2017年5月22日 (月)

定期診察(131)・2回目の輸血

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日2錠だったロキソニンが3錠に近づいています。つまり1錠で12時間もたないです。
 貧血症状も相変わらずです。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.6でした。
   前回より0.4増加です。しかし、息切れなどの貧血症状は酷くなっています。
      ということで、今回は2回目の輸血決定。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
      やはり再度の骨髄検査が必要という判断に。次回の予定ですが、その前に
   白血病のマーカー検査(?)をしてから判断するとのことです。
   検査の説明がありましたが、記憶が定かでないです。     記憶力低下?
    「T2??・・タンパク質の量を調べる?・・・・検査。・・・?」
      貧血は認知症を引き起こす? あり得るかも?  最近、言葉が出てこない!

    ★血小板数は、いよいよ一桁の9万/μlに減少です。

  ★貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。

 中央処置室という部屋で輸血を受けたのですが、輸血や点滴のためにやって来る患者の声、看護師さんの指示する声、器具の音。何か夢の中にいるようで、騒音を子守歌に少し寝られました。軽くて小さい本を用意していましたが、今回も無駄になりました。
                        では。また。

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2017年5月20日 (土)

二十四節気「小満」2017

 5月21日は、二十四節気の一つ「小満」です。初夏のまぶしい光があふれ、生き物たちの命が輝く季節となりました。ついこの前まで寒い風が吹いていたような気がするのに、もう季節はどんどん進んでいるのですね。

 体調が悪くて散歩に出られない私は、初夏の木津川土手に思いを馳せています。
 土手の榎の巨木も、きっと今頃は、緑の葉をいっぱいに広げ、涼しい影をつくっているだろうなと…。この巨木のことを思うと、いろいろな想いが湧き上がってきます。
 最初にこの巨木に出会ったのはいつのことだったか? 木と空と雲が対話していることを知ったのはいつのことだったか? 何故私は、老いることを嘆き、病を恐れ、あくせくと日々を生きているのか? いろいろ思いは尽きないです。

  詩人の長田弘さんは、巨木のでてくる詩をいくつか書いておられます。
 ~♪ ひときわ枝々をゆたかにひろげて、やわらかな影を落としてきた一本の大きな欅の木。……うつくしい樹冠をもつ、孤高の木。……
 たった一本、これほどにも高い欅の木がそこに在るという、ただそれだけの爽快な事実。ただ在るというだけのことが、その木のように潔く存在することであると知ることは、日々のなぐさめだ。……  ♪~   (独り立つ木)

 ~♪ ……生きるとは時間をかけて生きることだ。人はどうして、森の外で、いつも時間がないというふうにばかり生きようとするのか。古い森の奥の大きな樟の木の老人は何も言わず、ただ黙って、そこにじっと立っていた。♪~   (森の奥の楠の木)

 では、初夏の木津川土手の大榎に会いに行きましょう。そして、無言で語り合いましょう。巨木と空と雲と……。   ただし、パソコン上でですが……。
   2016年の「小満」後半へのリンクは → こちら 
      2015年の「小満」続きへのリンクは → こちら 
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  今の時期の土手は、植物たちがあふれています。ネズミムギの穂が初夏の風に揺れ、あふれる光を乱反射してキラキラと輝いています。実りを終えたカラスムギの白い穂が揺れています。間もなく麦秋と呼ばれる時期です。
 アカツメグサ、ミヤコグサ、ニワゼキショウ、ヒメコバンソウ。土手の斜面は、野の草が花盛りです。
 土手下の茶畑では、茶摘みが真っ盛りです。茶摘みの人が土手をゆきます。
 ああ、ほんとに良い季節になりました。
 そんな木津川土手に出かけましょう。 ただし、パソコン上ですが……。
      2016年の「小満」へのリンクは → こちら
      2013年の「小満」へのリンクは → こちら 
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2017年5月17日 (水)

平田雅博(著)・英語の帝国 感想

  平田雅博(著)・「英語の帝国」~ある島国の言語の1500年史 ~(講談社選書)~を読みましたので、紹介させていただきます。平田雅博氏は、青山学院大学史学科教授。
 この本は、イングランド島という一島国の言語に過ぎなかった「英語」が、現在のような世界支配を確立していく1500年の歴史を検証しています。そして今、日本で起こっている「英語熱」、小学校での英語教科化や低年齢化などに警鐘を鳴らしています。
 現代日本の英語教育をかんがえる時、この本は必読と言えそうです。

Ujit01 「英語の帝国」は、中世イングランドによる、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの侵略に始まります。これらのブリテン諸島の国々を支配下に置き、イングランド帝国が出来上がりました。
 さらに近代に入りイングランド帝国は、「ブリテン帝国」(大英帝国)として世界的に帝国を建設していきました。これとともに、「英語の帝国」は拡大していきました。
 その拡大は、左の図のようになります。(クリックすると拡大します。)
 まず、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど、「母語としての英語」を話している人々が中核となります。
 さらに、植民地の拡大競争によりインド、アフリカなど、大英帝国やアメリカに植民地化された国々へと英語は広がっていきます。図の「外郭の円」。
 さらに十九世紀以後は、「非公式帝国」としてラテンアメリカ、中東、そして日本を含む極東にまでその支配圏が広がっていきました。図の「膨張する円」。

 「英語の帝国」は勢力を拡大していく過程で、支配拡大のための様々な原理(戦略)を獲得していきます。その一つは、使用言語の違いを利用した分断支配です。
 まず、上からの英語押しつけ政策で、英語話者に経済的・社会的な優位性が与えられる仕組みを作ります。この仕組みが機能を始めれば、経済的ゆとりのある者は英語を学び有利な地位を得ていき、それができないものは不利な立場に追いやられ、格差社会は広がっていきます。社会的・経済的利益を得させようと親たちは、子どもには英語を獲得させようと必死になっていきます。
「上からの強制」と「下からの迎合」により、植民地的言語支配が進んでいくのです。

