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2012年10月20日 (土)

死とどう向き合うか(2)

 私は、前回書いたように、魂も死後の世界も存在しないと思っています。したがって、宗教による「心の癒やし」も「魂の救済」も受けられないことになります。では、私はどうすればいいのでしょうか?
 【宗教による癒しと救済】
 宗教によって、「癒し」や「救済」がもたらされることを前回書きました。しかし、よく考えると、この道もたやすい道でないことが分かります。
 まず、仏教について考えてみます。仏教は輪廻転生からの解脱を説きます。解脱するためには、「悟り」が必要です。「悟り」を開くには、厳しい修行が必要です。「悟り」への道は厳しく、私のような怠け者には到底無理です。また、どれだけの仏教徒が悟りを開けているのか、疑問が残るところです。日本仏教の宗派の中には、一心に念仏を唱えるだけで極楽浄土に導かれるという宗派もあります。「死んでも極楽に行きたい」。これは究極の煩悩のように思えるのですが・・・。
 キリスト教では、神を真に信じた者のみが、死の恐怖や不安から解放され、「栄光の神」のもとに導かれ、神と共に永遠の命を生きることができます。死は終わりではなく、神の祝福であり、神との始まりの時なのです。
 神は全知全能であり、この世のすべてを動かしています。身の回りに起こるすべてのことは「神の意志」なのです。自分に不都合なことも不幸も、「神の意志」として受け入れ、自分自身の心と生活を、信仰によって、不断に問い直し続ける必要があります。真の信仰の道は、長く厳しいものに思われます。私のような中途半端な人間には、神を疑う気持ちがどこかにあります。神を少しでも疑う気持ちがあれば、死は恐怖であり不安となります。真の信仰がなければ、「救済」はありません。
 結論として、宗教による「癒し」や「救済」の道は、私には無理だと思います。
 【ニーチェの場合】
 では、宗教に頼らない「癒し」の道はあるのでしょうか? 神を否定した哲学者にニーチェがいます。ニーチェについても少し勉強しましたので、書いておきます。
 ニーチェは、宗教を「ルサンチマン(怨嗟)」の産物として否定します。宗教ばかりでなく、科学も、それにつながるすべての価値を否定します。その上に立って、既成概念にとらわれず、「力への意志」のままに生きる完全に自立した「超人」を描き出します。さらに、自分の運命を愛し、すべてを受け入れ、自らを肯定する「アモール・ファティ(運命愛)」に到達します。ニーチェの主張は、結局、自己の人生の全面肯定です。ニーチェは、「静かな死」ではなく、あくまでも強く生きていこうとうと言っているようです。「力への意志」、「永劫回帰」、「大いなる正午」。理解力のない私には、ちょっと難しすぎますね。興味のある方はどうぞ。
  【今の私の考え】
 人は、種の保存という生物的要請により「静かな死」を選ばねばなりません。しかし、生きている限り、もっと生きたいという衝動(本能)を持っています。したがって、死への不安、恐怖、悲しみ、などは人間共通の心理だと思います。すべての人にとって、不安や悲しみでない死は無いと思います。死が楽しみな人などいないと思います。死を恐れ、悲しむ。それは醜いことなのでしょうか?否定されるべきことなのでしょうか? 恐れや悲しみを噛みしめながら生きるのは、むしろ当然のことだと思います。
 私は、不安にさいなまれ、恐怖におののき、我が身を悲しみ、もっともっと生きたいと叫びます。そして、苦しみながらも、時には人として生まれたことを喜び、時には悲しみ、そして生きられるだけを生きます。それ以上の選択肢はありません。それで良いのだと思います。人間とはそのようなものだと思います。 
  百数十億年にわたる不断に続く物質の運動の中で、銀河が生まれ、太陽系が生まれ、人類が生まれ、私がいます。そして、不断に続く物質の運動の中で、私は嘆き、悲しみながら消滅します。やがて、人類も太陽系も銀河さえもが消滅していきます。人間も宇宙も、そのような存在であると、私は確信します。

