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2013年8月30日 (金)

私の風景考

  私は、下手くそな風景写真らしきものを趣味で写してきました。しかも、ほとんどは、散歩しながら写した散歩写真のようなものです。時々、自分は何のために写真を写しているのだろうと思ったり、風景とは何だろうと考えたりします。考えても結論はありませんが、現時点で『風景』について考えていることをまとめてみました。

 写真を趣味とする人は、いや趣味としていなくても、人は絶景や景勝を求めます。絶景に加え、霧に包まれた情景や、朝日、夕日の差す瞬間とかのさらに感動的な風景を切り取ろうとします。したがって、『風景』とは、ある場所でのある瞬間に成立するものだと言えそうです。『風景』とは、場所に依存する座標軸の上にあることは間違いなさそうです。当然のことながら、優雅な富士山の見える風景は、富士山の見える場所でしか成立しません。しかし、『風景』を成立させている要素は、それだけでしょうか。

 『風景』に関連するする言葉として『景観』と言う言葉があります。『景観』は見たままの風景です。良い『景観』のことを絶景とか景勝とか言います。『風景』は、『景観』よりももっと広い意味が含まれているように思います。つまりこうです。
           『風景』> 『景観』 > 『 絶景、景勝』
  『景観』や『 絶景、景勝』は、その場所でしか見ることが出来ません。したがって、場所に依存して成立しています。しかし、『風景』を成立させる要素は、場所という座標軸以外に、さらに何かありそうな気がします。私は、それは時間という座標軸ではないかと思います。
 
Fukeiron2  先日写した左の写真を見てください。ただの雲の写真です。写真を少しでも経験したことのある人なら、何だつまらない写真だ、と思うでしょう。しかし、私にとってこの雲は、「ノンちゃんの雲」です。少年時代に読んだ「ノンちゃん雲に乗る」の記憶、少年の頃、憧れを持って見上げていた雲の記憶と重なります。二度と帰らない少年時代。不断に形を変え流れてゆく雲。私にとっては、寂寥感と漂泊感に溢れた『風景』です。このように、『風景』とは、過去の記憶と重なり合いながら、そして未来へと向かいながら成立しているものだと思います。つまり、『風景』は時間軸の上でも成立するものであると思います。しかもこの時の『風景』は、きわめて日常的なありきたりの風景です。
Fukeiron1  「夕焼け空にトンビがくるりと輪を描いた」光景は、高度経済成長の中で故郷を離れ大都市へと流れていった人々にとって、望郷の思いの溢れる『風景』なのです。夕日に赤く染まる校舎は、少年時代や青春時代の記憶と重なり合い、一つの『風景』を成立させています。
  人には、目を閉じたとき初めて見えてくる風景があります。青く霞む故郷の山。吹き渡る風。遙かに続く故郷の海。寄せてくる波。櫻の咲く木造校舎。夏の夜に見上げた天の川。これらの風景は、その時にはありきたりの日常的風景でしたが、時間軸のなかで美しい、いや悲しいかも知れない、結晶のような『風景』となり、心に刻まれています。つまり、これらの風景の中を通り過ぎ、今の私がここにあるのだと思います。
 私たちはいつも日常的風景の中に身を置いています。時に、ありきたりの日常的風景の中に、風景の中を旅する自分自身の姿を発見することがあります。過去の想い出を重ね合わせた風景、今の自分の心を投影した風景、あるいは未来に希望を託す風景、それらの風景の中に佇む自分の姿をです。この時、ありきたりの日常的風景が、意味のある『風景』として心に刻まれていきます。
 場所という座標の上に成立する『 絶景、景勝』は、素晴らしい『風景』の一つです。しかし、時間という座標軸の上に成立する日常的風景もまた、一つの『風景』ではないかと思います。『風景』とは、場所と時間の座標の上に成立する、これが現時点での私の考えです。

 意味不明なことをゴタゴタと書きました。申し訳ないです。
 私は、日常的なありきたりの風景の中を散歩しながら、下手くそな風景写真のようなものを撮り続けています。他の人から見れば意味のない写真かも知れませんが、自分としては十分楽しめています。                       では。  また。

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コメント

墓石さん こんばんは。(*^_^*)

>『風景』とは、場所と時間の座標の上に成立

同感ですね。時に旅に出て、絶景を撮りたいですが、
これはアクまでお遊び。やはり身近な風景と思って
います。よく考えたらこれも感動を残したい為で
しょうか。またストレス発散の為でしょうか。
自然やまた寸景に喜びを見出してる気がします。

同じ風景でも時間により、また季節により全く
違いますよね。だから近くで良いのですよね。

墓石さんは故郷の丹後の海が思い出と共に、目に
焼きついてるでしょうね。私は宇治よりまだ変化
の少ない地ですが、今から思えば朝夕でいい風景を
カメラをやる余裕があれば、ゲット出来たかも?
その余裕は無かったですが。

という私は花ばかり撮ってまして、風景は7年位
です。宇治田原へ野草を撮りに行っていて、ある日、
霧が!
ここは風景も撮れるのでは?と思ったのです。
ネットで旨い人は霧を入れてられるのを知ってる
からなんです。墓石さんの画像は旨いです。
いつも参考にさせて頂いてます。

投稿: 輝子 | 2013年8月30日 (金) 18時50分

輝子さん、こんばんわ。
コメントありがとうございます。

風景とは何か? とか、なぜ写真を写すのか? とか、
いろいろ考えますが、考えるたびに頭が混乱しますね。
まあ、面白いからやっているというのが本音の結論です。
輝子流の花の写真は、いいですね。心の優しさがにじみ出て
いますよ。私には真似はできないです。

城陽の蓮田に行かれたようですね。
私も、マクロレンズや望遠でミツバチが来ている朝のうちに
撮影に行きたいのですが、朝起きられないです。
今日、起きたのは9時前でした。写真は朝が一番と、判っては
いるのですが・・・・。


投稿: 墓石 | 2013年8月30日 (金) 21時05分

墓石さん、おはようございます。「風景」、「景観」の違い、考えさせられました。けしきという意味の他に、情景(状景)、つまり人の心にある感情を起こさせる風景や場面は、時間軸を付け加えて見ている。墓石さんは風景に人物を入れた写真を多く撮られているのも「風景」としてですね。

投稿: 光石 | 2013年9月 4日 (水) 09時28分

光石さん、おはようございます。
コメントありがとうございます。
最近は、雨が降ったりして天気が悪く、引きこもり生活をしています。

写真の中に人物を入れるとき、その人物が自分であるかのような感覚に
とらわれることが多いです。
風景の中に人を入れるのを極度に嫌う人もいるようです。
人を拒絶するが故に美しい、という風景(絶景)もありそうです。
考えると難しいです。

投稿: 墓石 | 2013年9月 4日 (水) 11時35分

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