のかなしみが これかと ふっと目をばつぶれる。♪~

~♪今日もまた胸に痛みあり。死ぬならば、ふるさとに行ゆきて死なむと思ふ。♪~

~♪あてもなき金などを待つ思ひかな。寝つ起きつして、今日も暮したり。♪~

~♪買ひおきし 薬つきたる朝に来し  友のなさけの為替のかなしさ。♪~

 才能に溢れ、文学を志した少年の眼差しは、いつも空に向かっていました。空を見上げ、心の中で希望を語っていたのだと思います。『一握の砂』では、~♪不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心♪~ と詠いました。しかし、彼は、『悲しき玩具』の中では、
~♪この四五年、空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?♪~
 と嘆きます。貧困と病魔におかされ、空を仰ぎ見ることもなく、夢破れた啄木の死は、わずか26歳での無念の死だったと思います。

  しかし、わずか26歳で彼が到達した高みは、素晴らしいものがあります。
文学面においては、世に出て名声を得ようという野心を遙かに超えて、文学の革新を目ざそうとする立場に到達しています。詩論、『食ふべき詩』をみてみましょう。

 < ・・・餓ゑたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。・・・暇ある時に玩具を弄もてあそぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。・・・
「我は詩人なり」といふ不必要な自覚が、如何に従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」といふ不必要なる自覚が、如何に現在に於て現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつゝあるか。・・・>

  大逆事件で社会主義者が弾圧・処刑される時代の中で、啄木は、社会的不正義や不公平に対し、強い批評と批判をぶつけました。その後の日本の進路を考えるとき、彼が駆け抜け到達した世界と、彼が目ざしたものは、100年後の今でも光を放っています。
では、最後に『呼子と口笛』の詩の一節を引いて、啄木の死を惜しむことにします。
 
 ~♪ はてしなき議論の後
    ・・・・・
   此処にあつまれるものは皆青年なり、
   常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
   われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
   見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
   されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

    ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
   飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
   若き婦人の熱心に変りはなけれど、
   その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
   されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
   ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。    ♪~

                 *‘V NAROD!’=「民衆の中へ!」

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2017年3月27日 (月)

定期診察(127)・症状横ばい

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは、今回も電車で向かいました。家から駅に向かう道は、貧血症状が酷くかなりの苦労でした。休み休みです。おまけに雨が・・・。駅の階段も途中で立ち止まりました。駅を降りて病院までは上り坂のため、途中で休憩です。なんとか病院にたどり着きました。

 最近の症状は、前回と比べても改善は無しです。
 朝食後は、姿勢が維持できず横になります。その後、1時間くらい活動ができます。昼食後も横になります。その後起きて、2時間くらい活動します。夕方からは徐々に、足、背中、胸の骨が痛み出し、発熱も始まります。夕食後、直ぐにロキソニンを飲みますが、痛みと熱は直ぐには治まらず、2時間は続きます。この時間帯が、一日の最大の難所です。熱は、たいてい38℃を超えます。 寝るときは酷い寝汗。これもなかなかです。
 気がつくといつも鼻血。これは何とも不気味感がありますね。 
 
 さて、診察結果です。
 ★ヘモグロビンは、Hb=6.6でした。前回より0.1ですが増えました。下げ止まったかも知れないということで、輸血は先送りで、このまま様子をみることになりました。

 ★血小板は11万/μlに減少しました。間もなく一桁台突入?

  ★なぜ毎日のように、周期的に骨が痛くなるのか、他の病気が隠れているのではないかと、質問してみました。
 主治医の答えは、「骨の腫瘍は考えにくい。もしそうだと、血液像に現れるはず。」、「血液を分解したり、造血したりすることと関係のある反応ではないか?」ということでした。何となく曖昧な答えでしたが、任せるより方法はないですね。もともと、治療法の確立していない病気なので・・・。

 ★前回減少したCRPとLDHは、今回は横ばい。
  それで、ジャカビを一日1錠増やすことになりました。一日3錠。

 今日は薬局で支払った代金は0円。高額療養費の限度額を超えているからです。
 請求書の額は、驚愕の16万円! 医療保険制度様様ですね。
               では。 また。