 例えば、ウェールズは16世紀の「連合法」により、イングランドに併合されます。この連合法の中には言語条項があり、行政的に英語の使用が義務づけられ、英語に習熟していないものは官職に就けなくなったのです。ジェントリ(地主階級)の師弟は、イングランドで英語を学び社会的地位を獲得していきました。一方ウェールズ語は、地方の小作人の言語として緩やかに衰退をたどっていくことになるのです。

 19世紀の「帝国主義」の拡大により、英語は教育システムとして、「帝国支配」の言語として広がっていきました。支配者側(宗主国側)からの「強制」と、被支配者側からの「迎合」という原理は、ここでも活用されました。
 インドでは、公的な使用言語がペルシャ語から英語に置き換わり、インド人が政府ポストに就くときは、英語教育を受けた者の優先が決められました。さらに主要な都市に国立大学が作られ、英語で授業がおこなわれたため、英語教育は進みました。
 ガンジーは、「英語は、教養層と大衆を隔てる深い溝であり、インドの国民語になり得ない。」と、英語反対論をとなえましたが、しかし、子どもの将来を考え就職を有利にしようとする親たちが多数派でした。2003年時点で、英語が自由に話せるインド人は、5000万人に達しています。

 アフリカでは、「アフリカ人は英語を必要としている」として、一方的、暴力的に英語の押しつけが進行しました。スワヒリ語や多数の現地語は「近代的な、抽象的な思考」を表現できないと見なされ、教育機関から追放されていきました。
 1961年にウガンダのマケレレで、「第二言語としての英語教育」についてのブリテン連邦会議が開かれました。この会議をまとめた報告書が、「マケレレ報告」です。この報告の中で注目されるのが、次のような「信条」です。

 ①英語は英語で教えるのがもっともよい。
 ②理想的な英語教師は英語を母語とする話者である。
 ③英語学習の開始は早いにこしたことはない。
 ④英語に接する時間は長いにこしたことはない。
 ⑤英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる。
 
 これらの信条は、第ニ外国語を学習するための教育的理論から生み出されたものではなく、英語を一方的に押しつけるために「英語の帝国」の歴史が生み出した「前理論」であるといいます。これらの信条は、教育的な理論的背景が明確でないまま、当然のことのように言われ、現在の日本でも英語学習の低年齢化の根拠となっています。

  最後は、膨張する円の中にいる日本の英語教育についてです。
  文部科学省は、2014年に有識者会議を設置し、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」を作成しました。この計画に基づいて、今年2017年3月、新指導要領が告示されました。
 小学3.4年生で、「聞く・話す」を中心に週一時間の体験的学習、5.6年生には、週二時間の「読み・書き」を加えた教科としての学習が入ります。
 中学校では、英語の授業は英語でおこなうことを「基本」とするとしています。
 これらはまさに、「マケレレ報告」の日本適用版ともいえます。

 著者は、現代の英語帝国主義は、アメリカが主導する帝国主義であると述べています。アメリカが主導する「新自由主義」による「グローバル化」が世界を覆い、これに呼応して日本の財界は「英語教育改革」を唱えて、「グローバル化」=「アメリカ化」に都合のよい日本人=「グローバル人材」の育成を目ざしていると…。
 この「グローバル人材」を育てるための教育改革は、膨大な予算を伴う国家プロジェクトです。限られた授業時間と予算の中で、小学校に英語を導入することが、本当に経済的に意味のあることなのか国民的議論が必要です。現代日本の「英語熱」は異常であり、日本人は、早く目を覚ますべきであると著者は警告しています。
       *********
 小学校への英語導入については、反対の学者も多くいます。愛知県立大の袖川裕美氏は、小学の年間35~70時間程度の英語なら、大人になれば短期間にマスターできると言います。外国語が母語以上になることはあり得ず、国語力が低いままでは、英語も使えなくなります。国語の作文の時間を増やす方が大切であると主張しています。
 国民的議論が必要な問題であることは確かですね。 

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2017年5月12日 (金)

立原道造の詩を読む

 夭逝の詩人はどのように死と向き合ったのでしょうか? 今回は、僅か24歳でこの世を去った立原道造です。(このシリーズ今回が最終回です。)
 私は高校生の頃、立原道造をずっと愛読していました。私にとって最も思い入れの深い詩人です。田舎の純朴な高校生だった私にとって、立原道造が歌う甘美で、都会的な抒情をたたえたソネットは、最高のもののように感じられていました。

 では、立原道造の年譜を簡単に見ていきます。
  ★1914年(大正3年):東京市日本橋に生まれる。
 ★1931年(昭和6年)17歳:第一高等学校入学。短歌などを作り始める。
 ★1934年(昭和8年)20歳:東京帝国大学建築家入学。信州追分で詩人たちと交流。以後詩や随筆などを発表。ソネット形式の詩を愛好するようになる。
  ★1937年(昭和12年)23歳:東大卒業設計で辰野金吾賞受賞。建築家としても将来を嘱望される。建築事務所に就職。処女詩集「萱草に寄す」刊行。
肋膜を発症。信州追分で静養。詩集「暁と夕の詩」刊行。
 ★1938年(昭和13年)24歳:病気をおして東北地方に旅行。奈良、京都、山陰、九州へ旅行。喀血。東京の病院で恋人から献身的看護を受けるも、翌1939年2月、24歳で息をひきとる。

  年譜を見れば分かるように、彼が詩を作った期間は僅か4年ほど。この僅かな期間に彼は、精巧なガラス細工のように組み立てられた美しいソネットを作りました。
 今の若者は、あまり立原道造を知らないとか? ウーン、あり得ますね。
 まずは立原道造を知らない人のために、彼の詩の中で最も読まれている詩集「萱草に寄す」から、冒頭の詩を紹介してみます。

  ~♪ 「はじめてのものに 」
   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ――人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた  ♪~

