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2013年10月29日 (火)

私の散歩考

 私は、いつも木津川の土手を散歩しています。辞書で「散歩」を引くと、「気晴らしや健康などのために、ぶらぶら歩くこと。散策。」と出ています。散歩とはいったい何なのでしょうか。私にとっての「散歩」の意味を考えてみました。私の散歩考です。

 現役で働いていた頃は、毎日あくせくして散歩などを意識したことはあまりありません。しかし、退職した今は、たっぷりと時間があります。何処かへ行こうかとも、何をしようかとも考えることなく、急がず、心をゆったりとしてただ歩く、散歩とはなんという贅沢な時間の使い方なのでしょうか。
 今の時期であれば、田んぼには、藁の束が、祈りを込めた地蔵のように立ち並んでいます。あちこちで籾を焼く煙が立ち上ります。風景が、晩秋という季節を優雅に語ってくれています。
 土手に登る坂道を行けば、空は大きく広がり、白い雲が流れていきます。土手の上に立てば遙かに風景が広がり、山は青く、遠く風が渡っていきます。懐かしいような感覚が湧き上がり、少年時代を想い出したりします。
 土手の上に立つ巨木の前では、自分は、ほんの短い時間を生きるただの通行人に過ぎない、という思いに駆られたりします。
  私たちは、いつも風景の中に身を置いています。日常的風景の中で、風景と対話し、自分の存在を確認して生きています。身の回りの自然、身の回りの町の姿、人々の営み、それらの風景と語らい自分の生を確認する作業、これこそが散歩の本質であると思います。

 風景の中を散歩しながら、自己の内面を深く見つめた作家に梶井基次郎がいます。彼は、肺結核にかかり、大成することなく31歳の若さでこの世を去ります。代表作「檸檬」では、不吉な塊に心を押さえつけられた主人公は、京都寺町を散歩中に檸檬を見つけ、一個買います。この檸檬を丸善の美術書の上に置き去りにして店を出ます。そして、この檸檬が、時限爆弾として大爆発することを夢想します。
 梶井は、新鮮で冷ややかな檸檬により、「単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚」という人が本来持つべき感覚をとりもどし、また、この檸檬に「総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さ」を感じとったのです。つまり一個の檸檬の中に、人間が作り出した思想や美術などというものを遙かに超えるものを発見したのです。
 また、「筧の話」という作品の中では、山径を散歩しているとき、筧を流れる幽かな水音を聞きます。その魅力的な水音の中に、「理想の光」と「暗黒の絶望」という二つの相反するものを感じとります。そして、自分が背負わされた宿命について考えるのです。
 「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている。」と。
 梶井基次郎にとって、散歩とは自分の生の意味を確認するものであったと思います。

 一日の長さは24時間と決まっていますが、時間の流れは一様ではないように思います。散歩の中を流れている時間は、実にゆったりと流れているように思えます。きのうには咲いていなかった花に気づき季節の進み方を知る、過ぎ去った日々の中で遊び、過去の友人と語らい、流れていく雲に明日の世界を聞く、散歩の時間は行きつ戻りつ、ゆったりと流れていきます。
 私は、余命を知らされました。一日一日を大切に生きたいと思います。人生に目標を持ち日々努力する生き方が、日々を大切に生きることだと考える人もいるでしょう。しかし、目標を達成できなければ、その人生は挫折であり、逆に目標を達成すれば、自分自身の生きる意味を失うことになる、と考えることもできます。
 私にとって一日一日を大切に生きるとは、ゆるやかに進む時間の中で、静かに心を開き、身の回りの風景と語り合う、そんな時間をたっぷりと過ごすことのように思えます。
 人はいつの間にかこの世に生まれ、ほんの短い時間、風景の中を散歩し、ある日、何もなかったかのように去っていく、人生とはそんな散歩のようなものであると、私には思えます。

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コメント

散歩とは風景の中に身を置き、生を感じ取る時間ですね。言われてみればそうですね。近くの町を散策すると車窓からは見えなかった発見(「風景」)に喜びを感じ取ることが多いです。私は電車の中の風景も好きです。乗客は何もしていないように見えてそれぞれが何かをしているのです…。

投稿: 光石 | 2013年10月30日 (水) 04時03分

光石さん、コメントありがとうございます。

体の自由もきかなくなり、寝たきりになり、世話を受けるだけの存在に
自分が陥ったとき、それでもなお生きる意味はあるのかという問いに
答えようとして、いろいろ考えています。
「散歩考」もその一つの副産物のようなものです。

投稿: 墓石 | 2013年10月30日 (水) 12時35分

墓石さん こんばんは。(*^_^*)

散歩、、、自然の中にゆったりと自然と共に
過ごすのは至福の時ですね。草や木、川の流れ。
また自分も命。共存です。木津川は広々して、
気持ちも大きくなるような。

誰でも人の手を借りなければ生きられ無い時が
来ますが、そんな時も何等か意義があると思い
ます。ゆったりと自然に生きて生きたいですね。

私の場合は、「我が国籍は天国にあり。」です。

投稿: 輝子 | 2013年10月31日 (木) 18時55分

輝子さん、こんばんわ。
コメントありがとうございます。

輝子さんには、信仰というものがあるので、何も迷いは無いですね。
神に生かされている限りは、その生には意味があります。
動くことはできなくなっても、祈りを捧げることはできますね。
私は、いつも悩みながら生きています。
この習性は、最後まで続きそうです。

投稿: 墓石 | 2013年10月31日 (木) 20時09分

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