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2017年3月23日 (木)

八木重吉詩集を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか。今回は、29歳の若さで夭逝したクリスチャン詩人、八木重吉の場合を考えていきます。

 明治に入り急速に欧米の科学技術や文化を取り入れていった日本。いわゆる欧化政策です。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、志賀直哉など多くの詩人や作家は、キリスト教文化に触れ、大きな影響を受けました。また、自らがクリスチャンとなる詩人や作家も多く出ました。多くの場合、信仰は作品の背後に隠されており、前面に出ることはありません。しかし、八木重吉の場合は、作品の前面に信仰が打ち出されており、神への祈りのような作品が多く残されています。彼にとっては信仰がすべてだったと思われます。その意味で、人々は彼を、「クリスチャン詩人」と呼んでいるのだと思います。

 では、彼の生涯を年譜で概観してみます。
 八木重吉は明治31年、現在の東京都町田市相原町の富裕な農家に生まれました。
 神奈川県師範学校へ進学。19歳で東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学します。ここで文学に目覚め、キリスト教へ入信します。卒業後、兵庫県の御影師範学校に奉職します。この少し前に知り合った島田とみと、遠距離恋愛の末に結婚します。重吉は24歳、とみは18歳、とみの親の反対を押し切っての強引な結婚だったようです。
 二人は、一男一女をもうけ、重吉は詩作に励む生活を送ります。
 大正14年、27歳の時、千葉県立東葛飾中学校に転勤。ここで第一詩集「秋の瞳」を出版します。
 昭和元年、結核第Ⅱ期と診断され、療養生活へと入ります。そのかたわら、第ニ詩集の「貧しき信徒」を自選、編集します。(出版は死後)
 昭和2年10月、熱烈なキリスト教信徒として、29歳の若さで亡くなりました。

 貧困と苦しい闘病生活。彼の精神を支えたのは、神への信仰でした。亡くなる前、わずか3年間に遺された詩や詩稿は、3000篇近いと言われています。その多くは、宗教的心情の吐露や祈りの言葉です。そのいくつかを拾い出してみます。
   ~♪ わからなくなった時は
      耶蘇の名を呼びつづけます
      私はいつもあなたの名を呼んでいたい ♪~

   ~♪ 基督が解決しておいてくれたのです
      ただ彼の中へはいればいい
      彼につれられてゆけばいい   ♪~

  彼の信仰は、一途で純粋なものでした。私のようなクリスチャンでない者から見れば、あまりにも痛々しい感じすらします。
 信仰とは、人間は本来的に罪なる存在であり、欲望に満ちた自分の存在を罪として神の前で悔い改め、神にひざまずき救いを求めることです。彼は、詩を作ることも、たんなる人間的欲望の一つではないかという思いにとらわれるのです。彼は、純粋な神への信仰のためには、他の一切の欲望は断ち切る必要があるのではないかと思い悩むのです。

      ~♪ あるときは
     うたをつくるのさへ悪であるとおもふ
     こんな詩などつくらなければ
     ほんとにわたしのせけん的のよくぼうはなくなる
     そうしたら一挙にわたしのこころは
          きれいになってしまうかもしれぬ     ♪~

      ~♪ わたしが
      詩をすてるとき
            わたしはほんとのひとになれる     ♪~

しかし、彼は詩を捨てることはできません。家族への愛を断ち切ることもできません。信仰と詩、信仰と家庭をどのように統一すればよいか、心は揺れ動きます。

   ~♪  たったひとつの手すさびでありほこりである
      かなしみでありよろこびである
            詩をつくることをすててしまふなら
            あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせかいだもの
            ここにこうして不覚の子は
            歯をくいしばって泣くまいとしてうたをうたふ   ♪~