 どうでしたか? 「エリーザベトの物語」。これは、シュトルムの「みずうみ」という短編です。愛し合いながらも永遠の別れを告げてゆく、悲しい男女の物語です。私世代の純情な若者には、よく読まれていたと思います。
 彼の詩は、映像と音楽の世界です。この詩の第一連は、浅間山の小噴火、悲しい追憶の地(追分)の提示に始まり、第二連は、溢れる光や声がよく響く空間の中で、愛し合う二人へと次第にズームアップされていきます。第三連目で、一転して曲は転調し、愛への懐疑、淡い不安が提示されます。そして、第四連目で、私たちは、火の山の物語や、シュトルムの「みずうみ」に描かれた永遠の別離の世界へと誘われて行きます。
 彼の詩は、時間軸と空間軸からなる時空の中を美しく流れ、ズームアップや転調を経て、観念的な抒情の世界へと読者を誘う映像や音楽であると言えます。

 ではもう一つ、詩集「優しき歌」の「また落葉林で」という作品で、彼の詩の魅力=「時空を流れる映像生、音楽性、ズームアップ、転調、抒情の世界への飛躍」をもう少し具体的にみてみましょう。
  ~♪ 「また落葉林で」
   いつの間に もう秋! 昨日は
  夏だつた……おだやかな陽気な
  陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
  ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

  おまへが私のところからかへつて行つたときに
  あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
  そしていま おまへは 告げてよこす
  私らは別離に耐へることが出来る と

  澄んだ空に 大きなひびきが
  鳴りわたる 出発のやうに
  私は雲を見る 私はとほい山脈(やまなみ)を見る

  おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
  しかしすでに 離れはじめた ふたつの眼ざし……
  かへつて来て みたす日は いつかへり来る?        ♪~

第一連は、夏から秋へと時間軸の上を移動しながら、秋の草のざわめきへとズームアップしていきます。
第二連では、空間軸はそのままに、時間軸上を移動し薄い紫の花へズームアップ。そして、曲は流れるように現在の別離の世界へと帰ってきます。
第三連目では、曲は突然転調し、澄んだ空、雲、遠い山脈へと視線が向かいます。
第四連は、別れた女性が、空や山脈を見ることを想像する永遠の別離の世界です。
 彼の詩を読む人は、死を運命づけられた作者が奏でる音楽に導かれ、淡い悲哀と永遠の別離の抒情的世界へと誘われていくのです…。(下手くそな解説で申し訳ないです。)

 立原道造は、死とどのように向き合ったのでしょうか。死が訪れたその年、彼は東北地方へと旅立ちます。そこで歌われた詩、「唄」を、私は彼の絶唱として推薦します。

  ~♪ 「唄」
  林檎の木に 赤い実の
  熟れているのを 私は見た
  高い高い空に 鳶が飛び
  雲がながれるのを 私は見た
  太陽が 樹木のあひだをてらしていた

  そして 林の中で 一日中
  わたしはうたをうたっていた

  ああ私は生きられる
  私は生きられる・・・
  私はよい時をえらんだ            ♪~

 優しい言葉の繰り返しと巧みな配列。リンゴの赤い実の熟れているのを「見た」。
 「高い高い空に」雲が流れているのを「見た」。樹木の間にあふれる光。
 「ああ 私は生きられる 私は生きられる 私は よい時をえらんだ」
 まさに、生きられることへのよろこび、生命への賛歌ですね。
 彼は、病魔に苦しみながら死んでいったというよりは、抒情の中に魂をくるみ、最後まで生きられるよろこびに漬されながら、この世を旅立ったのではないかと思います。
 彼は、見舞いに訪れた人に、「五月のそよ風をゼリーにくるんでもってきて下さい」と頼んだそうです。彼は五月のそよ風に吹かれることなく、24歳の二月、この世を後にしました。

 若い頃愛読していましたので、少し礼賛的評価をしてしまいましたが、現代の社会を生きる今の私にとって、もう少し言っておかねばならないことがあります。
  立原道造の生きた時代は、戦争へと進んでいく時代でした。彼の亡くなる前年、昭和13年には、「国家総動員法」が成立しています。多くの文学者や詩人は、体制翼賛へと駆り出されていきました。彼の場合はどうだったのでしょうか。
 立原の詩に、民族主義的傾向を持ちナチスを礼賛した芳賀檀氏に捧げた、「 何處へ?」という詩ががあります。
    ~♪  「何處へ?」
  深夜 もう眠れない
  寢床のなかに 私は聞く
  大きな鳥が 飛び立つのを
  ――どこへ?‥‥

  吼えるやうな 羽搏きは
  私の心のへりを 縫ひながら
  眞暗に凍つた 大氣に
  ジグザグに罅(ひび)をいらす
 
  優しい夕ぐれとする對話を
  鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――
  夜は眼が見えないといふのに
 
  星すらが すでに光らない深い淵を
  鳥は旅立つ――(耳をそばだてた私の魂は
  答のない問ひだ)――どこへ?      ♪~

  大きな鳥は、吼えるやうな羽搏きで立原に迫ります。彼は、自らの抒情の世界にジグザグに入った罅(ひび)を認識します。彼は、過去の自らの抒情を否定しつつ、星すらが光らない深い淵を旅立つのです。答えのないまま……。どこへ…?
 彼は、どこへ飛び立とうとしていたのでしょうか? ナチスを礼賛する道? いろんな解釈がありますが、彼の早すぎる死で、それは謎として残されともいえます。
 現在の日本は急速に右傾化してきています。否定されたはずの教育勅語が公然と復活を始め、治安維持法にも匹敵する共謀罪法案が成立しようとしています。教育現場では銃剣道という殺傷技術が、指導要領に登場するという時代状況です。
 観念的、閉鎖的な抒情性の中に埋没することは、過去に歩んだ道を再び歩むことになる危険を孕んでいることは確かです。     では。また。

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2017年5月 8日 (月)

