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2009年8月20日 (木)

戸塚洋二氏のブログを読む(4)

 戸塚氏は、宗教による救済の道を選びませんでした。では、彼は唯物論的な思考により、死への恐れを克服することができたのでしょうか? 今日は、その部分を読み解きます。

 ★何とか死の恐れを克服する、いってみれば諦めの境地はないのだろうか。そのような境地を無論見つけてはいませんが、上の理由を超克する諦めの考えが一つ二つ思い浮かぶことはあります。
・幸い子どもたちが立派に成長した。親からもらった遺伝子の一部を次の世代に引き継ぐことが出来た。「時間とともに進む世界でほんの少しだが痕跡を残して消える」ことになるが、種の保存にささやかな貢献をすることが出来た。
・もっとニヒルになることもある。私にとって、早い死といっても、健常者と比べて10年から20年の違いではないか。みなと一緒だ、恐れるほどのことはない。
・さらにニヒルに。宇宙や万物は、何もないところから生成し、そして、いずれは消滅・死を迎える。遠い未来の話だが、「自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく」が、決してそれが永遠に続くことはない。いずれは万物も死に絶えるのだから、恐れることはない。
 後の二つはちょっと情けない考えですが、一蓮托生の哲学によって気が休まります。(2008.2.10 戸塚洋二)

 以上にみるように、唯物論的な思考により「気が休まります。」と述べられています。しかし、それは、「ちょっと情けない考え」「一蓮托生の哲学」として、彼にとっては充実した確信とはなっていません。いったい、それは何故なのでしょうか? この日のブログの最後の言葉にヒントがあります。

 ★結局、充実した人生を送るための糧はまだ見つかっていません。。(2008.2.10 戸塚洋二)

 つまり、彼は、死に直面しながらも尚、「充実した人生を送る糧」を求め苦悩していたのです。決して、死に対して悟ることを求め、苦悩していた訳ではないのです。彼には、あくまでも、どう生きるかが問題だったのです。そうであるからこそ、彼は、正岡子規の「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。」という言葉に強く惹かれたのだと思います。そして、彼は、生きていくためのささやかな生活信条を残しています。

 ★まず、根底にある考えは、「恥ずかしい死に方をしたくない」が出発点でした。
 弱い人間ですから、やることは簡単です(難しいですが)。
①「恐れ」の考えを徹底的に避ける。ちょっとでも恐れが浮かんだら他の考えに強制的に変える。
②「自己の死」の考えが浮かんだら他の考えに強制的に変える。死は自分だけに来るのではない。すべての人間にくる。年齢にもよるが、死の訪れは、高々10~20年の差だ。その間の世界がどうしても生きて見なければならない価値があるとは思わない。
③自分が「がん」になった理由はすべて自分にある(私の場合は)。自分以外を決して恨まない。
④まだできなくて困っていることが一つ。妻につい愚痴を言ってしまい、彼女を精神的に追い詰めてしまう。これを克服しなければ。(2008.4.29戸塚洋二)

 妻への深い愛情。残された命を淡々と生きようとする戸塚氏。これから2ヶ月後、彼は亡くなります。彼は、何か大きな悟りを開いたわけではありません。しかし、何故か、私には深く共感できるのです。   戸塚洋二ブログはこちらから。

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