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2013年2月25日 (月)

【尊厳死について】②

 前回の【尊厳死について】①の続きです。

 交通事故で即死、認知症になって自己が認識できない状態になっての死、病気で痛みに苦しみながらの死。死は、すべての人に、そして、その人その人に特有の状態でやって来ます。いくら考えても、人の死を「尊厳のある死」と「尊厳のない死」に分けることは、不可能であり、無意味です。
「尊厳ある」という形容は、「死」には掛かれないのです。むしろ、「生」に掛かるべき言葉です。「尊厳ある生」なら意味がはっきりします。死に至る最後の一瞬まで、人間らしく苦しみ、喜び、自尊心を持って生きるという意味です。「尊厳ある死」ではなく、「尊厳ある生」です。「最後まで尊厳を失わない生き方」をどう貫くかこそが、問題なのだと思います。「尊厳死」とは、「死に方」の問題ではなく、まさに「生き方」の問題だと思います。

 宗教学者の山折哲雄氏は、次のようなことを述べておられます。(超要約)
 「人生50年の時代から、人生80年の時代に入った現代は、生と死が遠く離され、生と死の間に『老』と『病』が割り込んできた。多くの人は、病に怯え、老いを嘆くばかりだ。現代人は、『老』と『病』にもっと向き合い、死生観のなかで、『老』と『病』の再定義をすることが必要だ。病を得て、老いることこそが、ほんとうに生きて、ほんとうに死ぬことにつながる。」
  山折氏のこの意見は、大いに納得します。『老』と『病』とに正面から向き合い、自分自身の「尊厳ある生」を求めてゆかなければならないのだと思います。

 聖路加国際病院院長の日野原重明氏は、次のように書いておられます。
 「近代医学をもってしても、癌の末期や老い果てた老人には、僅かの対症療法しか提供できないが、その老人に習慣化された根強い真の宗教の信仰さえあれば、それが近代医学に巧みに引き継がれ、それが心の支えともなり、生を美しく終わらせることになるものと思う。科学と宗教の二つの尾根の出会う稜線上から、人の魂が自然に無重力の宇宙に浮揚していく姿を私はイメージするのである。」(現代医学と宗教)
 クリスチャンでもある日野原氏は、「尊厳ある生」に、宗教的心情やヒューマニズムの果たす役割の大きさを強調されています。
 自分の信じる宗教を持つ人も、持たない人も、最期の一瞬まで、「尊厳ある生」を生きたいものです。

 『老』と『病』の問題を考えるとき、私には、先日の次のニュースは無視できないです。
  **産経新聞ニュースより**
 麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。
 また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。 ******

 失言大臣の麻生氏は、失言などではなく、本音で発言する、正直な人かも知れません。
 経済的利潤がすべてに優先する新自由主義的経済政策。新自由主義的な小泉構造改革・地方分権改革で、多くの労働者が非正規雇用へと追いやられ、地方の衰退、地域医療の衰退がもたらされました。その後も、医療分野や福祉・介護の分野でも、利潤を得るための規制緩和が進められようとしています。病院への株式会社参入、混合診療解禁、介護・福祉事業の民営化などです。『老』と『病』をめぐる社会システムの方は、「尊厳ある生」を応援しているとは言えないです。新自由主義的な経済政策により、社会の崩壊が進行しているように思います。

 以上、「尊厳死」について好き勝手を書きました。   では。また。

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