定期診察(130)・今のまま様子を

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは今回も電車で向かいました。貧血症状は酷いものの、前回より少しマシでした。輸血効果がまだ残っているようです。

  最近の症状ですが、骨の痛みはだんだん酷くなってきています。一日1錠で済んでいたロキソニンが、最近では2錠に増えました。ロキソニンを財布の中に常備しているという状態です。

 今日の診察は、私にとって少々決意をもって臨みました。前回、医師より入院を勧められ、おまけに、「発熱と骨の痛みについて、白血病への転化や骨髄の癌化の可能性が考えられるので、近く骨髄の検査をもう一度やりましょう。」という発言もありました。検査の日取りが決められ、検査の結果、もし異常があれば、極めて私の命の期限は限られてしまうことになります。何となく気が重くて、決意のいる診察でした。判決を待つ被告の心境ですね。判決を受けたことは無いですが…。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンはHb=6.2でした。
   「これなら、今日予約していた輸血は中止にします。」
   ということで、輸血の予約は次回に延ばすことに。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについては、
       「ロキソニンで痛みを抑えて、このまま様子をみましょう。」でした。

   アレレレ!?  前回とは打って変わったこの緊迫感の無さ!?

   「痛みの間隔も狭くなり、ロキソニンの量も増えているのですが……?
          検査の予定などは?・・・」
   「直近に白血病の検査はしているし、……。しばらくこのまま様子をみる
      ということで、検査は急がなくてもいいと思いますよ。」

 以上のように、このまま様子をみるというのが結論です。
  貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠です。
 今日の輸血は次回に延期で、輸血に備えて片手で読める、軽くて小さい本を用意していましたが無駄になりました。
 決意をもって診察に臨んだのですが、空振りに終わりましたね。ちょっとホッとしたという気持ちもあります。主治医と患者の間に壁を感じる診察でした。
 痛みと貧血に悩まされる日々は、このまま続きます。
  では。また。

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2017年5月 5日 (金)

二十四節気「立夏」2017

 5月5日は、二十四節気の一つ「立夏」です。いよいよ夏の始まりの日です。
新緑。さわやかな五月の風。空を泳ぐ鯉のぼり。白い雲。いい季節になりましたね。

 5月2日は、体調が少し良かったこともあり、良い天気に誘われて宇治田原方面を車で走ってみました。5月2日は八十八夜でしたね。
 この時期には、茶畑に行きたかったのですがちょっと体力的に無理そうです。ここは、我慢して過去の茶畑の写真をリンクしておきます。
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   ★2012年の「宇治田原・和束茶畑」へのリンクは → こちら

 宇治田原方面では、田植えも盛んでした。水の張られた田んぼ。木々の新緑。柿の若葉が眩しいです。今回2枚だけ撮りました。(最初の2枚)
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   ★2013年の「新緑の宇治田原散歩」へのリンクは → こちら

  田原川のボタン桜は終わりかけでした。残念。カラシナは満開でした。
 最初の2枚が、今年の写真です。
Ujit02Ujit03Rikka2017005  

 

 

 

   ★2012年の「田原川の八重桜」へのリンクは → こちら

 この時期、藤の花が咲いていますが、写真にできるような藤には出会えませんでしたので、過去のリンクで見て下さい。
 ★2013年の「藤の花」へのリンクは → こちら
Rikka2017006Rikka2017008Rikka2017007  

 

 

 

   今回は、木津川土手へは行けていません。
 五月の風の中で、木津川土手の草花と遊びたい方は、次のリンクへどうぞ。
 ★2016年「立夏」へのリンクは → こちら
 ★2016年「立夏」追加へのリンクは → こちら 
Rikka2017009Rikka2017010Rikka2017011  

 

 

 

 

  ★2015年「立夏」へのリンクは → こちら 
  ★2014年「立夏」へのリンクは → こちら 
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2017年5月 1日 (月)

中原中也の詩を読む

  夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか、今回は中原中也をみていきます。夭逝の詩人から中原中也を外すことはできませんね。
 中原中也の詩は、中学校や高校の教科書でもよく取り扱われていて、近代詩への入り口となっています。若い人の中にファンも多いですね。詩人や研究者の方の評論もたくさん出されています。今更、一読者である素人が、稚拙な何かを言うのも畏れ多いことですが、それはそれで、素人なりに思ったままをズバリと書いてみます。 我流「中也」論。

 まず、年譜により、彼の生涯の概略を確認してみます。
★1907年(明治40年)
 山口で生まれる。父は軍医で、後に中原医院を開く。
★1923年(大正12年):16歳
 文学熱が高じ、怠学により落第。家族で協議の結果、京都の立命館中学に転校。
  京都で長谷川泰子と同棲。詩や小説に没頭する。
★1925年(大正14年):18歳
  長谷川泰子と共に上京。東京での詩作の日々が始まる。
 小林秀雄、高橋新吉、草野心平、河上徹太郎、萩原朔太郎らと交流。
★1933年(昭和8年):26歳
  遠縁の上野孝子と結婚。
  翌年、長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版。詩人としての評価も高まる。
★1936年(昭和11年):29歳
  長男文也、小児結核で死去。
★1937年(昭和12年):30歳
  「在りし日の歌」の原稿完成。結核性脳膜炎で死去。

 中也の実家は医者で、裕福な家庭の出身です。その後、彼は一生実家から援助を受け続け、生活のためにあくせく働き、世間に揉まれて生きることもありませんでした。17歳で女と同棲を始めたりして、世間一般からみれば、文学に狂った放蕩息子という感じです。逆に、良く言えば、あくせくせす純粋に詩に没頭した詩人だったといえます。
 中也にとって詩人とは、生活のためにあくせくと雑事に追われる世俗とは一線を画した、精神的特権階級だったと思います。そのため、彼は世間を高みから傍観したり、世間にとけ込めない孤独感を感じていたと思われます。「正午」という詩ををみてみましょう。
  ~♪ 「正午 ~丸ビル風景~」      (在りし日の歌)
   あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
   ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
   あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
   大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
   空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
   ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
   なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
    ・・・・
   空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな   ♪~