      ~♪ 裸になってとびだし
      基督のあしもとにひざまずきたい
      しかしわたしには妻と子があります
      すてることができるだけ捨てます
      けれど妻と子をすてることはできない
       ・・・・
      ここに私の詩があります 
      これが私の贖(いけにえ)である
      これらは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
      これらはわたしの血をあびている
      手をふれることできぬほど淡々しくみえても
      かならずあなたの肺腑へくいさがって涙をながす  ♪~

 詩は、私の贖(いけにえ)であると・・。重吉は、詩と家族、そして神の間で悩み続け、苦しみます。そして、ついに一つの境地に到達するのです。

 ~♪ 詩をつくり詩を発表する
    それもそれが主になったら浅間しいことだ
    私はこれから詩のことは忘れたがいい
    イエスを信じ
    ひとりでに
    イエスの信仰をとおして出たことばを人に伝えたらいい
    それが詩であろう   ・・・・         ♪~

  文学的野心とは無関係、金銭的利益とも関係ない、信仰をとおして心の奥から自然に湧き上がってくる言葉、それこそが詩である・・・。彼は、信仰と詩、家族愛について、ついに真実に到達します。

  ~♪ ほんとうに
     しぜんに詩の生まれる日は
          じぶんみづからがとほとひものになったとおもふ
          いのちがあることがたしかにかんじられる
          みづからが かみのこころの窓となり
          わたしのうたは
          わたしのもつ かみの観念とおなじたかさからながれいづる ♪~

   ~♪ この明るさのなかへ
     ひとつの素朴な琴をおけば
     秋の美しさに耐えかね
     琴はしづかに鳴りいだすだろう   ♪~

 彼は、神の創造物である自然と静かに向き合い、心の中にただ湧き上がる言葉を書き留めました。信仰を通して、心の中に自然に湧き上がる言葉、それこそが詩であるという境地に到達したのです。彼の琴が静かに鳴り始めたのです。自然派詩人八木重吉の誕生です。彼のことを宗教的自然詩人と呼ぶ人もいます。納得の表現です。

  ~♪ 雨がふっている
     いろいろなものをぬらしてゆくらしい
     こうしてうつむいてすわっていると
     雨というものがめのまえにあらわれて
     おまえはそう悪いものではないといってくれそうなきがしてくる ♪~

  ~♪ 雨のおとがきこえる
     雨がふっていたのだ
     あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
     あめがあがるようにしずかに死んでゆこう   ♪~

  神に許された彼が、自然と向き合いながら紡ぎ出す世界は、なんという静謐な世界なのでしょう。
 彼の編んだ詩集、「秋の瞳」、「貧しき信徒」は、宗教的信条とは関係なく、多くの人から愛されることになりました。

  ~♪ 私はくるしい
     私は怖ろしい
     私は自分がたより無い
     私は基督に救ってもらいたい
     それが最後のねがいだ    ♪~

  ~♪ 冨子
     神さまの名を呼ばぬ時は
          お前の名を呼んでいる  ♪~

  昭和2年10月、重吉は、神と家族の名を交互に呼びながら最後の時に向かいます。
 ~危篤が告げられ高熱のなかで十時を切る。キリストの姿を見たしぐさをする・・
 彼の最後の瞬間はこのように伝えられています。
 生活苦の中で29歳の若さで昇天しました。

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2017年3月20日 (月)

二十四節気「春分」2017

 3月20日は、二十四節気の春分でした。彼岸の中日です。「暑さ寒さも彼岸まで」とは、よく言ったもので、ここ数日温かくなりました。
 私は、物干し台で読書を楽しみました。花粉症なのでマスクは必須です。日に当たっていると暑いくらいです。
  春の野草と対話をするために散歩に行きたいのですが、どうも体の方が言うことを聞いてくれません。椅子から立ち上がっただけでも、立ち眩みで頭が痛くなります。これでは、カメラを持って、得意のローアングルで野の花を撮影するのは無理です。
 というわけで、今回も過去の「春分」へのリンクのみになります。
 梅と桜の端境期で被写体に苦労する時期です。

    2016年の「春分」へ → こちら
Shunbulink001 岸田衿子さんの詩「急がなくてもいいんだよ」
に合わせて、春分の日を楽しみます。
左の写真は、モクレンの花芽に夕日。 