  以上、長くなりましたが、私の考えていることです。考えは、いろいろ変化すると思います。その時は、また書きますので・・・。   それでは。 また。

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コメント

墓石さん おはようございます。(*^_^*)

墓石さんの気持ちも良く解るのです。私も仏教とキリスト教の違いをブログに書きたいのですが、何しろ能力の無い人間でしょ。一応日本は仏教徒が多いとされてますね。何処まで皆さん、解ってるかは知らないですが、私も過っては皆がやってるから拝むという感じでおりました。疑問はいつも感じつつ、、、

地獄、極楽というのとキリストで言うゲヘナ、天国とがなぜよく似てるのか?ある僧侶から牧師になられた本で大よそ解りました。

釈迦の教えと今の仏教は余りにも違うでしょ。釈迦はこの世の哲学。多神教でも何でもない。それが仏の種類が多く、教祖が信仰の対象になっている。空海が留学生として中国の長安で学びましたね。長安には景教(キリスト教)が栄えていました。空海はその影響を受け、創造主を「大日如来」としたのです。大日は創造者なる神。真言宗といいますよね。真言は聖書の「真理の言葉」です。だから地獄、極楽も伝えています。キリスト教からの仏教への影響です。しかし曲げられ今日に色んな宗派になっています。輪廻転生や修業して悟りをひらく。人間悟りで救われないですよ。

キリスト教の教理もよく解ってられ感心します。これって信じるか信じないかであって、信じさせて頂けるのは修行でも良い心でも何でもなく、自分の醜い罪が解り、イエスを信じるだけなんです。

幼子の様に素直に「イエス様、私の醜さを御赦し下さい。あなたを信じます。私の全てをあなたにお委ねします。」と告白するだけなのです。

私も小さい時から体が弱い方でいつも「死」の恐怖がありました。全ての人はそうだと思います。以前なんて死を思えば、ドーとする位です。段々と「イエス様、私の命を取られてもかまいません。私は永遠の命という最も素晴らしいものを与えられてますから。」と言える様になりました。

十字架の贖いと復活を「死」を覚悟で弟子達が広い世界に述べ伝えて行った事。聖書の預言が全て成就されて来たことを考えると、信じられます。嘘ならどうして死を覚悟で弟子達は伝えに行くでしょう。パウロもペテロも
十字架で処刑されています。十字架は最も極刑なのです。

人は皆完全な人は皆無。不完全だから、そして空しいから救いを求めるのですよ。心にガードを皆張り巡らせて生きてますよね。自分が醜い存在なんて誰が解りましょう。ほんの少数なんです。私は藁おも掴む思いで救いを求めて行きました。弱さもまた益なんですよ。

偉そうな事書いてごめんなさいね。「救い」を待ち望んでいます。

投稿: 輝子 | 2012年10月22日 (月) 10時17分

輝子さん、こんばんわ。
コメントを頂きありがとうございます。

 日本のクリスチャンの方は、現世利益にとらわれず、高い精神性を持った方が
多く、文学や絵画や教育など様々な分野で活躍されてきたと思います。今、私は
八木重吉と室生犀星の詩集を買ってきて読んでいます。この人たちもクリスチャ
ンだったと思います。心が透明になっていくような気がします。
 輝子さんのブログをいつも拝見させていただいていますが、クリスチャンの方
は、こんな場合は、こう考えられるのだとか、いろいろ勉強させていただいてい
ます。輝子さんは、心から信じられる神に導かれ、感謝に満ちた生活を送ってお
られ、大変素晴らしいと思います。うらやましいです。
 輝子さんは、「幼子の様に素直に・・・・告白するだけなのです。」と、いと
も簡単そうに述べられていますが、これが、私のような凡人には、とてつもなく
難しいんです。幼子のようにはなれないんです。心のガードも固いままですね。
それに、私の頭の中には、いろいろな人が住み着いていて、いろいろ好き勝手な
意見を言っています。最近住み着こうとしたニーチェさんは、追い出すことに
成功しましたが・・・。
 この先、「救い」への道は、まだまだ長そうです。ありがとうございます。

投稿: 墓石 | 2012年10月22日 (月) 20時33分

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