 この詩は、高みから世間を見下ろす中也の視点や彼の持つ孤立感、漂泊感の溢れた詩です。 次に、「倦怠」という詩をみてみましょう。
  ~♪ 「倦怠」        (生前発表詩篇)
   倦怠の谷間に落つる
   この真ッ白い光は、
   私の心を悲しませ、
   私の心を苦しくする。
    ・・・・
   たちまちにそれは心を石と化し
   人はただ寝ころぶより仕方もないのだ
   同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
   悔いながらにかぞえなければならないのだ。
    ・・・・              ♪~

 世間や外界に対して果たされずに過ぎる義務の数々。世間からの孤立感が、彼にもたらしたものは「倦怠」です。彼の詩の中に流れる主要なテーマの一つが、「倦怠」です。
 彼は、世俗との抵抗しがたい苦闘の中で、どうしようもない倦怠感を抱いていたのです。家計を営む生活者ではない、霞を喰って生きるような詩人の負い目でしょうか。
 実家に金銭的に頼らねばならない負い目、成功できない負い目、彼にとって故郷もまた、閉ざされていました。「帰郷」と「黄昏」という詩をみてみましょう。
   ~♪ 「帰郷」        (山羊の歌)
   ・・・・
  これが私の故里だ
  さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ     ♪~

  ~♪ 「黄昏」          (山羊の歌)
   ・・・・
  なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
  草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
  畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

  ――つひに私は耕やさうとは思はない!
  ぢいつとぼんやり黄昏の中に立つて、
  なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 何も成し遂げられない自分。父親に対する負い目。彼にとって過去とは、疲れたような懐かしさや後悔の堆積する空間でした。よく知られた「頑是ない歌」でも、~♪思へば遠く来たもんだ/ 十二の冬のあの夕べ/ 港の空に鳴り響いた/ 汽笛の湯気は今いづこ・・・・と、過ぎ去った過去を後悔の念と漂泊感を滲ませながら詠います。
 このように、彼の心は、周囲に対しても過去に対しても閉ざされていました。彼は、この心の閉鎖空間の中で、「悲しみ」を詠いました。彼の詩の中に流れる主要なテーマの二つ目が、「悲しみ」です。よく知られた詩、「汚れつちまつた悲しみに……」を読みましょう。
  ~♪「汚れつちまつた悲しみに……」   (山羊の歌)
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

   汚れつちまつた悲しみは
   たとへば狐の革裘
   汚れつちまつた悲しみは
   小雪のかかつてちぢこまる

   汚れつちまつた悲しみは
   なにのぞむなくねがふなく
   汚れつちまつた悲しみは
   倦怠のうちに死を夢む

   汚れつちまつた悲しみに
   いたいたしくも怖気づき
   汚れつちまつた悲しみに
   なすところもなく日は暮れる……      ♪~

 「倦怠のうちに死を夢む」。いったいこの悲しみは、どんな悲しみなのでしょうか。どんな汚れなのでしょうか。誰が汚したのしょうか。「なすところもなく日は暮れる……」。すべては受身形の悲しみです。彼の悲しみは、閉ざされた心の中を漂うばかりです。
 また、彼の心は、未来に対しても閉ざされていました。「わが半生」をみてみます。
   ~♪ 「わが半生」        (在りし日の歌)
      ・・・・ 
   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。       ~♪

 出口の無い閉ざされた心の中の「悲しみ」と「倦怠」。過去、未来、周囲、すべての方向に閉ざされた心の世界で、彼は心の中にもう一人の自分であるピエロを住まわせることにより、心のバランスをとり自らの心を慰めていたと思われます。
  ~♪ 「幻影」        (在りし日の歌)
   私の頭の中には、いつの頃からか、
   薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
   それは、紗の服なんかを着込んで、
   そして、月光を浴びてゐるのでした。
         ・・・・    ♪~

   ~♪ 「骨」
   ホラホラ、これが僕の骨だ、
   生きてゐた時の苦労にみちた
   あのけがらはしい肉を破つて、
   しらじらと雨に洗はれ、
   ヌックと出た、骨の尖さき。
        ・・・・
      故郷ふるさとの小川のへりに、
   半ばは枯れた草に立つて、
   見てゐるのは、――僕?
   恰度立札ほどの高さに、
   骨はしらじらととんがつてゐる。    ♪~

 離人症に罹ったかのように心を分離させ、もう一人の自分であるピエロを心の中に住まわせ、故郷に骨となって立ち尽くしている自分自身を見た詩人。閉ざされた心の中で、「悲しみ」と「倦怠」を詠った詩人。中原中也は、昭和12年、わずか30歳の若さでこの世を去りました。

 昭和12年といえば、廬溝橋事件。日本は戦争の時代へと突入していきます。多くの詩人は大政翼賛へと転向していきました。そんな時代の中で、社会に対し心の扉を閉ざし、自己を心の閉鎖空間の中に沈潜させていった若者・中原中也は生きていたのです。
 今また、中也の詩が若者の心をとらえているといいます。就活競争。非正規労働。個がバラバラにされる競争社会。自己責任社会。青春に挫折し、心を病む若者がいる限り、中也の詩は今後も読み継がれていくと思います。
 では、最後に彼の「志」を微かに感じさせる詩で、締めくくりたいと思います。
  ~♪ 「月夜の浜辺」
   月夜の晩に、ボタンが一つ
   波打際に、落ちてゐた。

   それを拾つて、役立てようと
   僕は思つたわけでもないが
   なぜだかそれを捨てるに忍びず
   僕はそれを、袂に入れた。
        ・・・・
   月夜の晩に、拾つたボタンは
   どうしてそれが、捨てられようか?    ♪~

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2017年4月28日 (金)