 

 

 

    2016年の「春分」の追加へ → こちら
Shunbulink002 緋寒桜とメジロ。
土手の早咲きの桜、陽光桜。
木津川土手のユキヤナギ。

 

 

   2015年の「春分」へ → こちら
Shunbulink003 野の花たち。つくし。
オオイヌノフグリ。オトケノザ。
文化パルクの梅。

 

 

   2015年「青谷梅林」  → こちら
Shunbulink004 青谷梅林へ。
メジロ。夕映えの梅。
左の写真は、青谷梅林より木津川遠望。

 

 

   2014年の「春分」へ → こちら
Shunbulink005 鴻ノ巣公園の梅。
野の花たち。
木津川土手の梅。 

 

 

   2013年の「春分」へ → こちら
Shunbulink006 大榎と梅。
木津川土手の梅。
鴻ノ巣山の梅。

 

 

   2012年の「春分」へ → こちら
Shunbulink007 つくし。菜の花。サンシュユ。
青谷梅林へ。
古川土手、柳の芽吹き。

 

 

 

   2011年の「春分」へ → こちら
Shunbulink008 河津桜。
フキノトウ。
メジロ。

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2017年3月13日 (月)

定期診察(126)・貧血限界に

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは電車で向かいましたが、貧血症状が酷く、駅の階段が山登り状態でした。電車で病院へ行くのは、ちょっと限界に来ている感じです。次はタクシーにするとか、考えないと・・・。

 最近の症状としては、貧血症状がひどく、姿勢が維持できずに横になっていることが多くなりました。集中力が無くなり、ぼんやりしていることもあります。読書をしている時、ぼんやりとなって目を閉じたくなったりします。
 足や背中、腹の痛みもひどくなってきました。発熱でロキソニンを飲むというより、痛みのために飲むという状態です。毎晩のように38℃を超える発熱も続いています。ロキソニン依存生活ですね。
 ひどい寝汗も続いています。バスタオルを体に巻いて寝ています。布団乾燥機は毎日、大活躍ですね。洗濯機も同じくです。

 さて、診察結果です。
 ★ヘモグロビンがついに、Hb=6.5 になりました。 体が辛いのも当然ですね。
  まっ先に輸血の話しが出ましたが、次回の診察まで先送りすることに・・・。
  「このままだと倒れますか?」と質問したところ、「それはない。」ということなので、もう少し堪え忍ぶことにします。 私はなぜか不思議に我慢強いですね。

 ★血小板は14万/μlに減少しました。心ぼそい数値になってきました。
  その内、病状が進めば一桁台になるそうです。 その時は成分輸血?

 ★「ロキソニンを毎日使用していることの副作用は?」の質問に、「他にもいろいろ弱い薬もあるので、それはその時に。」ということでした。 気にすることは無い?

  ★良い話しは一つも無い診察でしたが、主治医が言うには、過去最高を更新し続けて上昇していたCRPとLDHが減少に転じたのは、ちょっと期待できるかも?、ということでした。何をどう期待できるのかよく解りませんが・・・。熱と体の痛みは、もう少し改善してほしいものです。
 これらのいろいろな症状は、個人差が大きいそうです。朝に発熱したり、一日中ジワジワ発熱したり、人によりいろいろだそうです。

 血小板増多症から二次性骨髄線維症になった場合、原発性の骨髄線維症よりも予後は不良ということのようです。病気の最終状態なので当然といえば当然ですね。残り少なくなった人生をどう生きるか、淡々と生きていくしかないんですが、なかなか悩ましい問題ですね。
 「夭逝の詩人の死」というテーマで読書をしていますが、あまり進んでいません。まあ、誰からも読まれていないので、気長にいきます。    では。 また。

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2017年3月 9日 (木)

