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2017年2月 4日 (土)

高見順著「死の淵より」を読む③

  退院後に書かれた詩や入院中のメモを整理して書かれたⅢ部を読んでいきます。

 高見さんは、自分の心の中にいるもう一人の自分に激しく問いかけます。もう一人の自分は、果たして敵なのか味方なのか・・・。
  「過去の空間」という詩では、自らの人生で繰り広げられた過去の宴は、いったい何だったのか、もう一人の自分を激しく問いつめます。死によって「過去の空間」は、すべて失われ、否定されていくものなのか、それとも残り続けるのか・・・。

  ~♪ 「過去の空間」
    ・・・・
  その楽しさはすでに過去のものだ
  しかし時間が人とともに消え去っても
  過去が今なお空間として存在している
  私という存在のほかに私の人生が存在するように

  楽しそうでほんとは惨憺たる過去の景色を
  君は私の味方として私に見せまいとするのか
  それとも私の敵として過去の楽しさすら拒みたいのか
  君は私の過去とは別に存在する私の作品なのか 
                     ・・・♪~
  
  しかし、いくら問いかけても結論はありません。時間だけが過ぎてゆきます。
 迫ってくる最後の時間。時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる・・・。
  ~♪ 手ですくった砂が
    痩せ細った指のすきまから洩れるように
    時間がざらざらと私からこぼれる
    残りすくない大事な時間が
            ・・・・
        景色は次第に夕闇に包まれて行く
    砂上に書かれた文字が崩れるように
    すべての盃も姿を消して行き
    時間の洩れる音だけがいそがしく聞えてくる  ♪~

  心の中のもう一人の自分と、激しく対立する高見さん。その対立も、「おれの食道に」で、ようやく終息し、和解へと進んでいきます。「おれの食道に」という詩の全文を一気にみてみましょう。

 ~♪     「おれの食道に」
  おれの食道に
  ガンをうえつけたやつは誰だ
  おれをこの世にうえつけたやつ
  父なる男とおれは会ったことがない
  死んだおやじとおれは遂にこの世で会わずじまいだった
  そんなおれだからガンをうえつけたやつがおれに分らないのも当然か
  きっと誰かおれの敵の仕業にちがいない
  最大の敵だ その敵は誰だ

  おれは一生の間おれ自身をおれの敵としてきた
  おれはおれにとってもっとも憎むべき敵であり
  もっとも戦うに値する敵であり
  常に攻撃しつづけていたい敵であり
  いくらやっつけてもやっつけきれない敵であった
  倒しても倒しても刃向ってくる敵でもあった
  その最大の敵がおれに最後の復讐をこころみるべく
  おれにガンをうえつけたのか

  おれがおれを敵として攻撃しつづけたのは
  敵としてのおれがおれにとって一番攻撃しやすい敵だったからだ
  どんな敵よりも攻撃するのに便利な敵だった
  おれにはもっともいじめやすい敵であった
  手ごたえがありしかも弱い敵だった
  弱いくせに決して降参しない敵だった
  どんなに打ちのめしても立ち直ってくるのはおれの敵がおれ自身だったからだ
  チェーホフにとって彼の血が彼の敵だったように

  アントン・チェーホフの内部に流れている祖先の農奴の血を彼は呪った
  鞭でいくらぶちのめされても反抗することをしない
  反抗を知らない卑屈な農奴の血から
  チェーホフは一生をかけてのがれたいと書いた
  おれもおれの血からのがれたかった
  おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった
  おれはおれ自身からのがれたかった
  おれがおれを敵としたのはそのためだった

  おれは今ガンに倒れ無念やる方ない
  しかも意外に安らかな心なのはあきらめではない
  おれはもう充分戦ってきた
  内部の敵たるおれ自身と戦うとともに
  外部の敵ともぞんぶんに戦ってきた
  だから今おれはもう戦い疲れたというのではない
  おれはこの人生を精一杯生きてきた
  おれの心のやすらぎは生きるのにあきたからではない

  兇暴だったにせよ だから愚かだったにもせよ
  一所懸命に生きてきたおれを
  今はそのまま静かに認めてやりたいのだ
  あるがままのおれを黙って受け入れたいのだ
  あわれみではなく充分にぞんぶんに生きてきたのだと思う
  それにもっと早く気づくべきだったが
  気づくにはやはり今日までの時間が
  あるいは今日の絶体絶命が必要だったのだ

  敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと
  あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと
  こで悔いるのでない
  おれ自身を絶えず敵としてきたための
  おれの人生のこの充実だったとも思う
  充実感が今おれに自己肯定を与える
  おれはおれと戦いながらもそのおれとして生きるほかはなかったのだ
  すなわちこのおれはおれとして死ぬほかはない

  庭の樹木を見よ 松は松
  桜は桜であるようにおれはおれなのだ
  おれはおれ以外の者として生きられはしなかったのだ
  おれなりに生きてきたおれは
  樹木に自己嫌悪はないように
  おれとしておれなりに死んで行くことに満足する
  おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
  安らかにおまえは眼をつぶるがいい           ~♪

 祖先の農奴の血を呪ったアントン・チェーホフのように、私生児という自らの出自と闘ってきた高見さん。
 ~♪おれの度しがたい兇暴は卑屈の裏がえしなのだった/おれはおれ自身からのがれたかった/おれがおれを敵としたのはそのためだった ♪~

  死という絶体絶命の立場に追い込まれた高見さん。自己の中の激しい対立は、やがて和解へと向かいます。
  ~♪ 敵のおれはほんとはおれの味方だったのだと/あるいはおれの敵をおれの味方にすべきだったと・・・♪~
 ~♪ おれはおれに言おう おまえはおまえとしてしっかりよく生きてきた
    安らかにおまえは眼をつぶるがいい ♪~

 ついに、高見さんは心の中の葛藤を乗り越え、ありのままの自分を取り戻し、「おれとしておれなりに死んで行くこと」を決意するのです。
 Ⅲ部の最後に掲げられた詩を読みましょう。自宅の庭を見ながら作られた詩です。天が静かに手の届きそうな近くに降りてきています。
 この詩を読みながらこの本を閉じたいと思います。

 ~♪    「 庭を見ながら」
  草の一
天が今日は実に近い 手のとどきそうな近さだ 草もそれを知っている だから謙虚に葉末を垂らしている
  草の二
 光よ
  山へのぼって探しに行けぬ
  光よ
  草の葉の間にいてはくれぬか
    草の三
 私はいま前後左右すべて生命にかこまれている 庭はなみなみと生命にみちあふれている 鳥の水あびのように私はいま草上で生命のゆあみをする
                   *****
 高見さんは、安らかな死とは「自分との和解」の上に成り立つものであると、教えてくれたように思います。たとえ矛盾や挫折をかかえた自分であるとしても、あるがままの自分を受け入れ、自らを優しく肯定する、つまり自分との和解です。人は、時には喜び、時には重荷を背負い、苦しみ、悩み、不十分にしか生きられません。その不十分さを許し、あるがままの自分を受け入れ和解する、それが安らかな死なのです。
 高見さん、ありがとうございました。

           「死の淵より」を読む①へ → こちら
           「死の淵より」を読む②へ → こちら

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