故郷の父母の墓参り

 先日の定期診察は、私にとっては、ちょっと重要な意味がありました。
 まず、初めて輸血をうけました。輸血前がHb=5.6という状態だったため、輸血後は急に貧血症状が良くなったように思われました。
  毎日必ず発熱して体の骨が痛み出し、歩行も困難という症状について、私はものすごく異常性を感じていましたが、そのことについて医師の言葉がありました。
  「白血病への転化又は、骨髄のがん(骨髄腫)の可能性!」
  検査はこれからですが、もしこのことが正しければ、私に残された時間は極めて限られていることは明らかです。まあ、そうでなくても限られているんですけどね…。
 現時点では、輸血で貧血が少し改善し、骨の痛みは痛み止めで抑えることができています。この機会を逃すことはないですね。体が動ける間に父母の墓参りに行かねば・・・・。善は急げです。

  昨日、思い切って車で故郷、丹後半島を目ざしました。故郷の風景や親類、墓の中の父や母に最後のお別れを言うつもりです。

 人には、人それぞれに故郷があります。
 中原中也の「帰郷」では、挫折感と漂泊感を滲ませ次のように歌います。
   ~♪ ・・・・
      これが私の故里だ
      さやかにも風も吹いている
      ・・・・
      ああ おまえはなにをして来たのだと・・・・
      吹き来る風が私に云う       ♪~

 室尾犀星の「小景異情」は有名ですね。
   ~♪ ふるさとは遠きにありて思うもの
      そして悲しくうたうもの
            ・・・・                   ♪~

 井上靖は散文詩「ふるさと」の中で、~♪私の最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。
 ”ふるさと”はまことに”ちちははの国”なのである。
 ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。♪~  と詠っています。

 私の場合は、井上靖氏の「ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。」に大いに共感します。
 私は6人兄弟の末っ子だっために、多くの兄弟にまぎれて親孝行など考えたこともなかったです。初めての給料で親に何かプレゼントしたでしょうか。していません。親の誕生日なども意識したことはないです。母の日も…。親の愛を受け取るだけ受け取って、お返しは無しです。両親は何を思っていたのでしょう。考えると情けない気分です。

 昼頃海岸に到着しました。
 石室古墳がある岬の上では、ハマダイコンが出迎えてくれました。
 眼下に見えるのが「立岩」。海岸に立つ故郷のランドマークです。
 犬ヶ岬。三角形の岩が特徴的。子どものころからの見慣れた目印。
 墓に到着。花と線香を供えてお祈り。目を閉じて、脳裏に浮かぶ父と母に対面。
 この後、実家に寄り食事を頂きました。
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  出発の時、町はずれの浜に夕日が沈みます。
  懺悔の一日は静かに終わっていきます。
  私は、父と母から許されたのでしょうか? 
  脳裏に浮かんだ父と   母は何故か無言。
  吹き去る風は何も云ってはくれません。

 

   ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの」。なのでしょうか?
ただ、後悔…。懺悔…。

 体の疲労度から言えば、かなり無謀な計画でした。   では。また。

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2017年4月24日 (月)

定期診察(129)・輸血初体験

 今日はKS病院血液内科の定期診察でした。病院へは、今回も電車で向かいました。貧血症状が酷いので、駅の階段、病院へ向かう坂道など、ほとんど山登り状態でした。
 前回より、貧血症状はますます進んできました。指先が白くなりピリピリと痛みがあることがよくあります。体をちょっと動かしただけで、口で息をしてしまいます。

 さて、診察結果です。
  ★ヘモグロビンは、Hb=5.6でした。輸血必要ラインをかなり割ってしまいました。問診、触診の後、主治医の発した言葉は予想していませんでした。
   「入院してもらえますか?」
 輸血は覚悟していましたが入院とは!!  驚いて口ごもってしまいました。
 自分が何を話したのかよく自覚しないまま、話しの成り行きとして結論は、入院ではなく、外来で対応することになりました。

  ★膝や足、背中の骨が異常に痛み、38℃を超える発熱があることについて、さりげない言葉がありました。さりげなく聞いていましたが、後で考えると重要でした。
 「発熱と骨の痛みについて、白血病への転化や骨髄の癌化の可能性が考えられるので、近く骨髄の検査をもう一度やりましょう。」
 主治医が入院と言ったのは、これらの検査を含めて、「入院」という話しの流れであることが、後で冷静になって考えて分かりました。
 予期せぬことを言われると人は動揺しますね。
 積極的に入院に同意すればよかったのかな?
 しかし、他の病気への転化が分かったとしても、治療法は確立していないので、予後は大して変わらないと思いますね。
 いよいよ病気も大詰めという感じですかね。

     ★貧血がひどいので、ジャカビは一日1錠に減量です。

  【輸血初体験】
   予期していたとおり、輸血をしました。赤血球の成分輸血です。
 ☆主治医より、輸血による副作用の説明がありました。
  B・C型肝炎、エイズ、溶血反応、アレルギー・・など。数万回に1回の確率。
    発熱とじんま疹は、よくある副作用だそうです。などなど。 うわの空?
  同意書に署名しました。
 ☆三ヶ月後に、感染症の検査があるそうです。
 ☆輸血のための採血検査がありました。結果が出るまで待たされました。
 ☆輸血の点滴は、2時間ほどで終了しました。何もすることが無くもの凄く暇。
 ☆体の方は劇的に楽になりました。帰りはスタコラ電車で帰りました。
  駅の階段の息切れ感から推測すると、たぶんHb=7くらいに回復したかな?
  その後体調の変化は無しです。     
                   では。また。

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2017年4月21日 (金)

二十四節気「穀雨」2017

 4月20日は、二十四節気の一つ「穀雨」でした。
 穀雨の頃は、変りやすい春の天気も次第に安定し、日差しも強くなってきます。柔らかな春の雨が降り、田んぼや畑の農作業も忙しくなってきます。
  ソメイヨシノなどの桜は終了し、遅咲きの八重桜の咲く頃です。
 土手では、黄色いカラシナの花が土手の斜面で風に揺れる頃です。