二十四節気「啓蟄」2017

 3月5日は、二十四節気の「啓蟄」でした。啓蟄に割り当てられた七十二候が示すところによれば、地面から虫たちも這いだしてきて、桃の花が咲き、菜虫が蝶となる頃です。梅に続いて、桃の花も咲き始めます。
 今年は、少し寒い日が続いていて、先日、霰が降りました。
 私はといえば、ほとんどの時間を家の中で過ごしています。何となく姿勢が維持できず、横になっている時間も増えています。気がつくと、いつの間にか口で息をしています。すっかり闘病生活というにふさわしい状態になってきました。梅の花やピンク色の桃の花の香り嗅ぐために、虫たちのように家から這いだしたい気分です。

 今回も、二十四節気「啓蟄」は、過去のリンクになります。

   ★2016年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら   青谷梅林梅→ こちら
 Keititu001
  菜の花にミツバチ。虫たちの活動も始まりました。
 まどみちおさんの詩が二編引用されています。
 モクレンの花芽の輝き。

 

 

   ★2015年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら   鴻ノ巣山の雨→ こちら
  Keititu002ナズナ、ホトケノザ、ツクシ、オオイヌなど春の花勢揃い。
 土手の梅。夕日。
 種田山頭火「 ひつそりかんとして ぺんぺん草の花ざかり」

 

 

   ★2014年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら
  Keititu003この年も異常な寒さで雪の啓蟄に。大榎に雪。
 ネコヤナギの輝く花芽、タンポポの暖かさ。
 オオイヌノフグリはバーズアイ。

 

 

   ★2013年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら
 Keititu004
 ネコヤナギとミツバチたち。
 メジロとの出会い。
  ヨモギ採りのおばさん、魚釣りの少年たち。

 

 

   ★2012年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら
  Keititu005雨の鴻ノ巣山。催花雨。 
 コケと水滴。
 霧の高尾、湯屋谷(宇治田原)。

 

 

   ★2011年の「啓蟄」へのリンクは→ こちら
  Keititu006青谷梅林の梅。
 宇治田原高尾の梅。
 土手の梅。

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2017年3月 3日 (金)

金子 みすゞの死を考える

  夭逝の詩人たちは、死とどのように向き合ったのでしょうか? 今回は、金子 みすゞの場合を考えてみます。金子 みすゞは、26歳の若さで自死した夭逝の童謡詩人です。

 では最初に、26歳というあまりにも短い人生だった金子みすゞの略歴をまとめてみます。金子みすゞは、明治36(1903)年、山口県の仙崎という小さな港町に生まれました。本名はテル。父の家業は、金子文永堂という小さな書店。二歳年上に兄・堅助、二歳年下に弟・正祐がいました。みすゞが三歳の時、父親が亡くなり家族は大黒柱を失います。翌年、弟の正祐は、子どもの無かった上山文英堂という遠縁の書店に養子に出されます。堅助とみすずは、母ミチにより、女手一つで育てられます。
 封建的家父長制度のもとで、家長を失うという悲しい出来事により、音もなく運命の歯車は回転してゆきます。
 兄・堅助は、尋常小学校卒業後、上の学校へは進まず家業を継ぎます。みすずは、郡内の大津高等女学校へと進学することになります。ここでのみすゞは、明るく成績も優秀だったようです。
 弟・正祐が養子に出されていた上山文英堂では、主人の妻(正祐の義母)が亡くなります。それにより、上山文英堂の主人は、みすゞの母ミチと再婚することになったのです。つまり、母ミチは、自分の子を養子に出した家に後妻として入ったのです。家というものを維持するために、もっとも良い方策だったようです。
 みすゞも女学校卒業後は、この上山文英堂で店番として働きました。やがて、兄・堅助の結婚により、実家を出て上山文英堂に住み込むことになります。
 好きな本に囲まれ、「みすゞ」というペンネームで投稿をしたのもこの時期でした。ここでの生活が創作活動の活発な時期でした。みすずの詩を借りて言えば、まさに「砂の王国」だったのです。
  ~♪ 「砂の王国」
     私はいま
     砂のお国の王様です。
     お山と、谷と、野原と、川を
     思ふ通りに変えてゆきます。
           ・・・・       
     私はいま
     ほんとにえらい王様です   ♪~
 時代は大正デモクラシー。北原白秋、西條八十、野口雨情などが中心となった大正童謡運動が興っていた時代でした。みすゞは、西條八十から高い評価を受け、創作活動を続けました。