  「穀雨」の前日、無理をして宇治川の天ヶ瀬ダム湖周辺を車で走ってみました。足が痛くて少々痺れていますが、いつもよりは少しマシです。貧血症状のため、車を置いて、歩いて被写体を探すのは無理です。車の近傍のみ。当然ですが、妻の監視付きです。

 ダム湖をとりまく山の斜面は、春が少し遅れてやってきます。まだ山桜が残っていました。多くの木々が、芽を吹き始めています。間もなく新緑の時期ですね。
 芽吹く木々。青い湖面。。杉木立の中に山桜。
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   芽吹く木々の間に山桜。新緑に向かう山々。もう、新緑があふれる立夏の季節が始まっています。季節はどんどん進んでいきます。人を置き去りにして…。
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   停車したのは二ヶ所のみ。早々と引き揚げです。もう少し体調が良くなれば、撮影を楽しめると思いますが、今のところこれぐらいですね。早く横になりたい気分です。

 一応以下に、過去の「穀雨」へのリンクも貼っておきます。
  ★2016年の「穀雨」へのリンク → こちら
 土手には黄色いカラシナが満開です。
 キンポウゲやスイバ、ノアザミたちも
 立夏を目ざして広がってきました。
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  ★2016年の「穀雨」追加へのリンク → こちら
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  野の花特集。マツバウンラン。
  山吹の花。ミヤコグサ。
  ヘラオオバコ。待宵草など。

 

 

  ★2015年の「穀雨」へのリンク → こちら
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  八重桜も満開に。
  桜が終われば土手はカラシナの世界。
    寺田芋の植え付け準備。

 

 

  ★2015年の「穀雨」追加へのリンク → こちら
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  木津川土手のカラシナ。
  古川のカラシナ。
  鴻ノ巣山の八重桜。落花。

 

 

  ★2014年の「穀雨」へのリンク → こちら
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  井出の玉川の山吹。
  カラシナ。
  鴻ノ巣山の八重桜。 

 

 

 

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2017年4月17日 (月)

山村暮鳥の詩を読む

 夭逝の詩人は、どのように死と向き合ったのでしょうか? 今回の夭逝詩人は、山村暮鳥をとり上げてみます。
 山村暮鳥を知らない日本人は少ないと思います。私と同世代の人は、名前くらいは必ず知っています。小学校の国語の教科書に、次の詩が取り上げられていました。
 ~♪ 「風景」
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ   ⇒☆
いちめんのなのはな

二連目の☆の部分では、「 ひばりのおしやべり」
三連目の☆の部分では、「 やめるはひるのつき」と少し変化するだけ。
 視覚的効果もねらった詩です。広々とした菜の花畑に、かすかな麦笛の音、ひばりの囀り、空には薄白く昼の月。静かな広がりの中にくっきりとした動的添景表現ですね。

  また、彼の最後の詩集『雲』もよく知られています。二つばかり紹介します。
   ~♪ 「雲」
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる       ♪~

 ~♪ 「雲」
おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか  ♪~

 山村暮鳥は、キリスト教の伝道師でした。「いちめんのなのはな」と詩集『雲』のイメージから、暮鳥は、信仰深いクリスチャンで、自然を愛する自然派詩人と思っている人もいると思いますが、それは少し違います。
 では、彼の生涯を年譜で概観しながら、作品を確認していきましょう。

 ★1884年 明治17年
  群馬県生れ。本名は土田八九十(つちだ・はつくじゅう)。複雑で貧しい家庭に生まれ、小作農の働き手をはじめとして、様々な職業を転々とながら底辺生活を送る。
  ★1903年 19歳
 東京府築地の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。 ひそかに詩を作り始める。
  ★1910年 26歳
 自由詩社同人となり、官能謳歌的詩を発表し、上級牧師より警告を受ける。
  ★1913年 30歳
 愛欲的傾向の『三人の処女』発表。萩原朔太郎、室生犀星らと「人魚詩社」設立。
  ★1915年  32歳
 詩集『聖三稜玻璃』を出版。極端な象徴派的な異色の詩。悪評を受ける。
  ★1918年  35歳
 この年、結核のため喀血する。詩風は一変し、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な傾向を強める。 『風は草木にささやいた』を発表。 
 翌年、結核のため伝道師を休職。
  ★1922年 39歳
 神を糾弾する『梢の巣にて』を刊行。
  ★1924年  40歳
 茨城県大洗町で死去。『雲』を編集。(死後一年後に出版)

 山村暮鳥はキリスト教の伝道師でありながら、彼の詩は、信仰とかけ離れた人間的欲望に根ざしたものでした。上級牧師より警告を受けたり、敬虔な信者から反発されたりしてトラブルにもなりました。詩集『聖三稜玻璃』からほんの少し一節を。
 ~♪ 「囈語」           *囈語 ←うわごと
 ・・・・
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
墮胎陰影
騷擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。  ♪~

  人間の犯罪とそれから直感される言葉を並べた言葉遊びです。姦淫、殺人、墮胎……、いくら言葉遊びでも、聖職者としてこれはちょっとアウトでしょう。
 その後、暮鳥は作風を一変。今度は、自然と人間への賛歌を歌いあげる人間主義・人道主義というべき作風へと変化します。『風は草木にささやいた』より、一つだけ紹介してみます。大地と人間への賛歌です。
 ~♪ 「此處で人間は大きくなるのだ」
とつとつと脈うつ大地
その上で農夫はなにかかんがへる
此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか
雨あがり
しつとりとしめつた大地の感觸
あまりに大きな此の幸福
どつしりとからだも太れ
見ろ
なんといふ豐富さだ
此の青青とした穀物畑
このふつくりとした畝畝
このひろびろとしたところで人間は大きくなるのだ
おお脈うち脈うつ大地の健康
大槌で打つやうな美である      ♪~

 やがて、結核のため伝道師を休職します。そして、彼は神との訣別、神を糾弾する詩集『梢の巣にて』を発表します。この中の長編詩『荘厳なる苦悩者の頌栄』の一節を書き出してみましょう。
 ~♪ 荘厳なる苦悩者の頌栄
 ・・・・
神様
人間は自主です
もうあなたの奴隷ではありません
此の貴い崇高い力のうへに立つた人間
御覧ください
この人間のかゞやかしさを
光りかゞやく人間を
まるで神様です
 ・・・・
人間はめざめました
あなたはもう消えてなくならなければなりません
けれど神様
真のあなたである神様
理想としての神様
それをわたしはわれわれ人間にみつけました
眼ざめた人間がそれです
あなたに咀はれた此の大地を
ともかくも楽園とした人間です
その人間です
おゝ新しい神様                 ♪~

 神に呪われたこの大地を、ともかくも楽園としたのは人間であると…。もうかなり言いたい放題ですね。
 クリスチャン詩人八木重吉は、神に付き従うことにより、信仰と詩の矛盾を統一し、「宗教的自然派詩人」となりました。
 暮鳥は逆に、神を捨てるることにより、自然賛歌・人道主義へと到達したのです。詩集『雲』の世界は、信仰と人間主義を彼なりに統一した世界と言えます。彼は神から自立し、静かで心安らかな世界に到達したのです。
 人間派・自然派詩人、暮鳥の最後の詩集『雲』より、2つばかり紹介します。
  ~♪ 「ある時」
宗教などといふものは
もとよりないのだ
ひよろりと
天をさした一本の紫苑よ     ♪~

    ~♪ 「ある時」
またひぐらしのなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ           ♪~

 神から自立し、ひょろりと天をさした一本の紫苑。山村暮鳥はカナカナの声を聞きながら、どこかにあるいい国へと旅立ちました。 40歳でした。

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2017年4月14日 (金)

桜散歩 ~パソコン上で~

 桜が満開の時期だというのに、曇りの日が続き、おまけに先日は、かなりの雨も降りました。昨日と今日は、朝からよい天気でしたが、体調がイマイチで撮影には出られそうにありません。私にとって、今年の桜は終わったようなものです。
 そこで、パソコン上で過去に撮影した桜で花見をすることにしました。

    ~♪ さまざまの 事おもひ出す 桜かな ♪~

  これは、松尾芭蕉の句ですね。人は、その人それぞれに想い出の桜があります。みなさんは、どんな桜が頭をよぎりますか。
 石川啄木は、桜をどのように歌ったのでしょうか? ちょっと興味が湧いて、岩波文庫「啄木歌集」に載せられている歌、数百首全部を検索してみました。ほとんど見つからないですね。やっと見つけた一首です。啄木は桜嫌いだった?
    ~♪ 花咲かば 楽しからむと思ひしに 楽しくもなし 花は咲けども ♪~
 貧困と苦しい闘病生活の中にあった死の前年の作ですね。 花より病苦?

  では、パソコン上の花見に出かけます。最初は、やはり木津川土手ですかね。
  ①「遙かな鉄路」。富野鉄橋を電車が行きます。手をつなぐ母と子が見ています。
  ②「高いたか~い桜」。桜見物の家族。子どもはどこでも主役。
  ③「夕桜」。夕日に輝いて、落花に手をさしのべる女性。
       ~♪うちとけて 我にちる也 夕ざくら ♪~     (高井几董)
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   宇治田原町高尾です。高尾は霧の名所です。田原川から霧が湧いてきます。
  ①「山里に咲く」。霧の湧く小さな山里。小鳥の囀り。静寂。
  ②「霧の中に咲く」。空を指す杉木立。谷筋をから湧き上がる霧。
  ③「ライトライン」。向かいの山の斜面に咲く山桜。逆光で輝いています。
     ~♪桜花 いのち一ぱいに咲くからに 生命をかけて わが眺めたり♪~(かの子)
   岡本かの子さん、命をかけて眺める桜ってどんなんですか? もしか恋の歌?
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   京都府南部最大(?)の桜名所、背割り堤。宇治川、木津川、桂川の三川合流地点。
  ①「春の休日」。のんびりと堤を散歩する家族。  
  ②「金色の道」。道も桜も黄金色に。背割り堤の夕刻。
  ③「春の黄昏」。暮れてゆく背割り堤。遠く木津川の流れ。
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   次は、宇治川上流の天ヶ瀬ダム湖です。
  ①「春の放水」。天ヶ瀬ダムの春の放水です。雪解け水の水量調節。
  ②「光る風」。春風が、湖面に春の光を撒き散らし、吹き渡っていきます。
  ③「沸き立つ霧」。湖面から霧が沸き立ち、山の斜面を駆け上がります。
      ~♪桜花ちりぢりにしも わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ♪~(迢空)
        今春知り合いが亡くなりました。
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   家の近くの鴻ノ巣山の桜と三ツ葉ツツジの競演。
  ①「競演」。三ツ葉ツツジと桜の競演。
  ②「躑躅道」。山頂をめざして登る二人。薄紫の花。続く道。
  ③「一休み」。昼寝から起きたところ? 
     ~♪春風の 花を散らすと見る夢の さめても胸の さわぐなりけり♪~(西行)
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   お終いは、宇治田原の里桜(八重桜)。八重桜は遅咲きですね。これからです。
    ~♪花にちる 人の心を引きとめて  しばしおくるる 八重桜花♪~(伊藤左千夫)
  ①「散歩道」。土手の道を車椅子で散歩です。介護中。
  ②「休日の子どもたち」。遊歩道をゆく子どもたち。どこへ?
  ③「八重桜の頃」。この時期は田植えの頃。夕日が沈むまで作業。
          ~♪ 日は高く 人それぞれに 桜かな ♪~   では。また。
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