 音もなく回転する運命の歯車。養父となった上山文英堂の主人は、みすゞと宮本という店員の結婚話を進めます。家の主の権力が強かった家父長制度。弟・正祐の涙の猛反対にもかかわらず、みすゞは心ならずも宮本と結婚することになります。
 結婚後まもなく、女児をもうけます。しかし、夫は遊郭通いに明け暮れ、家庭を顧みない悪夫。詩作にも理解が無く、詩作ばかりか仲間との文通も禁ずる始末でした。
 詩作を禁じられたみすゞに残されたのは、成長していく子ども。みすゞは、子どもの片言のお喋りの中に、素直で奔放な詩のようなものを感じとっていたのです。みすゞにより記録された子どもの言葉が残されています。
 離婚話が進み、ついに離婚となりましたが、子どもを引き取りたいというみすずの主張は聞き入れられず、ついに子どもまで奪われることになります。
 みすずは心を決め、三通の遺書をしたため、写真館で自分の遺影を撮り、カルモチンという睡眠薬を飲んで、この世を去ることになります。封建的な家父長制度の中で苦しみながら・・・。  26歳の若さでした。

 自ら死を選んだみすゞは、死をどのようにととらえていたのでしょうか?
 それは、作品に残されたものの中から推測するしかありません。
 みすゞの全詩の中から、数編を選んで考えていきたいと思います。

 まず、師である西條八十が、みすずの死を悼み引いた詩、「繭と墓」です。
 「おそらく絶唱といっていい。この謡の気持ちで彼女はあの暗い墓穴に急いだのであろう」と西條八十は書き残しています。
   
   ~♪ 「繭と墓」
   蚕は繭に
   はいります、
   きうくつさうな
   あの繭に。

   けれど蚕は
   うれしかろ、
   蝶々になって
   飛べるのよ。

   人はお墓へ
   はいります、
   暗いさみしい
   あの墓へ。

   そしていい子は
   はねが生え、
   天使になって
   飛べるのよ。   ♪~

  よい子は死んでも天使になって天上に昇ることができる、そのために暗い墓に人は入るのです。アンデルセンなど、西欧のキリスト教思想の影響を受けた、子どもの魂の救済の世界です。彼女も、天に向かって羽ばたけることを夢みていたに違いありません。
  次に、「雪」という詩をみてみましょう。

   ~♪  「雪」
   誰も知らない野の果てで
   青い小鳥が死にました
     さむいさむいくれ方に

   そのなきがらを埋めよとて
   お空は雪を撒きました
     ふかくふかく音もなく

   人は知らねど人里の
   家もおともにたちました
     しろいしろい被衣(かつぎ)着て

   やがてほのぼのあくる朝
   雪はみごとに晴れました
     あおくあおくうつくしく

   ちいさいきれいなたましひの
   神さまのお国へゆくみちを
     ひろくひろくあけようと    ♪~

 誰も知らない野の果てで死んだ青い小鳥。深く音もなく雪がやさしく包んでいきます。人も家も白い衣を着て見送ります。青く晴れた朝、きれいな魂は、神の国へと旅だってゆきます。野の果てに誰にも知られず死んだ自らの魂も、神の国にゆくことができる、彼女の切なる願望であったと思います。

   ~♪ 「木」
   お花が散って
   実が熟れて、

   その実が落ちて
   葉が落ちて、

   それから芽が出て
   花が咲く。

   さうして何べん
   まわったら、
   この木は御用が
   すむか知ら。    ♪~

 御用が終わらないうちに、この世を去ることになった金子みすずさん。
 無事に天の国に着いたでしょうか? あなたの残した詩は、この格差と競争の社会の中で、しっかりと御用を果たしていますよ。ゆっくりお休み下さい。    

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